第4話 一文字の返事と、二人分の焼き菓子
鈴の修理に、私は六日かけた。
実際に工具を当てていた時間は、半刻にもならない。
その半刻を取るのが難しかった。
扉の蝶番を調整していると時計のお客様が来て、昼食の前に針を磨いていると配達が来る。夕方には、取れた金具を拾うためだけに床を這う羽目になった。
ようやく鈴が鳴った時、隣からサラさんが顔を出した。
「直ったの?」
「たぶん。もう一回、開けていただけますか」
鳴った。
閉めて、また開ける。
鳴った。
「おめでとう。じゃあ、ついでにこれも」
彼女が持ってきたのは、茶葉を量る秤だった。
片方の皿が傾いている。
「無料のお祝いではないわよ。いつものお客として頼みたいの」
私は受け取り票を出した。
隣人だからと料金を曖昧にしかけた口を、そっと閉じる。
「部品を見てから、お見積もりします」
「よろしく」
その時、直したばかりの鈴が鳴った。
公爵が戸口に立っていた。
約束の曜日は明日だ。
「あ、今日は――」
彼は小さな包みと手帳を、順に持ち上げた。
『修理の依頼ではありません』
サラさんが私を見た。
それから彼を見て、秤の見積もりは明日でいいわと言った。
その声が妙に弾んでいるのは、気のせいだと思うことにした。
公爵の包みには、焼き菓子が二つ入っていた。
薄い紙の上に、砂糖をまとった小さな輪。
『市場の角で、焼きたてだと言われました』
「ご自分で買われたんですか」
彼はうなずいた。
後ろのノエルさんが、ほんの少し胸を張っている。
『注文を書いている間に、売り切れそうになりました』
私はすぐに、あの店の忙しい朝を思い浮かべた。
焼けた天板が出ると、道まで人があふれる。
「次は、数を指で示しても伝わりますよ」
公爵は片手を上げ、指を二本立てた。
私は笑ってしまった。
「そうです。……いえ、私が注文を取ってどうするんでしょう」
彼も肩を揺らした。
笑う時、左の目尻が先に下がる。
そんなことを覚えている自分に気づき、私は急いで湯を沸かしに行った。
サラさんの茶葉を二杯分。
欠けていない茶器も、二つある。
母の残した揃いの器を棚から出すと、ひどく改まったことをしている気がした。
「ノエルさんの分も――」
「私は外で馬を見てまいります」
返事が早かった。
馬車の馬は御者が見ているはずだが、呼び止める間もなく扉が閉まる。
鈴が鳴って、店が二人きりになった。
公爵は作業台の前で立っていた。
丸椅子を出そうとすると、彼は私の手元の秤を指した。
『続けてください。邪魔をしに来たのではありません』
「お茶の間だけでしたら。金属の粉が飛びますから、お菓子は向こうへ」
私たちは窓辺の細長い台へ移った。
焼き菓子は、まだ指先に温かかった。
「公爵様は、甘い物がお好きなんですね」
彼は手帳を開き、何かを長く書こうとした。
それから私を見て、筆先を止めた。
新しい頁の真ん中に、一文字だけ。
『はい』
飾りのない返事だった。
私はほっとして、自分も輪の菓子をひと口かじった。
「私もです」
好きな物を尋ねられて、試されていると思わなかったのは久しぶりだった。
手帳を横へ置いている間、彼は何も説明しなくてよい顔をしていた。私は菓子の紙を小さく折り、お茶を注ぎ足した。会話が途切れても、その時間を埋めるためだけの質問を探さずに済んだ。
窓の外を荷車が通り、二人で同じ音へ目を向ける。それだけでも、一緒に過ごしているのだと分かった。
侯爵家の宴では、砂糖を多く使う菓子を選ぶと子どもっぽいと言われ、苦い物を選べば分かったふりだと笑われた。
公爵は私が何を選ぶかより、菓子が焼けている中心の方を気にしていた。
そこが、いちばんおいしいのだ。
お茶を飲んでいるうちに、私は秤の話をした。
どうして片方だけが傾くのか、見当はついている。けれど、安い部品に替えると皿の重さが変わる。
「直すより、代わりの品を買った方が安いことも多いんです」
彼はうなずいた。
手帳を私の方へ寄せる。
『それでも、残したい物があります』
「はい。でも、持ち主が替えると決めたら、それも止めたくなくて」
私の母は何でも直した。
使わなくなった道具まで取っておくから、家を片づける時は泣くより先に疲れた。
思い出は大切だ。でも、すべてを持っていける人ばかりではない。
公爵はしばらく考えた。
『あなたが、私の母の録音を全部直せると言わなかった理由が、分かった気がします』
顔が熱くなる。
腕の良さをほめられるより、その言葉の方がうれしかった。
戸口の鈴が鳴った。
今度は客ではなく、配達の少年だった。
「ベルネットさん、侯爵家から。受け取りの印を」
卓上の甘い香りに、冷たいものが混じった気がした。
ユーグ様の家の封蝋。
手を伸ばしかけた私の横で、公爵が立った。
けれど、封書には触れなかった。
『開ける間、席を外しましょうか』
私はその字を読んで、ゆっくり息を吸った。
「いいえ。いていただけますか」
彼はうなずいた。
ただ隣の椅子に座り直し、私が封を切るまで待ってくれた。




