第18話 おかえり、を新しく録りましょう
結婚式の日も、工房の鍵は私の手にあった。
エリアン様と暮らしの相談を始めてから、二か月。
扉へ掛けた札には、今日は休み、明後日からいつもどおり、と書いてある。
預かり品の受け渡しは昨日までに済ませた。急な依頼を頼める職人の店も、了承を得て、札の下へ添えてある。
それでも私は、窓の留め金をもう一度確かめた。
背後でサラさんが笑う。
「三度目よ。それで外れたら、留め金の方が悪いわ」
「私が、落ち着かないんです」
「でしょうね」
彼女は私の袖を直してくれた。
白い服には、ねじを入れるための小さなポケットがない。
手の置き場に迷うと、サラさんは花束を渡した。
「今日は、こっちを持って」
私は両手で受け取った。
母の工具は、いつもの引き出しにある。
店の看板にも、修理師ミラ・ベルネットの名が残っている。
何もかも手放して出ていく朝ではなかった。
通りの向こうに馬車が止まり、ノエルさんが降りてきた。
今日は荷物を受け取らず、私へ深く頭を下げる。
「お支度は、いかがでしょう」
私は窓ではなく、自分の足元を見た。
靴の留め具は、きちんと留まっている。
「はい。行けます」
鍵を回した時、店の中の時計が鳴った。
聞き慣れた音に見送られ、私は自分で扉を閉めた。
*
式は、公爵邸の庭に面した小さな部屋で行った。
集まった人の中には、工房へ道具を持ってきた顔もあった。
隣の茶葉店の主人も、今日は客の一人として椅子に座っている。
エリアン様の手元には、誓いを書いた一枚の紙があった。
本人が、自分で読んでほしいと私へ渡した物だ。
『あなたの仕事を尊び、うまくいかない日も、一緒に話す時間を持ちます。私の気持ちも、あなたへ伝え続けます』
私は最後の一行を、もう一度読んだ。
彼は急かさずに待っていた。
最初に蓄音機を預かった日と、同じ目だった。
「私も。困った時に、何でも直せるふりをしません。うれしいことも、困ったことも、お話しします」
声が少し震えた。
彼が笑い、差し出した私の手へ指輪を通す。
私も彼の指へ、用意した輪をゆっくり滑らせた。
指先が少し引っかかって、二人で顔を見合わせた。
私は息を吐き、今度は落ち着いて手を添え直した。
彼の声は、戻っていない。
それでも、私たちの返事を待ってから、部屋には拍手が起きた。
サラさんが目元を押さえながら、こちらへ笑いかけた。
私は笑い返そうとして、先に涙をこぼした。
エリアン様が布を差し出す。
私は受け取り、あとで洗って返します、と言いかけた。
もう同じ家へ帰るのだと思い出すと、涙の途中で、おかしくなった。
*
夕方、私たちは工房へ寄った。
ここへ来たいと頼んだのは、私だった。
彼は屋敷へ着替えを取りに戻ったあと、通りを歩いてくる。
私は先に鍵を開け、花束を作業台の端へ置いた。
いつもの卓布の上には、彼が持ってきた蓄音機がある。
新しい録音をしようという約束のために、昨日、調子を確かめておいた物だ。
針の位置を見る私の肩へ、窓から夕日が差した。
古い円盤には、手を加えていない。
エリアン様の母君の声も、途中で途切れる歌も、あの円盤のまま、別の箱に収まっている。
今夜使うのは、まだ何も刻まれていない一枚だった。
鈴が鳴った。
エリアン様が、戸口で片手を上げる。
「おかえりなさい」
口にしてから、私は録音を始めていなかったことに気づいた。
彼が肩を揺らす。
「もう一度、入ってきていただけますか」
彼は手帳を開いた。
『今日は、何度でも』
私は笑って、針を下ろした。
扉が一度閉まる。
次に、金具が動き、鈴が二つ鳴った。
靴音。服の裾が扉を擦る、小さな音。
「おかえりなさい、エリアン様」
彼は近づき、私の隣で手帳を開いた。
鉛筆が紙を走る。
差し出された文字には、ただいま、とあった。
私は読み、うなずいた。
その返事を、彼の声の代わりとして読み上げることはしなかった。
文字は文字のまま、彼が私へ渡してくれた。
「今日は、よい日でした」
私が言うと、彼も大きくうなずく。
次のページに、私は緊張しました、と書いた。
「私もです。留め金を三度、確かめました」
彼が目を丸くして、それから笑った。
私も笑い、針を上げるのが少し遅れた。
再生すると、鈴の音のあと、私の声が少し遠く聞こえた。
紙をめくる音と、椅子の軋み。
終わりには、何がおかしかったのか分からないくらい長い、私の笑い声が入っていた。
「録り直しましょうか」
尋ねると、彼は首を振った。
『今日の私たちには、これがよいです』
私は円盤の箱を取り、日付を書いた。
彼がその下へ、二人で帰った日、と添える。
手帳の一枚も同じ箱へ入れた。
いつか聴き返した時、紙をめくっていた彼が、何を伝えたのか分かるように。
失われた声が、そこに新しく生まれたわけではない。
私の隣にいる人と過ごした今日が、今ある形で残ったのだった。
*
戸締まりを終えると、空にはまだ明るさがあった。
彼は円盤の箱を持ち、空いた手を私へ差し出した。
「明後日は、夕方まで店を開けます」
歩きながら伝えると、彼はうなずいた。
自分は午後に来客があると、出る前に教えてくれていた。
夕食は一緒に取れる。
その次の休みには、川沿いへ行こうとも話している。
私は工房を振り返った。
小さな看板が、閉じた扉の上で夕日に光っている。
ガラクタと呼ばれた物を持ち込む人が、また来るだろう。
直せる物も、直せない物もある。
私は一つずつ見て、できる仕事を、自分の名で引き受ける。
そして、その日にあったことを話しに帰る。
エリアン様が私の顔を覗き込んだ。
私は、何でもありません、とは答えなかった。
「帰ってから、もう少し、お話ししたいです」
彼は笑い、握った手に少し力を込めた。
私は同じ強さで、握り返す。
明日のことを話せる人と、同じ家へ歩いていった。




