第6話 その名前で、請求書を書きます
ユーグ様は、私の店には入ってこなかった。
職人組合の奥の部屋で向き合うと、まず窓を見て、それから私の服を見た。
工房の上着だった。
袖口には今朝磨いた真鍮の粉が残っている。
「その格好で来たのか」
「仕事の話ですので」
私は鞄を膝へ置いた。
組合の立会人と、侯爵家の家令が机の両側に座る。
公爵には来ていただかなかった。
代わりに、帰ったら話を聞いてくださいと頼んである。
立会人が最初の紙を開いた。
「返却を求める工具を、まず指定してください」
ユーグ様は、私の鞄を見た。
「彼女が使っている物だ。うちの工房で使っていた」
「使った場所ではなく、品物の持ち主の確認です」
家令が、気まずそうに書類を出す。
侯爵家の備品一覧に、私のやすりも鑷子もなかった。
残してきた細工台には印があり、工房の室内に現存することも確認されている。
私の注文帳は、それより古い日付だった。
母が注文した品を研いでいた職人の受取票もある。
「工具の返還請求は撤回します」
家令が言った。
ユーグ様は椅子の背にもたれたが、反対はしなかった。
私の胸から、少し重いものが落ちる。
次は、部品代だった。
私が黙って買い足したねじ。試運転で割れた魔力石の台座。古い装置に合わせて取り寄せた細い針。
一つずつは小さな金額でも、三年分を足すと軽くはなかった。
「これは、君が好きで直していたのだろう」
ユーグ様が言う。
私は、以前ならうなずいていたと思う。
役に立つのがうれしかったのは本当だから。
「好きで引き受けた仕事もあります。でも、部品代をあとで支払うと言われた物は、別です」
受取票の裏には、彼の走り書きがあった。
費用は後日清算。
私はその文字を、何度も大切に見返していた。
支払いの約束というより、私を必要としてくれた証のように。
今は、紙に書かれた意味のまま扱いたかった。
家令が手元の記録と照合する。
すぐ支払える分と、購入先へ確認する分が分かれた。
支払日と、確認の返答日を書いてもらう。
全部が一度に解決するわけではなかった。
それでも、曖昧な「そのうち」より、日付の入った紙はずっと頼もしかった。
最後に、私の名前の話になった。
「修理した装置を、侯爵家が販売したことについては異存ありません。私が売った品ではありませんから」
私は帳面を開いた。
「ただ、製作者の説明と、修理した者の説明を混ぜないでください。私が調整した箇所まで、侯爵家の工房が考案したことになっている品があります」
家令が顔を上げた。
広間に置かれた音楽時計の名前を挙げると、分かったようだった。
「あれは、当家の贈答品です」
「はい。だから、贈った方の名は変えず、修理の記録だけ訂正してください」
ユーグ様が机を指で叩いた。
「そんなに自分の名が欲しいのか」
私は、あの屋敷で何度も待った夕方を思い出した。
仕事を終えたあと、お茶に呼ばれるかと思って、道具を片づける手をわざと遅くした。
結局、裏口から帰った。
「はい」
答えると、彼の指が止まった。
「私は、私の名で仕事を続けたいんです」
家令が、訂正する記録をまとめ始めた。
今日の話とは別に、製作工程の守秘については対象の装置を明記した書面を改めて出すことになった。
何もかも家の秘密だと言われて、この先ずっと道具を握れなくなることは避けられた。
立会人が私に確認する。
「請求書の差出人は?」
「ベルネット修理店、ミラ・ベルネットでお願いします」
言い終えると、隣の家令がそのまま書いた。
誰も、侯爵家の婚約者とは付け足さなかった。
*
廊下へ出たところで、ユーグ様に呼び止められた。
「待ってくれ。君は、以前はそんな言い方をしなかった」
振り返る。
彼は本当に困っているようだった。
怒っている私より、何を考えているか分からない私の方が扱いにくいのかもしれない。
「以前は、言わなくても分かっていただけると思っていました」
「だったら、もっと早く」
私は首を振った。
「今日の返事は、今日からのためにいただきました。昔に戻るためではありません」
彼が何か言う前に、礼をした。
胸はまだ痛んだ。
痛むからといって、帰る道を間違える必要はなかった。
店では、公爵が約束どおり待っていた。
ノエルさんと一緒に、部品箱の札を外から読んでいる。
勝手に引き出しを開けず、ただ妙に真剣な顔をしているのがおかしかった。
「お待たせしました」
彼は私の顔を見て、手帳を開いた。
『どうでしたか』
「工具は、私の物だと確認できました。部品代も、いつまでに支払うか決まりました。仕事の記録も、訂正していただけます」
一つずつ言うと、一つずつうなずいてくれる。
私は最後に、請求書の控えを机へ置いた。
「自分の名前で、書いてもらいました」
公爵は紙をじっと見た。
そのあと手帳へ、丁寧に一行を書いた。
『おかえりなさい、ベルネット修理店のミラさん』
目の奥が熱くなった。
名を呼ばれただけなのに、今日一日が報われた気がした。
「ただいま戻りました」
私は工房の上着を脱がずに、店の内側へ入った。
夕方の鈴が、今度はきれいに鳴った。




