第14話 返してほしいのは、未来の時間です
銀貨を数える音が、自分の店で鳴った。
侯爵家の家令は、受取票を私へ向けた。
「確認にお時間をいただいた分も、こちらで清算します」
組合で事故の話をした日から、三日が過ぎていた。
机にあるのは、私が立て替えた部品代だった。
約束した支払日と、購入先への確認が済んだ分。
私は請求書の控えを開き、金額と項目を照らした。
足りている。
曖昧なまま三年かかった紙に、今日の受取日を入れる。
家令が、もう一つ封筒を出した。
音楽時計の修理記録の訂正の写しと、説明を送った先の一覧だった。
贈ったのはヴァルデ家。
修理と調整をしたのは、ミラ・ベルネット。
その二つが、別の行に書かれている。
「すべての先方から、返事をいただいたわけではありませんが」
「送った先と日付は、分かりますね」
「はい。返答があれば、こちらからお知らせします」
私はうなずいた。
訂正の文を送るところまでが、今日確認できたことだった。
見た人全員の記憶が、その日じゅうに変わるわけではない。
それでも、次に使える記録ができた。
受取票へ自分の名前を書く。
家令は私を、ベルネット様と呼んだ。
小さく礼をして、店を出ていった。
*
入れ替わりに、ユーグ様が戸口へ立った。
私は依頼帳を閉じず、そのまま待った。
彼は工具の並ぶ壁を見たあと、机の向かいを指した。
「少し、話せるか」
「次のお客様まででしたら」
サラさんは隣の店にいる。
公爵は今日は来ていない。
私が一人なら、昔のような返事をすると思ったわけではないだろうけれど、ユーグ様の声は組合の部屋より柔らかかった。
「君の仕事を、軽く見ていた」
私はうなずいた。
「はい」
彼は、許すという返事を待っていたらしい。
言葉を探し、ようやく続ける。
「あの装置のことも、考えが足りなかった。父にも叱られた。工房の判断を、先に聞くべきだった」
「担当した方へ、お伝えください」
私へ話せば、全部を済ませられるわけではない。
ユーグ様は視線を下げ、それから、もう一度私を見る。
「君にも、謝りたい。あの日は言いすぎた。婚約を、戻せないだろうか」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
長く待った言葉に、似ていたからだ。
私はあの屋敷で、仕事を終えても、ずっと待っていた。
よくやった、と呼ばれること。
次は食卓へ一緒に、と言われること。
でも、その頃の私が欲しかった返事を、今の私が引き受ける必要はなかった。
「婚約は、戻しません」
彼の手が机の端をつかんだ。
「公爵がいるからか」
私は首を振った。
「誰と会っているかを、婚約を戻さない理由にはしません。私が、あなたとの暮らしを選ばないからです」
公爵がいなければ戻る、という隙間を作りたくなかった。
私は自分の店の椅子へ、きちんと座り直す。
「謝ってくださったことは、聞きました。部品代も受け取りました。仕事の記録を直す約束を進めてくださったことも、確認しました」
一つずつ、今日のこととして受け取った。
その先へ、昔の関係を付け足さない。
「それで、まだ足りないのか」
ユーグ様が言った。
私は机に置いた受取票を見た。
「お金の話は、今、済みました」
息を吸い、顔を上げる。
「返してほしかったのは、これからの時間です。私はここで、私の仕事と暮らしを決めたいんです」
ユーグ様は長いこと黙った。
以前のように、いつになったら機嫌が直るのかとは言わなかった。
ようやく店を見回し、席を立つ。
「分かった」
それだけだった。
戸口まで送ると、彼は鈴を鳴らさないよう、そっと扉を開けた。
私は閉まるまで待ってから、店の内側へ戻った。
*
昼過ぎ、サラさんが、受付の手伝いの返事を持ってきた。
週に一度、茶葉の入荷がない日の午後の一刻。
品物と依頼の内容を受け取り、私へ渡すところまで。修理の判断や、勝手な納期の約束はしない。
謝礼も、二人で納得する額を決めた。
「友達の手伝いでも、紙にするのね」
「あとで、遠慮して言えなくなる方が困りますから」
サラさんは笑い、曜日の欄へ自分で丸を付けた。
私は新しい受付帳を見せた。
預かった品に何が付いていたか、いつまでに見積もるか。
彼女が書きやすいよう、欄の間隔を広げる。
「今日は、顔つきが違うわ」
私は返事に迷って、窓の方を見た。
通りの向こうから、公爵が歩いてくる。
今日は会う約束ではない。
でも、姿を見つけたら、店の鈴が鳴るのを待つ前に笑ってしまった。
彼は入ってすぐ、私の顔を確かめた。
手帳を開く。
『よいことが、ありましたか』
「部品代を、受け取りました。仕事の名義の訂正も進みました」
それから私は、少し声を落とした。
「昔の婚約へ、戻らないと伝えました」
公爵はうなずいた。
私の返事へ、自分の名前を挟まなかった。
ただ、手帳に一行を書く。
『今夜は、お祝いをしませんか』
私は、はい、と答えた。
終わったことばかり書かれた今日の帳面に、これから楽しみな予定が一つ増えた。




