第17話 この町に、工房を残します
恋人ができても、朝のねじは転がった。
私は床へ落ちた一つを拾い、作業台へ戻る。
戸口ではサラさんが、預かった時計の外側の傷を、依頼主と一緒に確認していた。
週に一度、一刻だけの受付の手伝い。
その間に、私は途中の作業をまとめて進められるようになった。
あの日から、二週間が過ぎた。
エリアン様は来られる日を先に知らせ、私は休みの予定を帳面へ書いた。
川沿いで焼き菓子を食べた日もある。
忙しくて店で短くお茶を飲むだけの日もあった。
どちらも、私たちが自分で選んだ時間だった。
「こちら、出来上がりました」
私は彼へ、薄い革の入れ物を渡した。
市場で話した、会話に使う札を入れる物だ。
大きさと開き方を何度か試し、彼の手帳と同じ袋へ入る形にした。
札には、はい、いいえ、少しお待ちください。
それから、筆談で話します、という一枚。
表から見せやすい位置へ引き出せる。
彼はしばらく試し、空の札を指した。
私は鉛筆を渡す。
彼は自分で、「今は、私に尋ねてください」と書いた。
「その言葉も、必要な時があるのですね」
彼はうなずいた。
ノエルさんが隣で、自分のことかと少し身を縮める。
エリアン様は首を振り、家令へ別の札を見せた。
手を貸してください。
ノエルさんは笑って、はい、と答えた。
全部を書き終えるまで待たなくてよい場面が増える。
それでも、自分で書きたい話は、手帳へ書く。
どちらを選ぶかは、彼が決める。
私はそれでよかった。
*
昼前、彼が、店の向かいの空き家を見ていた。
私は作業を止めた。
「何か、お考えですか」
エリアン様は手帳を出す。
新しい入れ物より、今は長く話せるこちららしい。
『一緒に暮らすとしたら、どこがよいかと考えていました』
私は手を止めたまま、動けなくなった。
そんな話をすることは、少しずつ増えていた。
でも、建物を見るほど具体的になったのは、今日が初めてだった。
『結婚を、考えていただけますか』
私は文字を読んだあと、彼を見た。
彼も緊張していた。
何度手をつないでも、大切な質問の前には、まだ緊張するらしい。
「はい。私も、考えています」
返事をすると、彼が息を吐いた。
私は窓の外へ目を向ける。
向かいの家なら、工房へ通うのは簡単だ。
でも、私だけの便利さで決めるわけにはいかなかった。
「お屋敷でのお仕事や、必要な方の出入りは、どうなりますか」
彼は、そこも相談したかったと書いた。
家の管理、書類の確認、人を迎える部屋。
私にも修理品を預かる場所と、自分の机が要る。
笑ってうなずくだけでは、一緒の暮らしの形までは決まらない。
私たちは午後、ノエルさんにも入ってもらい、紙を広げた。
公爵邸からこの通りへは、歩いて来られる。
まずは屋敷で暮らしながら、店を続ける形を考えることになった。仕事の多い日には無理に屋敷の集まりへ顔を出さず、二人の予定を先に見て調整する。
「店を閉めるおつもりは、ないのですね」
ノエルさんが私へ尋ねた。
私ははっきりうなずいた。
「ここで、ミラ・ベルネットとして仕事を続けたいです」
彼はそのまま書き留めた。
エリアン様は横から覗き、私の名前の下に線を引いた。
『残してください。この町の人が、あなたに頼める場所を』
私は笑った。
「エリアン様も、順番は守っていただきますよ」
彼はうなずき、空いている札に何かを書いた。
拝見すると、最後尾です、とある。
私はとうとう声を立てて笑ってしまった。
*
相談が終わる頃、サラさんが空いた茶缶を取りに来た。私たちは、これから結婚の支度を相談することを、彼女へ伝えた。まだ日取りは決めていない。
「店は?」
「続けます」
すぐ答えると、彼女は満足そうに笑った。
「よかった。うちの量りも、たまに見てほしいから」
それから、今度はお祝いのお茶を用意すると言ってくれた。屋敷で迎える誰かだけでなく、今日まで隣で働いた人にも、これからのことを話せる。私は空の缶を返しながら、彼女が最初に店の戸を開けてくれた日を思い出した。隣の鈴の音は、結婚しても聞きたいと思った。
夕方、二人だけになった時、彼はもう一度、結婚のことを尋ねた。
暮らしの相談に紛れた返事にしたくなかったらしい。
『仕事を続けるために結婚するのではなく、私と暮らしたいと思ってくださいますか』
私は手帳から顔を上げた。
「はい。朝、一緒にお茶を飲んで、帰ってきたら、今日あったことを話したいです」
彼が手を差し出す。
私は重ねた。
「うまくいかない日も、話せるようにしたいです」
うなずく彼の手を、私も握り返す。
窓の外の通りに、店じまいの灯りが増え始めていた。
この町で、工房を続ける。
この人と、一緒に暮らす。
どちらも私が選んだこととして、同じ明日の中に置けた。
彼は手帳に、今度二人で新しい録音をしませんか、と書いた。
私は、はい、と答えた。
残したい今日が、もう私たちにもあった。




