第1話 ガラクタにも、持ち主がいます
「君の仕事は、要するにガラクタ直しだろう」
ユーグ様は、私の隣に置いた木箱を靴の先で押した。
中で金具が鳴った。朝、受け取ったばかりの小鳥時計だった。
「ヴァルデ侯爵家の妻が、そんなものを抱えて裏口を出入りする。人にどう思われるか、少しは考えてくれ」
婚約祝いにいただいた茶器には、まだお茶が注がれていなかった。
私の席だけ、匙がない。
何か足りないと口にして、面倒な女だと思われるのが嫌で、この三年、一度も頼んだことがなかった。
「それで、今日は何のお話でしょう」
「婚約を解消したい。結婚相手には、家を任せられる女性を迎えることにした」
驚かなかった、と言えば嘘になる。
昨日まで縫っていた婚礼用の手袋を思い出した。右手だけ、まだ裏返しのままだ。
「修理の仕事を辞めれば、お考えは変わりますか」
聞いた途端、自分が情けなくなった。
仕事を辞めるつもりなど、なかったのに。
ユーグ様は困ったように笑った。
「そういう話をしているんじゃない。君なら一人でも困らないだろう」
私は膝の上の手をほどいた。
爪の縁に、落としきれなかった研磨粉が残っている。
母も同じ指をしていた。冬になると割れて、夕食の皿を持つときだけ少し顔をしかめた。
「分かりました」
声にすると、もう後戻りしたくなくなった。
「では、私の持参金の前払い分をお返しください。婚礼の調度品に充てる前でしたら、全額残っていますね」
彼はようやく、私を正面から見た。
「こんなときに金の話か」
「こんなときですから」
工房を借りるには、お金が要る。
今月の食事にも。小鳥時計の、欠けた歯車にも。
鞄から預かり証を出すと、彼は使用人を呼んだ。手続きは拍子抜けするほど早く済んだ。家令が証書の額と一致する支払手形を持ってくるまで、私たちは一言も話さなかった。
最後に木箱を抱えると、ユーグ様が鼻で笑った。
「それまで持って帰るのか。捨てればいいものを」
「お客様のお品です」
「買い直す方が安いだろう」
たぶん、そのとおりだった。
この型の時計は、王都の市場なら銀貨二枚で買える。
持ち主の老婦人もそれをご存じで、それでも私のところへ持ってきた。
「ご主人が毎朝、ねじを巻いてくださったそうです」
「だから?」
私は箱を抱え直した。
「新しい時計では、駄目なのだそうです」
ユーグ様は返事をしなかった。
私は少し待って、それから礼をした。
玄関を出て十歩目で、目の奥が熱くなった。
腹が立っているのか、悲しいのか、分からない。
分かったのは、泣くなら木箱を置いてからにしよう、ということだけだった。
*
六日後、私は南通りの小さな店で、脚立のいちばん下の段に立っていた。
「もう少し右よ。ああ、あなたの右じゃなくて、看板の右」
「看板に右と左があるんですか」
「読める向きに決まってるでしょう」
隣の茶葉店のサラさんに笑われながら、釘を打ち直す。
『ベルネット修理店』
それだけの看板だった。
飾り文字も、侯爵家御用達の肩書もない。狭い店の奥には寝台を一つ置ける部屋があり、台所の窓は開けると隣の壁にぶつかった。
家賃を三か月分払ったら、手形を換金したお金の半分がなくなった。
残りを帳面に書き込んでいると、急に心細くなった。
「お客が来なかったら、どうしましょう」
「その時計のお客さんは?」
店先の小鳥時計が、昼の十二時を告げた。
扉が開き、青い小鳥が二度鳴く。
「明日、お返しします」
「じゃあ、明日は一人来るわ」
サラさんはそれで話を終え、茶葉の入った小袋を作業台に置いた。
「開店祝い。お湯は自分で沸かしてね」
客の来る予定が一つある。
私は帳面の明日の欄に、小鳥時計、と書いた。
夕方、店の鈴が鳴った。
「時計のお渡しは明日――」
言いかけて、手を止める。
入口にいたのは、黒い外套を着た若い男性だった。背が高く、濡れた髪の先から水が落ちている。外は、いつの間にか雨になっていた。
彼は胸の前で革張りの箱を抱えていた。
外套より、箱の方がよほど乾いている。
「いらっしゃいませ。お修理ですか」
男性はうなずいた。
それから、箱を置く前に一瞬ためらった。
私は作業台の削りかすを払い、布を敷いた。
「どうぞ、こちらへ」
ようやく置かれた箱から現れたのは、小さな蓄音機だった。
真鍮のラッパにはへこみがあり、再生針の根元が折れている。側面の魔力石は、古い綿布で丁寧に包まれていた。
彼は内ポケットから手帳を出した。
鉛筆を持つ指が止まる。私を見て、わずかに眉を寄せた。
「筆談ですね。お待ちします」
そう言って、丸椅子を差し出す。
彼は立ったまま手帳に何かを書き、一度消し、改めて書いた。
『再生すると、途中で止まります』
「中の円盤を拝見しても?」
うなずきを待って、ふたを開ける。
薄い円盤が一枚。縁に、小さな手書きの字があった。
『エリアンの七歳の誕生日に』
私は刻印の欠けに指先を近づけた。
耳の奥で、砂を踏むような音がする。その向こうに、かすかな旋律が残っていた。
「針と、音を送る部分が傷んでいます。円盤にも傷がありますから、全部を元どおりにできるかは、まだ分かりません」
男性はすぐに手帳を開いた。
『他の店では、捨てるようにと』
その下に、少し小さく書き足す。
『古い物ですから』
「古いことと、捨ててよいことは違います」
顔を上げた彼に、私は円盤を見せた。
「残っている音があります。お預かりする前に、どのくらい直せそうか調べましょう。調査料は銅貨五枚。直せないと分かっても、それ以上はいただきません」
彼は文字をじっと見つめるように私の口元を見て、それからうなずいた。
やっと、肩が下がった。
また鈴が鳴った。
「閣下。馬車を回しましたので――」
傘を抱えた中年の男性が、入口で言葉を切った。
私と、作業台の蓄音機を見比べる。
「こちらにお預けになるのですか、アーヴィン公爵」
鉛筆を落としかけた。
アーヴィン公爵。
一年前から声を失い、公の席に出なくなった人だ。
王都の職人組合でも、何度か噂になっていた。
けれど彼は、私の驚きよりも、まだ蓄音機の方を気にしていた。
手帳に書いて、こちらへ向ける。
『母の声です』
続きが書かれるまで、私は待った。
『残っているところだけで構いません』
私は修理伝票の一行目を、いつもよりゆっくり書いた。
品名、蓄音機。付属品、音声円盤一枚。
「大切にお預かりします」
伝票を差し出すと、公爵は自分の名前を記した。
今度は消さずに。
最初のお客様は、公爵だった。
そして私に頼まれたのは、きらびやかな新しい機械を作ることではなかった。
誰かが捨てればいいと言った物を、もう一度、聴けるようにすることだった。




