第五話 部屋の隅の夜会
招待状は、三日待っても一通しか来なかった。
以前は違う。週の初めには銀盆が花のように埋まって、侍女が読み上げる家名を聞き分けるのが、ミレイユの朝のたのしみだった。伯爵家の園遊会、公爵夫人の音楽会、若夫人がたの茶会。どれに出ても席は真ん中に用意されて、皆がミレイユの話に笑ってくれた。
今週届いたのは、遠縁の子爵家の夜会が一通きり。それも宛名の文字が事務的で、花の香も焚かれていない。香を焚いた招待状がどれほど特別だったかを、ミレイユは香のない一通で知った。
「みなさま、お忙しいのねえ」
口に出してみると、部屋の空気は返事をしなかった。侍女は目を伏せて、盆を下げていく。前は一緒に家名を数えてくれた子だ。数える家名がなければ、はしゃぎようもないのだろう。
婚約破棄の夜から、半月が経つ。あの夜、ミレイユは物語の頂点に立ったはずだった。王太子殿下に選ばれ、衆目の前で愛を誓われ、意地悪な令嬢は退場した。それなのに、幕が上がるどころか、客席のほうが暗くなっていく。殿下からの文も、この三日は届かない。届いた文には、決裁がどうの、宰相がどうのと、わたしに読めない愚痴ばかりが並んでいた。物語のお姫様に、そんな頁は要らないのに。
子爵家の夜会には、迷って、出た。出なければ忘れられる気がした。
会場に入って三歩で、空気が違うと分かった。
視線は集まる。集まるのに、誰も近づいてこない。以前は三歩も歩けば誰かが扇を鳴らして呼び止めて、ドレスを褒めて、殿下とのなれそめを聞きたがった。今夜は、視線と一緒に囁きが届く。
「まあ、いらしたの」
「殿下の決裁が三件も期日を破ったそうよ。レーヴェンのご機嫌まで損ねて」
「氷の淑女ですって。笑わせるわ。氷はどちらだったのかしらねえ」
囁きは、扇の裏に隠れもしなかった。ミレイユは笑顔のまま、笑顔の向け先を探した。見つからないまま、給仕から果実水を受け取る。手袋の中の指が、思ったより冷えていた。ドレスは今夜のために新調した若草色で、仕立屋は前と同じ店を選んだ。選んだのは自分だと思っていたけれど、思えばあの店も、教えてくれた人がいた。
おかしい。前は、こんな言葉は耳に入る前に消えていた。誰かが話題を変えてくれた。誰かが、まあそんな、と笑って打ち消してくれた。あの誰かは、今夜はどこにもいない。代わりに届くのは、三年前の茶会の話、階段の話、葡萄酒の話。あの夜、殿下が数え上げた意地悪の数々が、そっくり裏返って戻ってくる。嘘だと言い返す先から、では本当は誰が、という目に囲まれた。言い返す声は、練習していない。守られる側の台詞しか、ミレイユは覚えてこなかった。
奥の椅子に、老侯爵夫人の姿を見つけて、ミレイユは息を吹き返した。社交界の生き字引と呼ばれる、あのご夫人。以前、若い夫人がたの意地悪から庇ってくださった方。あの方はわたしに優しい。
「ごきげんよう、奥様。お会いできてうれしゅうございます」
精いっぱいの礼をすると、老夫人は扇をゆっくり畳んで、ミレイユを頭から爪先まで見た。値踏みの目つきに、覚えのある温度がなかった。
「あなた、勘違いをしていらしたのね」
「え……」
「三年前の秋の茶会。あなたが階段で躓いたと泣いた日、意地の悪い噂が立ちかけて、三日で消えたでしょう。あれを消して回った方がいらしたの。あなたの礼儀の粗を、教養のなさを、笑い話にされる前に拾って畳んでいた方が。招待状が続いたのも、席が真ん中だったのも、同じ方の手配」
老夫人は扇の先を、会場のざわめきへ向けた。
「社交界があなたに優しかったのではなくてよ。あなたが嵌めた方の、躾が優しかったの」
躾。その言い方が、ミレイユには一拍遅れて刺さった。守られていた、という意味だと分かるのに、もう一拍かかった。
「わたし……存じませんでした」
「存じないでしょうとも。守られている間は、守られていることが見えないもの。見えるようになったのは、なくなったからよ」
扇の先が、今度はミレイユの髪へ向いた。鈴蘭の銀細工。今夜も、いちばん目立つ位置に挿してきた飾り。
「その細工の由来も、ご存じないのでしょうね」
「殿下から賜ったものですわ」
「そう。賜りものの来し方は、いつか誰かが教えてくださるわ」
老夫人は立ち上がり、通りすがりの公爵夫人と挨拶を交わして、そのまま行ってしまう。引き留める言葉を、ミレイユはひとつも持っていなかった。
広間の中央で、殿下が笑っている。取り巻きの数は、以前の半分もない。若い令嬢たちは殿下と目が合う前に列を離れて、母親の陰へ戻っていく。一曲目の相手を探す殿下の視線が、会場を二周した。二周しても、誰の扇も上がらない。氷の淑女がいた頃は、と誰かが言うのが聞こえた。あの方が隣にいらした頃は、殿下も間違えなかったと。比べられているのが殿下なのか、わたしなのか、聞き分けられなかった。
きらきらしていたはずの人が、灯りの下で、ただ困っている人に見えた。
わたしは、あの人の何を好きだったのだろう。考えて、答えの浅さに自分でぞっとした。玉座にいちばん近い人。物語のお相手役。それ以外の答えが、探しても出てこない。男爵家の三女に生まれて、物語だけが遠くへ行く方法だった。だから選んだ。選んだ先が、書き割りだっただけ。
果実水のグラスが空になっても、誰も次を勧めに来ない。ミレイユは壁沿いに歩いて、燭台の陰の椅子に腰を下ろした。ここなら、囁きより楽団の音のほうが大きい。楽団は、あの夜と同じ曲を弾いている。あの夜は世界でいちばん綺麗な曲に聞こえた。同じ曲が、今夜はただ長い。胸の内で、秤の皿が傾く音がした。このままでは、沈む。沈む船の名前を、ミレイユはまだ口に出さないでおいた。
意地悪な令嬢が退場したはずの物語で、部屋の隅に座っているのは自分だった。
ミレイユは生まれて初めて、部屋の隅で夜会を過ごした。




