第三話 署名だけで
開いた書類の、一枚目から意味が取れなかった。
北部の水利権に関する上申。三枚めくって、ようやくそれだけ分かる。数字の羅列と、聞き覚えのない村の名前と、留保条件の但し書き。どこに問題があり、どこに裁可を与えればいいのか、書面はどこにも書いていない。読めない、と認めるのは癪だった。読む必要が、これまで一度もなかっただけだ。必要のなかった五年間が、いまこの机の上で嵩になっている。上申には三日前の日付があり、期日の欄に朱の印が捺してある。誰が捺していた朱なのかは、訊くまでもなかった。
「要約はどうした」
側近のダリオに訊くと、彼は書類の山を見たまま答えた。
「本日も、届いておりません」
「では誰かに作らせろ。いつもの様式でいい」
「その、いつもの様式を作れる者を、探しております」
は、と訊き返した声が、我ながら間が抜けていた。様式に名前があるという発想が、俺にはない。紙は毎朝そこにあった。陽が昇るのと同じ並びで、あって当然のものとして。誰が置くのかを考えたことは、一度もない。
断罪の夜から六日。執務室の机には、生の書類が積み上がり続けている。以前は違った。朝の机には要約の紙が載っている。案件ごとに三行の説明と、裁可・保留・差戻しの案。俺はそれを読み、妥当だと思えば署名した。それが決裁というものだと思っていた。
「これまでは、どのように処理を」
ダリオの問いに、俺は書類から目を上げないまま答える。
「……署名だけで、済んでいた」
言ってから、その言葉の意味を自分で測り損ねた。署名だけで済んでいた。では、署名の前は誰の仕事だ。
「王太子妃教育の一環で、オルドレイク侯爵令嬢が下読みをなさっていたと、書記官から聞きました」
「花嫁修業だろう。礼儀作法や、茶会の類の」
「決裁の下読みと要約と、裁可案の作成を、五年間と聞いております」
五年、と口の中で繰り返す。あの女が執務室の隣室にいたのは知っている。静かで、面白みがなく、俺が入っても顔も上げない女だと思っていた。顔を上げる暇がなかったのだ、とは考えたことがなかった。隣室の扉は、いつも半分だけ開いていた。呼べばすぐに返事があったからだ。呼んで、返事をさせて、それきり顔も見ずに済ませた日が、五年でどれほどあったか。数える気にもならない数だろう。
午後、外務の書記官長が青い顔で入ってきた。
隣国レーヴェンの外交官から、非公式の書簡が届いたという。此度の王太子名義の返書について、従前の水準との差異が著しい、真意を測りかねる、という趣旨の。レーヴェンは母方の縁続きの国でもある。縁続きの国ほど、文面の癖をよく覚えているものらしい。
「差異とは何だ。書式は揃えたはずだ」
「揃っておりますのは書式だけで、その」書記官長は言葉を選んだ。「従前の返書は、先方の論点を三段で受けて、留保を一つ残す形が常でございました。此度のものは、留保が、ございません」
「留保がないと何が困る」
「先方に、全部を約束したことになります」
書き直せ、と命じて、返ってきたのは沈黙だった。従前の形で書ける者を探している、と書記官長も言った。探している者ばかりが増えていく。書き手を替えたのですか、とレーヴェンの書簡は遠回しに訊いていた。替えた覚えはない。もとより一人しかいなかったものを、替えようがない。
夕刻、自分で封蝋を捺してみた。斜めに歪んで、蝋が紋の外へ流れた。侍従が黙って捺し直しの支度をする。この判を、俺は五年間、自分で捺した覚えがない。捺し直した蝋も、また歪んだ。侍従は何も言わずに三本目の蝋を炙る。慣れた手つきで捺していた誰かの指を思い浮かべようとして、指しか浮かばなかった。顔が出てこない。五年隣にいた者の、手元ばかり覚えている。
翌朝の机には、茶がなかった。
正確には、茶は運ばれてくる。だが、以前の茶とは違う。以前は執務を始める頃合いに、飲み頃の温度のものが要約の紙と並んで置いてあった。誰が指示していたのかを、俺は知らない。女官に訊けば、指示は毎朝別室から出ていたが、いまは出ていないという。運ばれてきた茶を一口含んで、置いた。熱すぎる。以前の茶の温度を、俺は言葉で説明できない。できないものは、頼みようもない。
別室。隣の部屋だ。
見に行くと、部屋は片付いていた。机がひとつ、椅子がひとつ、空の書架。五年ぶんの気配ごと引き払われて、埃の匂いさえまだしない。机の端に、黒い帳面の束だけが年号順に積まれて残っている。手に取る気は、なぜか起きなかった。扉を閉めて戻る間、誰ともすれ違わなかった。
昼にミレイユが来る。花のような菓子を持って、執務室を明るい声で満たして、山になった書類を珍しそうに眺めた。
「まあ、大変。わたしがお手伝いできればよろしいのに」
一枚を手に取って、彼女は可愛らしく眉を寄せた。逆さまだ。上下を直しもしないまま、彼女は書類を山へ戻して、観劇の話を始めた。責める気にはならない。読めることを期待して隣に置いた女ではない。ただ、読める女が隣室にいた五年間を、俺は初めて長さとして感じた。
菓子は甘く、執務室には合わなかった。彼女が帰ったあと、皿だけが書類の山の横に残った。皿を下げさせて、山の一番上へ手を伸ばす。読めるところまでは読む。読めたのは、差出人の名前までだった。
夕刻、宰相が執務室に現れる。老臣は書類の山を一瞥して、抑揚のない声で言った。
「決裁の停滞について、原因の調べを始めます。国璽の関わる案件が三件、期日を過ぎましたゆえ」
「じきに片付く。人を探させている」
「探して見つかるものかどうかも、含めて調べます」
老臣の目が、一瞬だけ隣室の扉へ動いた。何かを言いかけて、やめた気配があった。宰相は一礼して出ていく。扉が閉まる音が、妙に重かった。
夜、灯りを自分で消した。消す前に何かを確かめる習慣は、俺にはない。
机の上の山は、翌日にはもうひとつ高くなっていた。




