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婚約破棄は承りました。復縁のご相談は、代理人を通してくださいませ  作者: 九葉(くずは)


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第一話 承知いたしました

壁際の空気は、五年かけて私の形になっていた。


卒業夜会の大広間に、最初の一曲が流れはじめる。王太子レナート殿下がミレイユ・ブラン男爵令嬢の手を取り、光の落ちる中央へ進み出た。婚約者の私は、柱の陰からそれを見ている。一曲目を殿下と踊ったことは、この五年で一度もない。


気の毒そうな目。面白がる目。値踏みする目。向けられる視線の種類は年々増えたが、返し方は変えなかった。扇の角度ひとつで礼にして、背筋は曲げない。オルドレイク侯爵家の娘が壁を背にして立つのなら、せめて姿勢だけは家名に見合うものであるべきだった。氷の淑女、と呼ばれていることは知っている。氷でいるほうが、都合のいいことも多かった。今夜のドレスも装飾の少ない銀鼠にした。壁際に馴染む色を選ぶのは、もう癖になっている。


今朝も王宮の執務室で、殿下の名の封蝋を三十七通の書簡に押してきた。花嫁修業という名目で回されてくる決裁の下読みと、要約と、裁可の案。それらは昨日も、その前の日も、変わらず私の机にあった。誰の手が整えているのか、殿下は考えたこともないだろう。封蝋の紋は王家のもので、そこに私の名は、どこにもない。


それでいい、と思ってきた。少なくとも、思おうとしてきた。


音楽が、途中で止まった。


弓を止めた楽団に手を上げているのは、殿下自身だ。ミレイユ様の手を引いたまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。大広間のざわめきが波のように引いて、視線だけが残った。


「エルネスタ・オルドレイク。おまえとの婚約を、この場で破棄する。ミレイユへの数々の嫌がらせ、もはや見過ごせるものではない」


よく通る声だった。五年前、婚約の宣誓をしたときと同じ、張りのある声。


宣誓の日も、殿下はこんなふうに真っ直ぐ前を見ていた。あの日の私は、その横顔に義務より少しだけ多いものを見ようとしていた気がする。見ようとするのを、いつやめたのかは覚えていない。


嫌がらせ。私は記憶の帳面を静かにめくる。ミレイユ様への招待状が途切れないよう、夫人がたに頭を下げて回ったのは私だ。彼女の礼儀作法の粗を笑う声を、茶会のたびに話題ごと受け流したのも私だ。流行を知らない彼女のために、恥をかかせない仕立屋を選んで紹介したのも。


帳面のどの頁を開いても、嫌がらせの項は見当たらなかった。胸の内で頁を閉じる。弁明のためには開かない。処理すべき案件の所在を確かめる、いつもの手つきだった。


「階段から突き落とされそうになりましたの。それから、ドレスに葡萄酒を、その」ミレイユ様が殿下の袖に指を絡ませ、言葉を途切れさせる。「わたし、ずっと怖くて」


俯いた拍子に、彼女の髪の上で銀細工が揺れた。鈴蘭を象った、小さな髪飾り。母の形見として王宮に持ち込み、婚約の証にと殿下にお預けしたものだった。それがいま、別の人の髪で寵愛の証のように光っている。


お預けした日、殿下は箱も開けずに侍従へ渡した。中身を検めた気配は、その後もない。細工の由来を知らないまま、あの方は知らないものを贈り物になさったのだろう。


会場のどこかで、扇の裏の囁きが鳴った。囁きは広がり、けれど誰ひとり前へは出ない。


殿下はミレイユ様の肩を抱き寄せた。


「ミレイユとの愛は真実だ。おまえと違って、この娘は俺の前で笑う」


笑う余地を整えて差し上げていたのはどなたでしょう。喉元まで上がった言葉を、私は扇の内側に畳んで仕舞った。言っても届かないことは、五年かけて学んである。初めの一年は、言葉を選べば届くと信じて選び続けた。二年目には選ぶ言葉が尽きて、三年目からは、届かない前提で家と王宮の帳尻だけを合わせてきた。


沈黙を、殿下は降参と読んだらしかった。一歩近づいて、声を低くする。


「泣いて詫びるなら今のうちだぞ。おまえの代わりなど、いくらでもいる」


ミレイユ様が濡れた目のまま、ちらりと周囲を確かめる。会場の視線は私に集まっていた。泣き崩れるのを待つ間合いだった。楽団の誰かが、弓を持ち直す音をさせた。


代わり。


その一語が、不思議なほど静かに腑へ落ちた。代わりがいらっしゃるのなら、今朝の三十七通は明日からその方が封をする。決裁の要約も、失言の火消しも、招待状の根回しも、全部。私でなくてもよかったのだ。それなら、私でなくてもよい。


肩から、目に見えない何かが下りていった。


私は扇を閉じた。両手を前に重ね、腰を深く折る。侯爵家の娘として最初に叩き込まれた、最上位の礼。


「承知いたしました。では、婚約契約書第十二条に基づき、解消の手続きに入らせていただきます」


大広間が、しんとした。


囁きさえ消えていた。シャンデリアの蝋が爆ぜる音が、天井の高いところで小さく鳴る。殿下の顔から、勝ちを確かめる色がゆっくり剥がれていくのが見えた。


ドレスの隠しから、折り畳んだ書面を取り出す。婚約契約書の写し。調印の日から五年、夜会にも茶会にも、私はこれを身につけて出た。王太子妃になる者の心得です、と教育係は言ったけれど、本当のところは違う。いつか要る日が来る気がして、手放せなかっただけだ。指先は震えない。五年間、他人の名の書類ばかり扱ってきた手だ。自分のための一枚くらい、綺麗に扱える。


写しを開き、該当の条を目で確かめてから、読み上げた。


「第十二条。王家側の事由により本契約を解消する場合、持参金の全額返還、王太子妃教育に要した費用の精算、ならびに違約金の支払い。あわせて、解消事由の王宮記録への記載。以上が発生いたします。手続きは明日、当家の代理人を立てて開始いたしますので、王宮のご担当にお伝えくださいませ」


「……は」


殿下の口が、それだけの形に動いた。ミレイユ様は殿下と私とを交互に見ている。筋書きと違う、と顔に書いてあった。この場で泣いて縋る役は、私に割り振られていたらしい。台本にない進行を、大広間の誰もが息を詰めて見ている。夫人がたの扇が、口元でぴたりと止まっていた。


「エルネスタ、おまえ、何を言って」


「解消のご意思は、衆目の前で確かに承りました。以後のご相談は、恐れ入りますが代理人を通していただけますか」


殿下の手が宙で開いて、掴むものを見つけないまま閉じた。


もう一度、今度は浅く礼をして、私は身を返した。


人垣が割れる。誰も声をかけない。大理石に靴音だけが規則正しく響いて、それが自分の足音だと、半拍遅れて分かる。扉の前の従僕が目を伏せたまま把手を引いた。背中で、ざわめきが堰を切る。振り返らなかった。振り返って確かめたいものが、ひとつも思い浮かばなかったからだ。


廊下は静かで、夜気は冷えていた。


窓の外に、欠けはじめた月がある。今朝の封蝋のことを思った。王家の紋で封をする仕事は、あれが最後になった。三十七という数を、私はたぶん長く覚えている。数えた者がほかにいない数字だから、私が覚えておく。明日からこの手は、誰の名のためでもなく空く。空いた手で何をするのかは、まだ決めていない。決めていないことが、こんなに軽い。


胸元に手を当てる。ドレスの布越しに、契約書の写しの角が指へ触れた。


五年ぶりに、胸の奥までまっすぐ息が吸えた。

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