第15話 沈黙のままで、伝えてください
お祝いは、店を閉めたあとの小さな食卓だった。
サラさんがお茶の葉を選び、私が焼き菓子を買った。
公爵は白い花を一輪持ってきた。
大きな花束では、作業台の置き場を占めると思ったらしい。
「これなら、窓辺に置けます」
私は細い瓶を洗い、水を入れた。
彼が花を置く場所を見ているので、少し恥ずかしくなる。
誰かからもらった花を、自分の店に飾る。
それだけなのに、机の形まで違って見えた。
その夜、私は直した呼び出し器も返した。
留め具のずれを整え、鳴る前に指で位置を確かめやすいよう、箱の縁に小さな目印を付けた。
変更してよいかを先に尋ね、公爵が望んだ形だ。
「今、試していただいてよいですか」
彼はうなずき、自分で押した。
短く鳴る。
不意に鳴った時とは違い、今日は肩が跳ねなかった。
だからといって、あの夜の怖さまでなくなったとは思わない。
彼はもう一度、自分の手で鳴らし、礼を書いた。
『声を出す以外にも、呼べる方法がありますね』
私は、その文字を見ながらうなずいた。
彼が呼びたい相手の中に、私もいたらいい。
そこまで考えたことは、口にしなかった。
*
翌週の休日、私たちは川沿いを歩いた。
今度は、蜂蜜の焼き菓子を買った。
酸っぱい梨の話をすると、公爵はあの時の袋を折った私の真似をした。
よく覚えている。
私がねじを入れていたことまで、覚えていた。
「もう、今日は工具を持っていません」
鞄を軽く振ると、彼は笑った。
橋の向こうの広場では、弦の楽器を弾く人がいた。
人が集まり、歌い始める。
私は足を止めた。
公爵は少し離れた場所で、楽器を見ていた。
曲の途中、前にいた幼い子が、母親の手を取って回った。つられるように、私の足も拍子を取る。公爵がこちらを見たので、私は慌てて靴を止めた。
「踊れるわけでは、ありません」
彼は自分の靴先で同じ拍子を取り、手を差し出した。輪に入らず、二人で一度だけ場所を替える。上手な踊りには遠かったが、向かいに来た顔が楽しそうで、私も笑ってしまった。次の音へ足を出そうとした時、ちょうど曲が終わった。
歌が終わり、周りから拍手が上がる。
彼も拍手した。
私は隣へ戻り、同じように手をたたく。
演奏した人がこちらへ頭を下げた。
あの事故の拍手とは違う音だった。
私は何も言わなかった。
彼が今日はここで聴けたことを、私の説明で特別な試験のようにしたくなかった。
帰りの道で、公爵が手帳を取り出した。
新しい頁の上の方に、短く書く。
『お伝えしたいことがあります』
私は歩くのをやめた。
彼も止まる。
長い文が続くと思ったが、鉛筆は動かなかった。
「ここで、うかがってもよいですか」
彼は私を見た。
一度うなずきかけ、首を横に振る。
そのあと、下の行に文字が増えた。
『もう少し、待っていただけますか』
胸が小さく沈んだ。
でも、待つのは嫌ではない。
私は、はい、と答えた。
彼はほっとした顔をしなかった。
何か言わずに済ませた人のように、手帳を閉じる。
*
店まで戻る頃、ノエルさんが馬車のそばで待っていた。
公爵へ、次の治療師との相談日を確かめる。
本人が手帳を見て日付を示したあと、私の視線に気づいた。
私は慌てて目をそらす。
身体の話を、勝手に聞くつもりはなかった。
公爵はしばらく考え、私へ手帳を差し出した。
『声については、まだ新しい変化はありません』
「そうなのですね」
私は、それ以上を尋ねなかった。
彼は次の行へ書き、止まる。
『きちんと話せるようになってからと、考えていました』
私は顔を上げた。
川沿いでの文字が、胸の中へ戻ってくる。
伝えたいこと。
もう少し待ってほしいこと。
「声が、戻ってからですか」
彼はうなずいた。
私も黙った。
自分の声で話したいことが、彼にあるのは分かる。
その願いを、そんな必要はないと言って片づけたくなかった。
でも、戻るか分からない日まで、二人の気持ちを全部しまうのも違う気がした。
「声で話したいお気持ちは、大切だと思います」
私は言った。
「ただ、その日がいつになるか分からない間にも、私は公爵様と会いたいです。一緒に歩きたいし、次のお休みも約束したいです」
彼の指が、手帳の端を押さえた。
私の声は少し震えた。
「今のお気持ちを、今の方法で教えていただけませんか」
公爵は私を見ていた。
私は先に笑ってごまかすのをやめた。
友達として、という言葉も付けなかった。
どの返事も、ちゃんと彼から受け取りたかった。
やがて、公爵は鉛筆を握り直した。
『明日、お店が終わったあとに来てもよいですか』
「はい」
すぐに返事が出た。
彼は新しい行へ、ゆっくり書いた。
『仕事の依頼ではありません』
私はうなずいた。
彼が馬車へ乗るまで、店の戸口を離れられなかった。
窓辺の白い花は、まだ一輪で咲いている。
明日の食卓には、この花を置こう。
何を言われるか分からないのに、私は空いた椅子を、いつもより丁寧に拭いた。




