第3話 公爵様にも、順番を守っていただきます
約束の日、公爵は開店の鐘より少し早くやって来た。
私も、いつもより少し早く戸を開けていた。
作業台の上には蓄音機と、修理を終えた部品が並んでいる。捨ててしまう前に、どこが傷んでいたか持ち主に見てもらうためだ。
公爵は外套を脱ぎ、私が差し出した小さな椅子に座った。
「昨日までの大雨が嘘みたいですね」
言ってから、世間話をしている自分に気づいた。
彼は窓を見てうなずき、手帳に書いた。
『今日は、箱を濡らさずに持って帰れます』
箱の方を先に心配する人なのだと、私はまた思った。
修理の説明は短くした。
細い針を支える腕を作り直し、傷のある溝では針が落ちないよう、持ち上げる仕掛けを加えた。欠けたところは、欠けたまま残っている。
「無音になる箇所があります。そこに音を足してはいません」
公爵はうなずいた。
ノエルさんが扉の近くへ下がる。私は彼にも席を勧めたが、彼は主人の手元を見てから静かに首を振った。
公爵が私の隣の椅子に目を向けた。
約束を思い出し、私も座る。
歯車が回った。
ピアノが鳴り、女の人が椅子を気にして笑った。
小さな男の子が、もう座っている、と答えた。
ああ、と思った。
母親の声だけではない。
彼自身の声も、ここに残っていたのだ。
歌が始まる。
確かに少し、音程が外れている。
公爵の唇が動いた。声は出ない。ただ、その歌に合わせて、息だけがゆっくりほどけていく。
途中、短い沈黙が入った。
針が欠けた溝を越え、また歌が戻る。
私は仕掛けを確かめたくて台に目を近づけかけ、やめた。
今は、修理した物を持ち主へ返す時間だった。
『七歳のお誕生日、おめでとう』
最後に、母親がそう言った。
男の子が何か言いかけて、笑った。
そこで円盤は終わった。
公爵は膝の上で手を重ねていた。
その指が一度だけ、強く組み合わされた。
私は何も尋ねなかった。
しばらくして、彼が手帳を差し出す。
『私は、この日のことを全部覚えていると思っていました』
次の行へ鉛筆が動く。
『母の歌が下手だったことだけ、忘れていました』
顔を上げると、彼は笑っていた。
涙が一筋、頬に残っている。
「それなら、直さなくてよかったです」
私が答えると、彼は声を出さずにもう一度笑った。
*
修理伝票に受け取りの署名をいただく。
料金は見積もりどおり。先に受け取った調査料を引いた残額を、ノエルさんが小袋から数えた。
公爵の家令だからといって、銅貨を数える時まで優雅なわけではないらしい。
最後の一枚を探す指が少し慌てて、私は肩の力が抜けた。
「お預かりしました。ありがとうございます」
領収書を渡して終わり、のはずだった。
ノエルさんが、別の紙を出すまでは。
「閣下から、継続してお仕事をご依頼できないかと」
紙には公爵家の印があった。
住み込み。専属修理師。
その下の金額を見て、私は息を止めた。
この店の家賃を心配せずに済む。冬の石炭も、工具の買い替えも。
心が揺れた。
だから、すぐに返事をしなかった。
「専属ですと、ほかのお客様のお品は?」
「原則として、公爵家のご依頼を優先していただくことになります」
昨日、直った小鳥時計を見ていた老婦人を思い出した。
彼女が次に故障させた時、私はここにいない。
銀貨一枚にはならない仕事でも、その人にはほかに頼める場所がないかもしれない。
「申し訳ありません。専属ではお受けできません」
ノエルさんは目を瞬かせた。
私は急いで続けた。
「仕事を断りたいのではないんです。この店を続けながらでしたら、一件ずつ、ぜひ」
公爵が紙を引き寄せた。
私を見る。その視線には怒りも、落胆も見えなかった。
ただ、考えている顔だった。
『週に一度、修理の相談を持って来てもよいですか』
「はい。ただ、急ぎのお品でも、先にお預かりしたお品のあとになります」
言い過ぎただろうか。
不安になる私の前で、公爵が新しい一行を書いた。
『では、公爵にも順番札をください』
思わず、吹き出してしまった。
彼の目元もゆるむ。
私は依頼帳の空いた行を指した。
今ある仕事、次に来てもらえる曜日、部品の取り寄せにかかる日数。公爵もノエルさんも、私の説明を途中で遮らなかった。
紙の文言を改めると、今度は私も署名した。
大きな家の中へ引き取られる契約ではない。
私の店の戸を、繰り返し開けてもらう約束だった。
帰り際、公爵が店の鈴を見上げた。
昨日から時々、鳴らなくなっている。
開店したばかりの修理店としては、少し情けない。
『これは、何番目ですか』
手帳の文字を見て、私は壁の依頼札を数えた。
「五番目です。店の物なので、あと回しにしてしまって」
彼は何か書きかけ、消した。
そのまま手帳を閉じる。
私は、代わりに直してやるとも、すぐ買い替えろとも言われなかったことに、ほっとしていた。
次の週、彼がまた来る。
その時には、この鈴も鳴るようにしておきたかった。




