第六話 数え切れない
母上の扇は、悪い報せのときほど静かに閉じる。
「断られました」
王妃は前置きなしにそう言って、閉じた扇を膝に置いた。オルドレイク侯爵家を訪ねたのは今朝のこと。王家の意向として復帰を打診する、と言い出したのは母上自身で、レナートは止めなかった。母上が出向いて断られる縁談はない、というのが宮廷の常識だったからだ。常識は半月で三つ崩れた。決裁は署名では済まず、婚約者の椅子は空けば埋まるものでもなく、そして今日、王妃の口利きが通らなかった。
「侯爵は席を外し、令嬢が一人で応対しました。茶は出ました。話も、最後まで聞いてもらえました。それから、こう」
母上は一度だけ、目を伏せる。
「王家のため、は私の理由にはなりません。五年間、王家のために働いた者の名を、王妃様は今日まで一度もお呼びになりませんでした。あの子は、そう言って笑っていました」
笑っていた、という部分が、報せのどこよりも重かった。泣かれたなら、まだ手はあった。怒られたなら、詫びようもあった。笑って断る者には、渡す取引材料がない。交渉の席が、最初から存在していない。取引材料、と考えた自分に薄く嫌気が差して、それでも他の考え方を知らない。王太子の口説きは、いつも国庫と地位でできていた。
「……名を、呼ばなかったのですか。母上が」
「呼んだつもりでいました。オルドレイクの、と。未来の王太子妃、と。あの子の言うのは、そういう呼び方ではないのでしょう」
母上は扇を開かないまま立ち上がった。去り際に、独り言に近い声が落ちる。
「王家のため。わたくしも、その言い方しか教わってこなかったのだけれど」
扉が閉まって、レナートは執務机の山を見た。山は今日も減っていない。減らないまま、母上の一言だけが増えた。昼には、宰相の調べの中間の報せが届いている。過去五年の決裁記録の筆写を照合している、とだけあった。何を照合しているのかは、訊かなくても察しがつく。察しがつくようになったこと自体が、半月前の俺にはなかった能力だった。
夕刻、ミレイユが来る。
三日ぶりに見る顔は、化粧の下が少し疲れていた。子爵家の夜会の話を、彼女はしなくなった。代わりに今日は、旅の話を始める。南の叔母の領地が気候もよく、静養に向いていて、と。
「静養。おまえがか」
「ええ。わたし、疲れてしまいましたの。……ねえ、殿下。殿下はこれから、どうなさるおつもり」
どう、と訊き返す間に、彼女の目が執務机の山を撫でた。品定めの動きだった。あの目つきを、レナートは商人の店先で見たことがある。気づかない振りをした。気づかない振りは得意だ。五年、それで通してきた。
「決裁は片付く。宰相が人を立てる。おまえが案じることではない」
「片付いておりませんでしょう。社交界ではみんな申しておりますもの。殿下のお立場も、その、以前とは」
そこで彼女は言葉を切って、慣れない間を持て余して、それから一息に言った。
「わたし、次の国王陛下だから、お慕いしていましたのに」
部屋の空気が、一段さがった。
言ってから、彼女自身が驚いた顔をする。零れた本音を拾い直す器用さは、この娘にはない。ないからこそ、あの涙は本物に見えたのだと、レナートは場違いに得心した。
ミレイユは震える指で髪から銀細工を抜いて、卓の上へ置いた。鈴蘭の飾り。あの夜、彼女の髪で光っていたもの。
「お返しいたします。こんな、安物」
安物、という響きに、控えの女官が二人、同時に固くなる気配がした。目を伏せながら、二人とも聞いていた。聞いた話は、明日には女官部屋を回る。回った先で、どう語られるかまでは、もう誰にも止められない。止める手立てなら、以前はあった。あったことを、俺は失ってから一覧で知っていく。一覧は、日ごとに長くなる。
ミレイユは礼だけは綺麗にして、部屋を出ていった。卓の上の鈴蘭は、燭台の灯りで小さく光っている。誰の細工かも、誰の形見かも、レナートはまだ知らない。知らないままで贈ったものが、知らないままで戻ってきた。拾い上げると、銀の細工は見た目より重い。裏に、読めない文字の刻印がある。レーヴェンの古い綴りに似ていたが、確かめる術を、この部屋は持っていない。安物、という言葉だけが、卓の上に残って冷えていく。
夜。人払いをした執務室で、レナートは自分で茶を淹れた。
湯は沸かしすぎて、葉は多すぎた。一口で分かる渋さを、意地で二口飲んで、やめる。以前の茶は、こんな味ではなかった。こんな温度でもなかった。あれを整えていた手を、レナートはもう知っている。知っていて、五年間、一度も問わなかった。女官を呼べば済む話を、今夜は呼ぶ気になれない。誰かに淹れさせた一杯は、もう以前の一杯の代わりにならないと、どこかで分かっていたからだ。
隣室から、黒い帳面の束を自分で運んだ。五冊。年号だけの背表紙。誰にも読まれる予定のなかった字が、几帳面に並んでいる。最初の頁に、記録の目的が一行だけ書いてある。殿下の御世が円滑であるように。それだけ。署名はない。無いことが、この帳面の全部を説明していた。
一年目の頁。朝の茶は湯冷まし三分、議題が財務の日は甘い菓子を添える。北の使節の名と、その夫人の好む花。俺の落馬の噂を三日で消した経緯が、三行で片付けてある。
二年目。式典で俺が読み違えた祝辞の、修正稿。読み違えたこと自体を、俺は覚えていない。覚えていない失点が、頁をめくるたびに出てくる。拾われた失点は、拾われた瞬間に俺の中から消えていたらしい。消えた失点の数だけ、俺は自分を有能だと思ってきた。有能さの正体が、隣室の灯りだったとは。
三年目。通商協定の返書、三稿。留保条項の直しの跡。夜半の蝋の垂れた染みが、頁の隅に残っている。この返書を、レーヴェンの外交官が水準と呼んだ。水準を作った手の持ち主を、俺は書類越しにしか知らない。
四年目。ブラン男爵令嬢の茶会の席次の手配。招待主への礼状の下書きまで、ある。
頁を持つ手が、止まる。
守られていたのは、俺だけではなかった。俺が選んだ娘の足場まで、この字が組んでいた。組んだ本人だけが、あの夜、断罪される側に立たされていた。
五年目の頁を繰る。俺の誕生祝賀の式次第。母上への献上品の目録。国璽の更新の段取り。頁の端まで文字で埋まって、それでも探した。この帳面のどこかに、あれ自身の予定が一行くらいあるはずだと。
なかった。五冊のどこにも、あれの誕生日も、あれの休みも、あれのための一行もない。俺の予定なら、五年分ある。俺の好みなら、頁の隅々まである。あれは俺を、俺自身より詳しく記録して、自分を一行も残さなかった。
数えようとした。茶が幾杯。書簡が幾通。消えた噂が幾つ、整えられた朝が幾日。指を折る前に、桁のほうが先に崩れた。五年は千八百日ある。千八百の朝に茶があり、千八百の夕に翌日の根回しがあった。祭日も、あれの病の日も、帳面の字は途切れていない。途切れなかった理由を、愛と呼ぶことすら、いまの俺には許されていない気がした。誰も数えていない。数えていた者が一人だけいて、その一人を俺は追い出した。追い出した夜のことも、思い出そうとした。あれは何を着ていたか。どんな顔で礼をしたか。出てくるのは、承知いたしました、という声の平らさだけ。あの平らさの下に何があったのかを、俺は今夜、帳面で読んでいる。帳面を閉じて、もう一度開いた。読む資格を疑いながら、読む以外にできることが見つからない。
「……全部、あれの手だったのか」
声に出して、返事のない部屋で、その言葉の遅さだけが残った。
静かで、面白みのない女だと、あのときは思っていた。今なら分かる。あれは我慢の静けさですらない。言っても届かない相手の帳尻を、黙って合わせ続けた者の静けさだ。そしてその帳尻合わせを、あの夜、俺が自分の口で終わらせた。
明日から、ではない。半月前から、もう二度と、この帳面の続きは書かれない。茶の温度も、失点の後始末も、席次の手配も、二度と供給されない。供給、という言葉の冷たさが、いまの俺にはいちばん正確だった。
夜明け前に、便箋を出した。
王家の封蝋は使わなかった。王太子の印も使わない。王家の名で出した九通は、封も切られずに戻った。当然だと、いまなら思う。あの九通は、王太子から元婚約者への手紙で、俺からあれへの手紙ではなかった。レナート、と名前だけを署名して、面会を乞う旨を三行で書いた。三行より長く書く資格が、いまの自分にあるとは思えない。
蝋を垂らして、自分の指輪の紋を捺す。少し歪んだ。歪んだまま、直さずに封をした。綺麗に捺せるようになる頃には、と考えかけて、やめる。頃合いを待つ資格も、たぶんもうない。
翌朝、王太子は生まれて初めて、自分の名で面会を申し込んだ。




