第11話 あなたが怒ってくれて、うれしかった
翌朝、私の机には、修理品が四つ並んでいた。
休みの前に預かった三つと、今朝持ち込まれた目覚まし時計。
その奥に、公爵の円盤の箱がある。
「明朝までに、どうにかなりませんか」
時計を持ってきた男の人が、帽子を握っていた。
夜明け前からパンを焼く仕事だという。起こしに来てくれていた奥さんが、実家の手伝いで留守なのだそうだ。
私は時計の裏を開いた。
鐘を打つ歯車の軸が曲がっている。
「替えの軸が合えば」
言ってから、依頼帳を見た。
明日までに、茶葉店の秤と、客間の灯りを返す約束がある。
そこへ時計を足す場所は、ない。
でも、朝のパンを思い出してしまった。
市場へ向かう途中、甘い匂いがしていた。
私たちがのんびり歩いている時にも、誰かはそのために起きていたのだ。
「今夜、調べてみます」
男の人が深く頭を下げた。
その顔を見た時は、まだできる気がしていた。
*
夕方、公爵が調査の追加費用を確認しに来た。
私は秤の皿を戻し、依頼帳を引き寄せようとした。
時計のねじが、床へ転がった。
「あっ」
かがんで拾おうとすると、椅子が引っかかる。
公爵が膝をつき、先に拾ってくれた。
差し出されたねじを受け取る。
手が震えていた。
『昼食は』
短い文字を見て、私は笑った。
「あとで食べます」
彼の表情が変わった。
手帳の次の頁へ、鉛筆の先が少し強く当たる。
『今、夕方です』
分かっている。
私が答えないでいると、彼は机の四つの品物を見た。
私は先に説明した。
「無理やり頼まれたのではありません。私が、引き受けたので」
公爵はうなずいた。
それから、また書く。
『それでも、倒れるまで働く必要はありません』
私は口を閉じた。
叱られると、何もできない人になったような気がする。
母の工具で店を始めて、自分の名前で請求書を書いて、ようやくできるようになったはずなのに。
公爵が手帳を置き直した。
『怒っています。私の仕事も、後でよいと言わずに帰ってしまったことに』
私は文字を読み返す。
彼は自分の円盤の箱を指し、それから私を見る。
『何を減らせますか。私にできることはありますか』
工具を片づけろとは書かれていなかった。
依頼帳も、取り上げなかった。
私はしばらく机を見たあと、ようやく言えた。
「まず、お昼を食べます」
公爵の肩が少し下がった。
「それから、できる順に戻します。時計は、今の部品で急いで直すと、また止まるかもしれません」
曲がった軸を無理に戻せば、一晩は鳴るかもしれない。
けれど、次の朝は分からない。
困っている人に、頼りにならない時計を返すわけにはいかなかった。
*
パン屋へは、私が行った。
公爵は店に残り、ノエルさんと待ってくれた。
明朝に間に合わないことを伝えると、男の人は残念そうに帽子を持ち直した。
「分かりました。隣の窯の者に、一朝頼みます」
「申し訳ありません」
「できないなら、今日教えてくれて助かります。寝る前に分かるのとは違うので」
帰り道、足が少し軽くなった。
期待を裏切れば、何もかもなくなると思っていた。
でも、明日の朝には別の方法を使える人がいる。
私が遅くまで黙っていると、その方法まで奪ってしまうのだ。
店へ戻ると、サラさんが包みを広げていた。
公爵がお金を出しかけたが、彼女は私の方へ皿を滑らせた。
「うちの秤の礼。余ったパンだけどね」
「まだ、お返ししていません」
「じゃあ、返してもらった時にはお茶を出すわ」
食事のあと、まず秤を仕上げた。サラさんを前に、同じ重りを左右へ移して確かめる。皿の傾きは戻したが、足元の台も少しがたついていた。私がそこを見落とせば、店でまた狂ったように見える。
「茶缶の重さを引く時も、同じ場所へ置いてください」
説明すると、彼女は実際に茶缶を乗せて試した。一つを終えて渡すと、机に空いた場所ができる。四つをいっぺんに見ていた時には、部品を広げる布さえ足りなかったのだ。私は余った皿をしまってから、次の頁を開いた。
食べながら、私は明日の予定を書き直した。
受付と品物の受け渡しだけ、忙しい日の一刻をサラさんに頼めないか相談する。彼女の店もあるから、曜日と謝礼は改めて決めることになった。
公爵には、円盤の詳しい報告を一日待っていただくよう頼んだ。
彼はすぐ、依頼帳の訂正に署名した。
「怒らせてしまって、すみません」
公爵は少し困った顔をした。
私は食べ終えた皿を脇へ寄せる。
「でも、うれしかったです。仕事をやめればいい、と言われなかったので」
彼が書く前に、私が続けた。
「できないことを言っても、ここにいてくださるんですね」
公爵は手帳を開いたまま、私を見た。
やがて、ゆっくり書いた。
『私にも、できないことがありますから』
私はその頁へ手を添えた。
昨日、つないだ手と同じ手だった。
今度は私から、少しだけ近くへ座った。
翌日、届いた替え軸で時計は直った。
試験の鐘を鳴らす前に声をかけると、公爵はうなずき、耳を澄ませた。
約束を変えても、きちんと鳴る朝は作れる。
私は依頼帳の余白に、食事の時間も書き込んだ。




