第七話 別の手続き
呼び出しの書状には、議題が一行だけ書いてあった。婚約解消の、最終確認。
三日前には、殿下ご本人の名で面会を求める文も届いていた。返事は代理人の名で一行、諸事は御前にて、とだけ。個人の面会に応じる契約は、もうどこにも存在しない。
御前会議の間は、五年前の婚約の宣誓と同じ部屋だ。玉座に国王陛下、その隣に王妃陛下。左右に重臣がた。壁際の書記官の卓には、記録用のインク壺がふたつ。末席に近い立会人の席へ、レーヴェンの深い青をまとったカイウス様が着いている。私の席は、中央にひとつだけ離して置かれていた。被告の席にも、賓客の席にも見える置き方だった。五年前、宣誓の日の私の席は、殿下の隣にあった。隣の席と、ひとつだけ離れた席。五年かけて移動した距離が、この配置に正確に出ている。陛下の後ろの壁には、建国の織物が掛かっている。五年前は緊張で柄も見えなかった。今日は、狩りの犬の数まで数えられる。
装いは銀鼠にした。扇は持たない。今日の私に、隠すための道具は要らない。インクの染みの残る指も、手袋で隠さない。髪は結い上げて、飾りはなし。飾る箇所があるとすれば胸元の内側で、そこには今日も、契約書の写しが入っている。最後まで持ち歩くと決めた紙は、今日で役目を終える。
殿下は、私の斜め向かいにいた。目が合う前に、私は正面の陛下へ礼をする。五年ぶりのこの部屋で、見るべき相手は決まっている。
「始める」
陛下の声で、宰相が立った。老臣は書面を捧げ持って、抑揚を変えずに読み上げていく。
「決裁停滞の調べ、復命いたします。過去五年、王太子殿下名義の決裁一千四百余件につき、下読み、要約、裁可案の作成は、いずれも同一の手によるもの。筆写の照合により、その手はオルドレイク侯爵令嬢エルネスタ様のものと確認いたしました。あわせて、外交文書の下書き、社交上の調整、複数の醜聞の沈静化についても同様でございます」
数字が読み上げられるあいだ、部屋の空気が少しずつ硬くなるのが分かった。一千四百、という数のところで、財務卿の眉が動く。醜聞の沈静化、のところで、王妃陛下の視線が一度だけ殿下へ流れた。読み上げは事実だけを積む。積まれた事実の高さを、私はどこか他人の経歴のように聞いた。五年、名前がなかった仕事に、今日、公の声で名前が付いていく。
「後任の選定について」
宰相は頁をめくり、そこで初めて、ほんのわずかに間を置いた。
「後任の候補は、一人も見つかっておりません」
代わりなど、いくらでもいる。あの夜の言葉を、この部屋の何人が思い出しているだろう。私は思い出している。思い出して、何も感じない自分を確かめている。感じないのは、勘定が済んでいるからだ。済んだ勘定を、人は痛みとは呼ばない。
「続いて、婚約契約書第十二条の適用について」
書記官が新しい紙を広げた。持参金の返還、教育費の精算、違約金。数字は先日の検分どおりに読み上げられ、そして最後の一項で、宰相の声がわずかに改まった。
「同条末項。解消事由の王宮記録への記載。本件解消の事由は、王家側の帰責。付して、断罪の根拠とされた諸事実は、調べの結果、いずれも確認されず。令嬢への嫌がらせの訴えは、事実無根として公式記録より撤回いたします」
事実無根。その四文字が公文書の言葉で読み上げられる瞬間を、私は五年分の静けさで聞いた。第十二条を、皆は金銭の条項だと思っている。あの夜、大広間で読み上げたとき、殿下もそう聞き流した。末項が名誉の条項だと知っていたのは、たぶん、契約書を五年間持ち歩いた私だけだった。
私が取り戻したかったのは、お金ではない。名前だ。隣の席で、父が一度だけ目を閉じた。開いたとき、父はもう書類の顔に戻っている。それでいい。泣く場面ではない。回収の場面だ。
読み上げと同時に、係の者が小箱をひとつ、私の席へ運んだ。婚約に際して預けた品の、返還。蓋の内で、鈴蘭の銀細工が五年ぶりに私のほうを向いていた。契約というものは、こういう品まで正しく覚えている。
「陛下。発言をお許しください」
殿下が立った。半月余り見ない間に、頬の線が変わっていた。
「此度の一切は、私の不明に発します。断罪は誤りでした。裏も取らず、衆目の前で、五年支えてくれた人を辱めました」
覚えのある声とは、張りが違った。原稿の匂いもしない。この方は、この方なりに、初めて自分の言葉で話している。それが分かる程度には、私はこの声を五年聞いてきた。重臣の何人かが、姿勢を直した。誠意は、この部屋の全員に聞こえている。聞こえた上で、私の答えが変わらないことまでは、まだ誰も知らない。
殿下がこちらを向く。名を、呼ばれた。
「エルネスタ」
肩書きも家名もなしに名だけを呼ばれたのは、五年で初めてのことだった。部屋のどこかで、衣擦れの音がやむ。私は顔を上げて、初めてまっすぐ、殿下の目を見た。見てしまえるくらいには、もう終わっているからだ。
「すまなかった。……戻ってきてほしい」
沈黙が、一拍。
その一拍のあいだ、部屋中の視線が私の口元に集まるのが分かった。書記官のペンが、宙で止まっている。王妃陛下が扇を握り直す。誰かが、期待に似た息を吸った——。
「謝罪は受け取ります。ですが、受け取ることと戻ることは、別の手続きでございます」
ペンの音が、走り出す。
財務卿の扇が、音もなく開いて口元を隠した。若い重臣が隣と目を見交わす。王妃陛下だけが、私を見ていた。責める目ではないことが、かえって長く感じられた。泣き崩れも、取り乱しもしない元婚約者を、この部屋はいま、初めて正面から見ている。あの夜の大広間が見損ねたものを、今日は国の記録が見ている。
殿下の顔から、順番に色が引いていった。謝れば戻る、という橋を、この方はまだ半分渡っていたのだと思う。渡りきる前に、橋のほうを外した。
「……何が足りない。爵位か。財か。望みを言ってくれ」
「殿下から頂きたいものは、五年前ならございました。今は、ございません」
五年前ならございました、のところで、王妃陛下が目を閉じた。重臣の列から、押し殺した咳がひとつ。殿下は口を開きかけて、開いたまま、言葉の在庫が尽きた顔をした。手が、玉座の方向とも私の方向ともつかない宙で、ゆっくり下りる。
それ以上は、見なかった。見届ける義務は、契約のどこにもない。代わりに、末席の気配をひとつだけ確かめた。カイウス様は目を伏せて、動かない。この場を私の場として空けている人の、動かなさだった。
「王家より、申し出がある」
陛下が代わって口を開いた。五年の功に対する顕彰、ならびに王宮女官長への任。破格、という言葉が重臣の間を走る。私は椅子から立ち、礼の深さだけは正確に返した。
「身に余るお話でございます。精算金のみ、契約のとおり頂戴いたします。顕彰とお役目は、辞退申し上げます」
「理由を聞こう」
「私の五年は、この国では名前を持ちませんでした。名前のない働きに、いまさら冠だけを頂いても、着ける首がございません」
陛下は短く息を吐いて、それ以上は問わなかった。問わない、という返しが、この場でもらった中でいちばん礼にかなっていた。代わりに、末席から声が上がる。
「陛下。レーヴェン王弟府より、この場を借りてお伝えすることがございます」
カイウス様が立って、青い封書の写しを掲げた。
「王弟府は、エルネスタ・オルドレイク様を文書官として正式に招聘いたします。発令は本人の受諾を待ちますが、招聘の意思は本日、両国の記録に残します」
ざわめきが波になる前に、彼は続けた。
「あわせて、我が国の見立てを一つ。貴国が失われたのは婚約者ではなく、無給の宰相がお一人。それだけのことです」
それだけのことです、という締めの軽さが、この部屋のどの重い言葉より深く刺さるのが、席の空気で分かった。財務卿が目を伏せる。書記官のペンは、もう止まらない。両国の記録に残ります、と彼は言った。王宮の記録から消されていた五年が、国境の向こうの記録には最初から残っていた。残っていた場所のほうへ、私はこれから行く。
陛下が、玉座から一同を見渡した。
「裁定を下す。本件解消の帰責は、全面的に王家にある。第十二条の定めは全項履行。レナートは本日より執務を謹慎し、立太子の式は、無期の延期とする」
無期、の一語で、部屋の温度が下がった。延期は処刑ではない。幽閉でもない。ただ、いつ王になれるかを誰も約束しない、という状態が今日から始まる。約束のない状態で待つことの長さを、殿下はこれから学ばれるのだろう。私が五年かけて学んだことを。殿下は動かない。動けないまま、父である王の声だけを受けている。殿下の側から、言葉は出なかった。出ない、という選び方も、あの方には初めてのことかもしれない。
「レナート。おまえが失ったものは、国庫では買い戻せぬ」
引導は、静かだった。静かなまま、この国の記録に残った。
閉会の礼をして、私は誰よりも先に退出を許された。扉までの十数歩を、私は急がずに歩く。背中に集まる視線の数を、もう数えない。数える係を、今日で辞めた。扉の前で、衛兵が把手を引く。五年前、宣誓を終えて出たときと同じ扉だ。あのときは、重かった。
回廊を抜けると、門の向こうで昼の光が待っていた。息を吸う。吐く。歩幅が、ひとりでに広くなる。馬車まわしの手前で、父が待っていた。何も言わずに、帽子だけ取る。私も何も言わずに、隣に並んだ。言うべきことは、全部あの部屋の記録に残してきた。
門の外の空は、五年前より広かった。




