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婚約破棄は承りました。復縁のご相談は、代理人を通してくださいませ  作者: 九葉(くずは)


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第二話 感情の項目

王宮の私室は、五年暮らしても私の匂いがしなかった。


夜会の翌朝、私は荷造りの指示を出した。持ち込んだ私物は驚くほど少ない。ドレスの大半は王太子妃教育の備品で、装身具は行事ごとに貸与されるもの。手元に残る箱は三つで足りた。五年の暮らしが箱三つに収まることを、寂しいとは思わなかった。持ち込まなかったのは、たぶん最初から、ここを住まいと数えていなかったからだ。侍女たちは目を伏せたまま手を動かし、誰も昨夜のことを口にしない。廊下の空気だけが、いつもより私を早く通した。荷の最後の箱を抱えた古参の侍女が、扉の前で一度だけ足を止める。何か言いかけて、結局、深く頭を下げた。五年で受け取った中で、いちばん長い礼だった。


執務室に寄って、机の上を整えた。五年分の執務日誌。決裁の要点、根回しの先、殿下の言い忘れの控え。背表紙に年号だけ振った黒い帳面が、机の端にきちんと積み上がる。一冊目を開けば、十四のときの角張った字がある。殿下の好む茶の温度、苦手な議題、寝不足の朝の機嫌の直し方。誰に頼まれた頁でもない。頼まれない仕事ばかりが、五年で五冊になった。持って帰るつもりはなかった。これは私の記録であって、私の財産ではない。置いていくことが、いちばん正確な引き継ぎになる。読まれるかどうかは、置いていく側の管轄の外だ。


引き継ぎ書そのものは、一枚で済ませた。王妃陛下への朝の挨拶の刻限。月例の茶会の顔ぶれ。婚約者としての義務は、書き出せばその程度のものだった。決裁の下読みも、要約も、裁可の案も、一行も書かない。あれは契約のどこにも載っていない仕事で、載っていない仕事に引き継ぎは発生しない。一枚きりの引き継ぎ書は、五年の実態と釣り合わない。釣り合わないことそのものが、正しい記録だと思った。


最後に、預かっていた印章を布に包んで文机に置いた。殿下の名代として封蝋を捺すための、王家の紋の判。五年間、私の指はこの重さを覚えすぎた。布の結び目を整えると、指先が急に軽くなって、その軽さのほうに戸惑った。


部屋を出るとき、一度だけ振り返る。私の匂いのしない部屋は、最初から誰もいなかったような顔をしていた。


侯爵家の自室は、王宮より狭くて、よく眠れた。


翌日から精算の書類に取りかかった。婚約契約書の写しを机の左に開き、右に白紙を置く。持参金の元本と運用益。王太子妃教育に要した講師料、教材費、衣装代の実費。第十二条に定める違約金の算定式。数字は淡々と積み上がっていく。違約金の項で、算定式の但し書きに目が留まる。王家側の帰責による解消の場合、率は倍。契約を書いた誰かは、王家が破る日を最初から想定していたらしい。書面というものは、いつでも人より正直だ。五年分の領収と記録は、すべて手元に揃えてあった。揃えてあったことに、我ながら少し呆れる。領収の束には日付順に紐を通してある。誰に見せる予定もなかった几帳面さだ。備えというより、癖に近い。癖になるほど、数え続けてきたということでもある。


途中で喉が渇いて、茶を淹れようとして、手が止まった。ポットの前で、湯の量が分からない。一人分の茶葉の量も。五年間、この時間に淹れる茶は殿下の執務机のためのもので、自分のための一杯を淹れた覚えが、ほとんどなかった。多めに淹れて、残りを捨てた。捨てながら、湯気の向こうの執務室を思い出しかけて、やめた。あの部屋の茶の減り方を、もう私が知る必要はない。


夕刻、父が部屋に来た。ノックはいつも二回で、間が長い。


「進んでいるか」


「明日には代理人にお渡しできます」


父は机の横に立って、書きかけのリストを黙って読んだ。オルドレイク侯爵は言葉の少ない人だ。幼い頃は怖かったその沈黙が、書類を検めるための沈黙だと分かったのは、私も書類を扱うようになってからだった。


父の指が、リストの末尾で止まった。


「おまえ自身への項目が、ない」


「慰謝は請求の根拠に馴染みませんので。数字にできる損害だけを載せております」


「五年は数字にならんか」


「なりません」


即答してから、自分の声の硬さに驚いた。父はしばらく黙って、リストの端を指で揃える。それから、書類から目を上げずに言った。


「おまえは五年、よく耐えた。ここから先は、家がおまえの側に立つ」


ペンを持つ手が、止まる。


インクが紙に落ちる前に、ペンを置いた。何か申し上げるべきだと思ったけれど、事務の言葉しか出てこない口を、このときだけは開かないでおいた。父も、続きを言わない。窓の外で庭師の鋏の音がして、それが妙に長く聞こえた。


耐えた、という言い方を、私は自分に許してこなかった。務めと呼べば、痛みは経費で落ちる。父の一言は、その帳尻を五年ぶりに狂わせた。目の奥が熱くなる手前で息を整えて、リストの続きに戻る場所を探した。


「……代理人を、お願いできますか」


「務める。委任状を作れ」


返事の短さが、そのまま引き受けの深さだった。私は委任状の文面を、その夜のうちに整える。


父の書斎で委任状に侯爵家の印を捺した。蝋の香りは王宮のものと同じなのに、判の重さは半分もない。名前のための印は、こんなに軽い。捺し終えた蝋が固まるまで、父は書斎の灯りを落とさずにいた。急かさない人の隣で書類が乾いていく時間を、久しぶりに安全だと感じた。


王宮の書斎では、灯りを最後に消すのは私の係で、消す前に明日の殿下の予定を声に出して確かめるのが習いだった。聞いている者は、誰もいない。そういう習いを、もう繰り返さなくていい。


父は調べさせていたことを、そこで初めて口にした。氷の淑女という呼び名の出どころ。三年前の茶会でブラン男爵令嬢が漏らした「怖い方」という一言が始まりで、殿下の側近筋がそれを面白がって広げた、と。


「知っていたか」


「半分ほどは。噂の火消しは、殿下とミレイユ様の分だけで手一杯でしたので」


自分の分まで手が回らなかった、とは言わなかった。言えば愚痴になる。愚痴は精算の項目に立たない。


父は短く息を吐いて、委任状を畳んだ。調べは続けさせる、と言った。責めるためというより、精算の根拠を揃える口ぶりだった。数字にならないものも、記録には残る。残しておけば、いつか誰かの目に立つ。


三日目に、持参金の目録で手が止まった。


亡き母の持参財の一部が、そのまま私の持参金に組み込まれている。レーヴェン、と読める。母の生国、隣国の鉱山権益。国をまたぐ財産の返還には、相手国の立会人が要ると契約書の付則にあった。


母が嫁いできたときの荷の中に、あの鈴蘭の髪飾りもあったのだと、目録の端の古い筆跡が教えていた。母の字だ。私のよりも、少し丸い。母は私が七つの年に亡くなった。覚えているのは、髪を結う手の速さと、レーヴェン語の子守唄の断片だけ。形見の鈴蘭が誰の髪で光っているかを、目録の字は知らない。知らないままでいてほしかった。


隣国へ立会いを求める書状を、父の名で送った。委任も、算定も、通知も済んだ。あとは、届くのを待つだけだ。待つ、という時間の使い方をするのは久しぶりだった。誰かの決裁も、誰かの機嫌も、この待ち時間には関係がない。


王宮から最初の問い合わせが届いたのは、それから三日後のことだった。

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