第12話 完全には、戻りません
円盤の白い帯は、拭いても消えない。
私は拭くための布を、箱へ戻した。
表面の汚れではなく、音を刻んだ溝そのものが、削れているのだ。
目覚まし時計を返した翌日、追加の調査を終えた。
これ以上、針を重くして残りを拾おうとすれば、まだ残っている部分まで傷める恐れがある。
私は報告書の最後に、作業をここで止めると書いた。
修理師になってから、直ったと言う練習は何度もした。
戻らないと言う練習は、何度しても足りなかった。
公爵が来るまでに、私は同じ行を三度読み直した。
*
彼は今日は一人で机に座った。
ノエルさんは通りの馬車で待っている。
私は円盤を見せ、読める区間と読めない区間を図にした紙を渡した。
「ここから先は、完全には戻りません」
声が少し硬くなった。
公爵は紙を受け取ったまま、図を見ていた。
「確認音があったはずの区間は、一部に続いた溝があります。でも、そこから三つの音は拾えません。装置の出した音が録音側に入らなかった可能性もあります」
私は手順書を並べる。
「鳴っていなかったのか、残らなかったのか。この円盤だけでは、決められません」
彼が鉛筆を持った。
最初の一文字を書くまでに、少し時間がかかった。
『止めろ、という声は』
「言葉として確かめられる形では、残っていません」
公爵の記憶を否定したくなくて、言い方を選んだ。
彼はあの夜、誰かが叫んだと覚えている。
でも、私が聞き取れなかった声を、報告書へ書くことはできない。
手帳の上で、彼の鉛筆が止まった。
『あなたにも、聞こえたらと思いました』
私はうなずいた。
「私も、聞きたかったです」
励ましの言葉が、いくつも頭に浮かんだ。
まだ方法があるかもしれない。
ほかの職人ならできるかもしれない。
でも、望みだけを増やして円盤を傷めたくなかった。
「今日、お返しする形でよろしいでしょうか。ほかの方の見立てを求められる時も、この図と所見は使っていただけます」
公爵は円盤を見た。
指先を近づけ、触れずに戻す。
『あなたが、止める方がよいと思ったのですね』
「はい」
返事をすると、彼は報告書の作業終了の欄へ署名した。
その下に、調査に使うための所見を組合へ渡すことも記す。
頼まれた物を直しきれなかった私の名前が、すぐ上にあった。
公爵はそこを避けず、指で紙を押さえて書いた。
『分からないところを、分かるふりで埋めていない。お願いして、よかったです』
私は礼を言う前に、ひと息吸った。
泣くような場面ではない。
彼の方が、ずっと欲しかった音を受け取れなかったのだ。
それでも、胸の奥が痛いほど温かかった。
*
包み直した箱へ手をかけた時、組合からの使いが来た。
公爵の承諾を取って封を開ける。
入っていたのは、照会の中間回答と、組合に預けられていた作業票の写しだった。
当日の納品を受け持った者の欄に、ヴァルデ家の工房の名。
その前日の欄に、小さな文字で中止申入れとある。
私は頁をめくった。
申入れの理由を書いた別紙は、まだ照合中だった。
「ここを、確かめてもらう必要があります」
公爵も文字を追った。
『止めようとした人が、いたのですか』
「この作業票には、そう書かれています。ただ、装置の何を止める話だったのか、まだ」
展示の準備なのか、試験なのか。
誰が申し入れ、誰が続行を決めたのか。
頁のない部分へ、私たちの欲しい答えを入れてはいけない。
中止という文字を見た時、ユーグ様の顔が浮かんだ。私はその顔を、紙の上へ重ねないようにした。知っている人への怒りはあっても、まだ知らない事実の代わりにはならない。
公爵は鉛筆を取った。
組合へ返す紙に、別紙と担当者への確認を求めると書く。
私は円盤についての所見を添えた。
音の失われた場所を、別の音で作り直すことはできない。
けれど、働いた人が残した紙を探すことはできる。
私は初めて、この調査が自分の机の外へ続く長さを感じた。
同時に、全部を自分の手で直す仕事ではないと分かって、少し息がしやすくなった。
使いを見送ったあと、公爵は箱を抱え直した。
私は今日の代金と返却の控えを渡す。彼は確認して受け取り、立ち上がりかけてから、もう一度椅子へ腰を下ろした。
『今日は、お茶を飲んで帰ってもよいですか』
「はい。もちろん」
私は茶缶を開けた。
今日は焼き菓子を出せる。
市場で話した蜂蜜の薄い菓子を、朝、買っておいたのだ。
公爵は皿を見ると、目を細めた。
それから手帳へ、茶とは関係のないことを書く。
『仕事のない日にも、また会いたいです』
私は、うれしいです、と答えた。
今度は鉛筆を落とさなかった。
円盤の箱は、二人の間から脇の椅子へ移った。
仕事が終わったあとも、この人はここにいる。
私も、終わったからといって帰ってほしいとは思わなかった。
窓の外では、夕方の店じまいが始まっていた。
私たちは温かい茶を飲みながら、次の休日にどこへ行くかを相談した。




