第2話 最初のお客様は、返事を待ってくれる
公爵が帰ったあと、私は店の戸を閉め、蓄音機を作業台の中央に置いた。
調査料の銅貨五枚が、帳面の横で光っている。
何度見ても、ただの銅貨だった。
公爵のお金なら特別な紋章でもあるかと思った自分が、少し恥ずかしい。
蓄音機の底には、古い修理票が貼られていた。
針の交換。魔力石の研磨。接点調整。
どれにも、修理不能の赤い印が押されている。
私は灯りを寄せた。
確かに、針を替えるだけでは直らない。
円盤に刻まれた溝の縁が、途中から白く曇っている。再生針がそこへ届くと、溝の上を跳ねてしまうのだ。
傷を削れば、その場所に残る音まで消える。
母ならどうしただろう。
考えて、すぐにやめた。
母なら、まず埃を払いなさいと言うに決まっている。
柔らかい刷毛を取り、ラッパの内側から手をつけた。
*
翌朝、小鳥時計を受け取りに来た老婦人は、青い鳥が鳴くたびにうなずいた。
「二度鳴くのね。昔から、十二時だけ二度なの」
「歯車を替えても、そこは直していません。お話をうかがった時、いつも二度だとおっしゃったので」
「ええ。夫がね、一度じゃ私が振り向かないからって」
老婦人は小鳥の扉を閉め、時計を胸に抱えた。
受け取った修理代で、今日はパンが買える。
私も頭を下げたくなるくらい、ありがたかった。
彼女が帰ると、入口でサラさんが手を振った。
「今の人、うちへ寄って、あなたの店のことを三回ほめていったわ」
「お茶を買われたんですか」
「買わなかった。ほめるだけほめて帰った」
笑っているうちに、向かいの道へ馬車が止まった。
黒い外套が見える。
私は反射的に、修理台の上を見た。
まだ直っていない。
昨日、結果が分かったら知らせると伝えたはずなのに。
「お待たせして申し訳ありません。調査は終わりましたが、修理には――」
公爵は店へ入る前に手を上げた。
手帳を開き、こちらへ向ける。
『昨日、言い忘れたことがあります』
付き添いの家令が、少し後ろで帽子を取った。
「ノエルと申します。閣下は、録音の中身についてお伝えしたいと」
公爵が振り向いた。
家令は口を閉じ、半歩下がる。
公爵はそれを確かめてから、新しい行を書いた。
『誕生日の歌です』
次の文字まで、少し間があいた。
『母は、歌が上手ではありませんでした』
私は思わず顔を上げた。
彼は、困ったように口元をゆるめた。
『外れた音も、そのままにしていただけますか』
作業台へ目を戻す。
修理票の一枚に、「音程の乱れを補正予定」とあった。
私はその紙を裏返した。
「はい。直すのは機械です。お母様の歌い方ではありません」
公爵は手帳を下ろした。
張っていた指が、ゆっくりほどける。
「ただ、お伝えしなければならないことがあります」
私は円盤の傷を、灯りの下へ向けた。
「ここには声が残っています。でも、こちらの欠けた部分は、もう読み取れません。なくなった音を作ることは、私にはできないんです」
彼は傷を見つめた。
長い沈黙だった。
早く何か言わなければと思う癖が、胸のあたりで騒ぐ。
ユーグ様なら、そんな説明より結論をと急かしただろう。
私は口を閉じて待った。
『残っているところを、聴きたいです』
公爵が書いた。
「でしたら、細い針で傷を避けながら、一部分ずつ読み取る方法があります。機械を預かって、二日。費用は部品込みで銀貨一枚と銅貨四枚です」
見積書を差し出す。
公爵は金額だけではなく、項目を一つずつ読んだ。
『調査料が、引かれています』
「修理を承る場合は、その分を含めたお代にします。昨日の説明が足りませんでした」
彼は首を振り、署名欄へ名前を記した。
その下に、短く一行。
『お願いします』
紙を受け取る私の指が、少しだけ熱くなった。
「今、短い部分でしたら、お聴かせできます。修理後の音の目安として」
公爵は、今度はすぐにうなずいた。
私は仮の針を取り付け、無事な溝の上へ置いた。
魔力石へ触れる。
小さな歯車が回り始めた。
さあ、と紙を擦るような雑音。
続いて、ピアノの音が三つ。
『待って、まだ始めないで。エリアンが、椅子に――』
女の人が笑った。
途中で針を上げる。
次は、傷のある場所だった。
店が静かになった。
「今の部分は、残っています」
返事はない。
公爵は蓄音機を見ていた。
外套の端を握る手に、細かな皺が寄っている。
私は引き出しから布を出しかけて、やめた。
顔を見られたくないかもしれない。
隣に立ったまま、作業台の小さなねじを数え直した。
しばらくして、手帳がそっと差し出された。
『母は、いつも準備が遅かったのです』
私はゆっくり読んだ。
『歌う前に、椅子や服や窓のことを気にして。私は、早く始めてほしいと思っていました』
書き終えると、公爵は窓の方を向いた。
朝の光の中で、その横顔が少し幼く見えた。
「準備の間も、一緒に録れていたんですね」
彼はうなずいた。
もう一度、うなずいた。
家令のノエルさんは、何も言わずに帽子を持ち直した。
誰も、先を急がなかった。
公爵が帰る時、私は扉を開けた。
「二日後に。お待ちしています」
彼は馬車へ向かいかけ、また振り返った。
手帳に書く。
私は敷居の内側で待った。
『その時、あなたも一緒に聴いていただけますか』
修理の確認なら、もちろん立ち会う。
そう答えようとして、彼が私の顔を見ていることに気づいた。
出来上がった機械を見たい人の目ではなかった。
「はい。お邪魔でなければ」
公爵は小さく首を振った。
それから初めて、目元までほどけるように笑った。




