第10話 お休みの日に会いたいのです
休みの朝、私は二度、工房へ戻った。
一度目は戸締まりを確かめるため。
二度目は、鞄に入れたねじの袋を出すためだった。
「今日は、仕入れはしないんでしょう」
通りを掃いていたサラさんに言われ、私は袋を握り直す。
「たまたま欲しい物があったらと思って」
「たまたまのために、重い鞄を持つことはないわ」
私は工具も取り出した。
急に鞄が軽くなって、何か大事な物まで置き忘れた気がした。
サラさんは私の襟を指さす。
曲がっていた。
直しているところへ、公爵が来た。
今日は上着の色が淡かった。
飾りの少ない服なのに、いつもと違う人が現れたようで、私は挨拶を一拍忘れた。
彼も私の手元を見て、少し首をかしげる。
「今日は、その、修理はお休みです」
知っていることをわざわざ言うと、公爵は笑った。
手帳には短い返事があった。
『私もです』
その下に、少し小さく書かれていた。
『よく似合っています』
私は襟を押さえたまま、ありがとうございます、と答えた。
何が似合うのか聞き返さないくらいには、私も分かっていた。
*
市場は、店を開ける頃よりずっと明るかった。
果物の箱の間を子どもが走り、パンの香りが通りを横切ってくる。
ノエルさんと護衛は、人の流れの少し後ろにいる。二人きりではないけれど、公爵は自分で道を選んだ。
真鍮の部品を並べた露店の前で、私は足を止めかけた。
公爵が気づく。
彼は店へ向かわず、私の顔を見て待った。
「見たいですが、今日は見ません」
手帳が開く。
『来週、仕入れの日に』
来週にも会うつもりの文字が、あまりに自然だった。
私はうなずき、公爵より半歩先へ出た。
顔を見られずに済んだのは、それくらいの距離だけだった。
果物屋で、小さな梨を買った。
店主が公爵へ値を言うと、彼は手帳に数を書こうとする。
後ろに人が並び、私は口を開きかけた。
その前に、公爵が指を二本立てた。
「二つですね」
店主が袋へ入れる。
それで済んだ。
何でも紙に書かなくても、通じることはある。
公爵は代金を払い、二つの梨を私に見せた。
「私の分もですか」
彼はうなずいた。
私は布袋から銅貨を出そうとして、今度は彼が困った顔になった。
慌てて手帳へ書く。
『今日は、私から誘いましたので』
「では、お茶は私に」
彼は少し考え、うなずいた。
大きな贈り物なら断れたと思う。
梨を一つもらって、次のお茶を誘う方が、なぜか勇気が要った。
紙を売る露店で、公爵が立ち止まった。飾りのきれいな手帳を開き、すぐ閉じる。私が首をかしげると、彼は試し書きの紙を指した。表面が滑りすぎて、鉛筆がうまく乗らないらしい。
「見た目だけでは、分かりませんね」
私は厚い表紙の端に、親指を当ててみた。片手で開いたままにするには硬い。公爵は結局、薄くて飾りのない物を選んだ。使いやすさを二人で試す時間が、工具を持たない私にも楽しかった。会計が済むと、彼は最初の頁に今日の日付を書いた。
川沿いの店に、空いた長椅子があった。
私は温かい茶を二つ頼み、公爵は袋を開けた。洗って切ってもらった梨の片方を、私へ差し出す。
ひと口かじると、思ったより酸っぱい。
私が目を細めた時、隣でも同じ顔をしていた。
二人とも笑ってしまった。
公爵の笑う肩が、ほんの少し私の肩へ触れる。
避けなかった。
川の向こうで荷馬車が橋を渡っていた。店主が置いていった茶から、ゆっくり湯気が上がる。
『甘いと、書いてありました』
彼が看板を指す。
「焼き菓子にすればよかったですね」
『次は、そうしましょう』
また、次ができた。
私は梨を包む紙の端を折った。
工房で小さな品物を包む時のように、指が勝手に動く。
「返事の札があったら、お店では便利かもしれませんね。数や、持ち帰る、とか」
言った瞬間、しまったと思った。
休みの日にも仕事の話を持ち出してしまった。
「すみません。すぐ道具のことを」
公爵は首を振った。
手帳へ、いつもより長く書く。
『考えていただけるのは、うれしいです。でも、今日は注文しません』
私が顔を上げると、次の行を指で示した。
『ミラさんは、どんな菓子が好きですか』
答えはすぐ出るはずだった。
なのに、胸の奥がふわりとして、言葉が迷子になる。
この人が知りたいのは、私が何を直せるかだけではない。
酸っぱい梨を食べた私が、次に何を選ぶのかも知りたいのだ。
「蜂蜜の、薄い焼き菓子が」
公爵は忘れないように書いた。
試験手順より、ずっと短い記録だった。
でも、その頁を閉じる手つきは丁寧だった。
*
帰り道、通りの敷石に段差があった。
公爵が手を差し出す。
私は乗せる前に、一度だけ彼を見た。
彼も私を見ていた。
手袋の上からでも、指の形が分かった。
段差を越えても、すぐには離れなかった。
「次は、酸っぱくない物を食べましょうね」
うなずく彼の横顔を、私は近くで見た。
今日は何も直していない。
それでも、一日が終わってほしくないと思った。




