第16話 いちばん長い修理伝票
閉店の札を返しても、私はしばらく扉を見ていた。
早く来てほしいのに、来たら何を言えばよいか分からない。
窓辺の花を食卓へ移し、皿を二枚出した。
湯を沸かすには、まだ早い。
それでも茶缶のふたを、二度開けた。
店の鈴が鳴った。
公爵はいつもの手帳と、折った紙を持っていた。
私は戸口で挨拶をし、席へ案内する。
靴の底が床を擦る音まで、今日はよく聞こえた。
「お茶を、先に」
言いかけると、彼は小さく首を振った。
緊張しているのは、私だけではないらしい。
彼は折った紙を開き、しばらく見つめてから、また畳んだ。
『書いてきましたが、今、書きたいのです』
手帳には、そうあった。
私はうなずいた。
待っているつもりで差し出した手が、机の上でそわそわ動く。
公爵は頁を開き、最初の行を書いた。
『あなたが好きです』
私は息を止めた。
文字は読める。
短い一行で、読み間違う場所もない。
それなのに、胸がいっぱいになって、何度も目で追ってしまった。
彼の鉛筆が、次の行へ進む。
『母の声を残してくださったことに、感謝しています。でも、今日お伝えしたい気持ちは、そのお礼だけではありません』
私は彼を見る。
彼も、文字を書いたあとには、必ず私を見ていた。
『できないと言う時も、怒る時も、酸っぱい梨を食べて笑う時も、あなたに会いたいと思いました』
笑いかけたのに、目の奥が熱くなる。
公爵は手を止め、続きを急がなかった。
私は自分の声を探した。
「私も、好きです」
言った途端、彼の肩が少し動いた。
もう一度、同じ言葉を言いたくなる。
「修理のご相談がない日も、お顔を見たいです。次に何を書くのか、知りたいです。お帰りになったあと、明日は来られないのだと思うと、寂しくなります」
普段なら恥ずかしくて、途中で別の話をしたと思う。
今日は、最後まで言った。
彼が自分の気持ちを、ここまで運んできてくれたから。
公爵はうつむき、一度、目を閉じた。
それから手帳へ手を置く。
『もう一つ、話したいことがあります』
「はい」
『あなたの仕事を、私の暮らしのためにやめてほしいとは思いません。一緒にいるために何が必要か、相談していきたいです』
私は泣きそうなまま笑った。
「では、私も一つ。返事を待っている間、先に悪い方へ考えてしまうことがあります。さっきも、何か断られるのかと」
彼は目を丸くした。
「ですから、あとでお返事をくださる時は、いつ頃かだけ教えていただけると助かります」
公爵はうなずいた。
私も、勝手に分かった顔をせず、聞くことにする。
好きになれば全部が通じるのではなく、好きだから、尋ねたいことが増えていた。
*
手帳の頁がいっぱいになった。
公爵が次をめくろうとするので、私は未記入の修理伝票を一枚出した。
「裏が、空いています」
彼は表の欄を見た。
依頼品。状態。納期。費用。
少しおかしそうに笑い、裏へ返す。
長い紙に、今度は大きめの文字で書いた。
『ミラさん。これから、恋人としてお会いしてもよいですか』
私は、その行の下へ自分の鉛筆を置いた。
声でも返事はできる。
でも、この紙には、私の返事も残しておきたかった。
はい。私も、エリアン様にお会いしたいです。
初めて名前で書いた。
彼はその文字をじっと見てから、私へ顔を上げた。
私は、名前で呼んでしまいました、と言いかけた。
彼の笑った顔を見て、言う必要がなくなった。
「エリアン様」
小さく呼ぶと、彼はうなずいた。
手帳を閉じ、机の上で手を差し出す。
私が重ねると、指がゆっくり握り返した。
返事をするために、鉛筆を持っていない方の手も使えるのだと、変なことを思った。
彼が少し身を寄せ、そこで止まる。
私は手を離さず、距離を縮めた。
額へ触れた唇は、驚くほど温かかった。
お茶を待つ間、彼は最初に持ってきた紙も見せてくれた。何度も書き直した跡がある。言い方を整えようとするたび、よそよそしくなってしまったと、手帳へ書いた。
「私も、昼から同じ挨拶を何度も練習しました」
彼が首をかしげる。
「こんばんは、だけです。それなのに、いらしたら、お茶を先に、と」
彼は声を出さずに笑った。笑いすぎたのか、目の縁を指で押さえる。その仕草を見て、私もようやく肩の力が抜けた。上手に言えたから伝わったのではない。途中で止まっても、相手を見て、言い終わるまでここにいた。
そのあと、お茶の湯を沸かした。
さっきまで足りないと思っていた時間が、今はゆっくり過ぎていた。
公爵は修理伝票の裏をもう一度見て、持ち帰ってもよいかと尋ねた。
「私にも、写しをください」
彼は丁寧に書き写した。
私の返事のところだけは、自分で書きたいと頼んだ。
二枚の紙が並ぶ。
同じ気持ちでも、筆跡は二人分だった。
これまでで、いちばん長い修理伝票になった。
表の欄には何も書かず、私たちは裏に今日の日付を入れた。
お帰りになったあと、私は自分の分を、店の帳面ではなく、私の予定帳へ挟んだ。




