第四話 読み手の時間を敬う書き方
隣国の立会人は、約束の刻限ちょうどに侯爵家の門をくぐった。
カイウス・ファルクレア外交伯爵。レーヴェン王弟府の名代として、鉱山権益の返還に立ち会う人。応接室に通された彼は、型どおりの口上を型どおりの長さで済ませて、それ以上の飾りを足さなかった。歳は二十六と聞いている。外交官にしては若く、若さを補う声の落ち着きがあった。握手の代わりに一礼を選び、卓の椅子は勧められてから引く。他国の家で振る舞い方を知っている人だ、というのが最初の見立てだった。
「本日は検分のみです。ご用意の書類を、順に拝見します」
父が目録を渡し、私は精算資料の写しを卓に並べた。持参金の明細、教育費の実費、違約金の算定書、それから王宮へ渡した引き継ぎ書の控え。カイウス様は一枚ずつ、署名欄から先に読む人だった。数字より先に、誰が責任を負う書面かを確かめる読み方。癖の分かる読み方をする人は、書き方にも癖が出る。彼の指は頁の角を折らない。読み終えた書類は、届いたときの向きへ戻される。書類の扱いで人柄を測るのは私の悪い癖だが、この癖に外れは少ない。
引き継ぎ書の控えのところで、彼の手が止まった。
長い、と感じるほどの間ではない。ただ、それまでの一定の拍が、そこだけ乱れた。
「失礼。この控えは、ご本人の手によるものですか」
「はい。引き継ぎ書は私が」
「では、伺いたいことがひとつ」彼は懐から折り畳んだ紙を出した。開かれたのは、外交文書の写し。「三年前、貴国から我が国に届いた通商協定の返書です。王太子殿下の御名の。この下書きの手と、この控えの手は、同じ方ですね」
見覚えのある文面だった。冬の夜に三度書き直した、留保条項の段。三度目の書き直しを終えた夜明けの、指のかじかみまで一緒に思い出す。あの返書に受け取り手がいたということを、私は初めて具体で知った。
「……お答えする義務のある質問でしょうか」
「ありません。ですが、答え合わせをしたい質問を、五年間持っていました」
五年、と彼は言った。
「我が国に届く貴国の文書には、二種類ありました。読むのに時間のかかるものと、かからないもの。かからないものは、いつも同じ手でした。論点が先に立ち、留保は最後にひとつ。段の切れ目で息が継げる。私どもの間では、顔も知らない文官殿、と呼んでおりました」
顔も知らない文官殿。その呼び名を、私は口の中で繰り返さないように気をつけた。繰り返せば、何かがこぼれる気がした。
「読み手の時間を敬う書き方だ。五年、誰にも言われませんでしたか」
言われませんでした、と答えるまでに、書類の角を二度揃えた。声は乱れなかったと思う。指先のインクの染みを、卓の下に隠したことだけ、自分で覚えている。五年間の仕事に、宛先はあっても受取人はいなかった。受取人がいた、と分かった日に限って、私はうまい返事のひとつも持ち合わせていない。
「……業務に、評価は求めておりませんでしたので」
「求めていないことと、受け取らないことは、別の話です」
返す言葉を探して、見つからないうちに、彼のほうが視線を書類へ戻してくれた。カイウス様は写しを畳んで、検分に戻る。それきり、その話を引き延ばさない。引き延ばされたら、たぶん私は困っていた。
検分は算定書に進んだ。彼は数字の照合を早く、正確に済ませていく。異議はふたつだけ、どちらも私に有利な側への訂正だった。最後の頁で、彼の指がまた止まる。
「この一覧に、あなた自身への項目がありません」
「慰謝の請求は行いません」
「理由を伺っても」
「感情の項目は、契約書のどこにもございませんので」
カイウス様は算定書から目を上げて、初めてまっすぐ私を見た。責める目ではない。値踏みの目でもない。ただ、書かれていない行を読む目だった。
「承知しました。では立会人として、この欄が空欄であることを、記録に残しておきます」
空欄を記録する、という言い方を、私は初めて聞いた。記録は責めない。埋めろとも言わない。ただ、空欄がそこにあったという事実だけが、いつか誰かの目に留まる場所へ残る。父の言った、記録には残る、という言葉と同じ形をしていた。
そのとき、扉が叩かれて、執事が銀盆を運んできた。盆の上には手紙の束。封蝋はどれも王家の紋で、差出人の名はどれも同じだった。三日で九通目になる。一通目が届いた朝、父は開封するかと訊いた。契約に関する通知なら代理人宛に来るはずで、私宛に来るものは、契約の外のもの。契約の外のものを受け取る義務は、もう私にはない。
「お返事は」と執事が問う。
「開封いたしません。本日分もまとめて、王宮へお戻しして。以後のご連絡は代理人を通していただくよう、先方の家令に文書で」
執事が下がる。カイウス様は手紙の山を一瞥して、何も言わなかった。言わないでいてくれることが、この場ではいちばん礼儀にかなっていた。代わりに彼は、検分済みの書類を紐で括り直して、封緘の位置を私に確かめさせた。仕事の話だけが続く安心を、この人は分かって差し出している。
検分が終わり、彼は書類鞄から、もう一通の封書を出した。蝋の色が違う。深い青。レーヴェン王弟府の紋。
「立会人としての仕事はここまでです。ここからは、別のお役目で参りました」
差し出された封書の表には、私の名があった。宛名に、家名より先に私の名。家名より先に自分の名が書かれた封書を、私は生まれて初めて受け取った。
「王弟府文書官への招聘状です。任期は三年、更新可。文書の起草と、貴国との折衝の下支えを。俸給は同職の男性文官と同額です」
「……私は、つい先日まで貴国の隣国の、王太子の婚約者でした。事情はご存じのはずです」
「存じています。その上で、五年前から欲しかった書き手に、順番が回ってきただけのことです」
即答はできなかった。施しなら断れる。同情なら断れる。これはどちらの形もしていなかった。仕事の形をしていた。値段と、任期と、職名のある形。
「これは求婚ではなく、求人です。お断りになっても、選べる道を三つご用意しました」
彼は指を折らずに、言葉だけで数えた。ひとつ、招聘を受ける。ふたつ、断って王国に留まる場合は、王弟府名義の推薦状を用意する、行き先は私が選ぶ。みっつ、返答を保留する、期限は設けない。三つとも、私が選ぶ側に置かれた道だった。選ばせる、という形の礼儀を、私は五年ぶりに受け取っている。
「期限を設けないのは、ご不便では」
「不便です。ですが、期限で急かして得た返事に、価値があったためしがありません」
お預かりします、とだけ答えた。彼は満足そうでも不満そうでもなく、ただ頷いて、辞去の礼を取った。
夕刻、書斎の机に招聘状を置いて、しばらく眺めた。青い封蝋は、まだ切っていない。切るのは、私の答えが決まった日でいい。決めるのは、私だ。決められる、ということ自体が、この五年で一度もなかった贅沢だった。
それから、届いていた手紙の束を執事に渡す。九通の封蝋は、ひとつも欠けないまま箱に収まった。
未開封の手紙の束は、その日のうちに王宮へ送り返された。




