第八話 六年目の署名
新しい机の上に、私の名前の札が置いてあった。
レーヴェン王弟府、文書の間。窓は南向きで、朝の陽が紙を傷めない角度に磨りガラスが入れてある。机は樫で、インク壺はふたつ。書き味を試すための反故紙まで、左の抽斗に揃えてあった。仕事のための部屋を、仕事の分かる人が整えると、こうなる。王宮の隣室を、私は五年かけて自分でこう整えた。整える手間ごと、誰にも気づかれなかった部屋を。ここでは最初から、整えられた側に座る。
「文書官エルネスタ殿。着任の署名を」
府の書記長が差し出した名簿に、私は自分の名を書いた。エルネスタ・オルドレイク。書き終えて、少しのあいだ、その一行を見ていた。誰かの名の代わりではない署名を、公の帳面に書いたのは、これが生まれて初めてのことだった。
「王弟殿下が、一言だけ伝えよと。……ようやく筆跡に名前が付いた、と仰せです」
書記長は生真面目な顔でそれだけ言って、下がっていった。窓の外で、知らない鳥が短く鳴く。知らない鳥の名を、これから覚えていく国で、私の名は最初から知られていた。文書の間の同僚は四人。年嵩の写字生が二人と、若い翻訳官が二人。四人とも、私の顔より先に筆跡の話をした。あの留保条項の直しは勉強になりました、と年嵩の一人が言う。五年間、独り言に似ていた仕事に、返事をする人たちがいる。母の子守唄の断片を、廊下で若い翻訳官が口ずさんでいた。曲の名を訊くと、この国の古い春の歌だという。断片に、二十年ぶりに続きが付いた。
最初の仕事は、三日目に来た。
国書の起草。宛先は、生まれた国。通商協定の更新に関する、儀礼と実務が半分ずつの一通。文案の指示書きには、要点が三つ、望む着地がひとつ。書きやすい指示だった。書きやすい指示を出せる上役の下で書くのは、これも初めてのことになる。
ペンは淀まなかった。論点を先に立て、留保は最後にひとつ。手が勝手に、いつもの形を組んでいく。五年間、名前のなかった形。これからは、起草者の欄に私の名が入る形。
書きながら、一度だけ考えた。この筆跡を、あちらの誰かは覚えているだろうか。
覚えていても、いなくても、この国書の中身は変わらない。どちらでもいいことだった。どちらでもいい、と本心から思えることを、指先で確かめて、私は次の段落へ進んだ。起草を終えて、写しを取る。控えの綴りの表紙に、起草者の欄がある。欄に自分の名を書き入れるとき、ペン先がほんの少し、丁寧になった。昼に、府の食堂で塩気の強い汁物を飲む。口に合う。合う、と感じる余裕が、食事に戻ってきている。王宮での昼食を、私は味で覚えていない。
十日目の夜に、着任の歓迎の宴があった。
王弟府の広間は、王都の大広間より二回り小さくて、灯りの色が柔らかい。主賓の席は中央の、いちばん灯りの集まる場所に置かれていた。壁際ではない席に着くだけで、ドレスの重さが半分になる気がした。今夜のドレスは、銀鼠ではない。菫色。目の色と揃えましょうと仕立屋が言って、揃える理由を、私は初めて断らなかった。髪には、還ってきた鈴蘭をひとつ。母の細工は、母の生まれた国の灯りの下で、いちばん綺麗に見えた。
楽団が最初の一曲の構えを取る。カイウス様が、私の前に立った。
「主賓が最初に踊るのが、当府の習いです。お相手の指名権も、主賓にあります」
「指名しなければ、どうなりますか」
「書記長が踊ります。彼の足踏みは、書類より読みにくい」
私は笑ってしまって、笑った自分に少し驚きながら、手を出した。指名します、と言葉にするより先に、手が決めていた。
一曲目。五年間、壁際から眺めるだけだった位置に、いま自分がいる。曲の名前も、床の光り方も、回る視界の速さも、全部が初めてで、全部が私のものだった。踊りながら、王都の噂がひとつ、耳の端に届いた。近頃あちらの夜会では、王太子殿下の一曲目の相手が、なかなか決まらないらしい。扇はどれも、上がらないまま。
気の毒に、とは思わなかった。壁際の寒さは、五年ぶんよく知っている。知っているだけだ。曲が終わって、拍手の中で礼を交わす。二曲目は若い翻訳官に譲って、私は葡萄水を受け取りに下がった。途中で壁際を通る。通るだけの場所として通り過ぎる壁際は、ただの壁だった。主賓の務めは一曲で終わり、残りの夜は、話したい人とだけ話して過ごした。務めが一曲で終わる夜会というものを、私は生まれて初めて知る。
半月が過ぎた頃、府の門前で王都の商人と行き合った。
紙の卸で出入りする、顔馴染みになりかけの男。荷を検めるついでに、あちらの近況をよく喋る。今日の一番の売り物は、王宮の噂だった。
「王宮の決裁が、まだ止まったままだそうでございますよ。謹慎明けの目処も立たないとかで、お役所は大騒ぎ」
「そうですか」
それだけ返して、私は紙の見本を選び続けた。商人は張り合いのなさそうな顔で、それでも上等の麻紙を勧めてくる。勧められた紙は、よい紙だった。買うことにする。荷馬車が出ていくのを見送って、門の内へ戻る。戻る先に机があり、机には今日の分の仕事がある。それだけのことが、噂のどれより私の生活だった。
私の署名は、もうこちらの国のものだ。あちらの決裁が止まっていようと動いていようと、この紙に書くのは、こちらの言葉と決まっている。
夕暮れに、文書の間へカイウス様が来た。
決裁でも検分でもなく、ただ、窓の外の色がいい時間に。彼は卓の端に書類を一枚置いて、置いたまま、しばらく話さなかった。話さない時間が気詰まりでない人と、私は初めて出会っている。窓の外では、府の庭師が薔薇の支柱を直している。直し終わるまで、と勝手に区切りを決めて、私は書きかけの下書きに目を戻した。区切りより先に、彼が口を開いた。
「精算の記録を、正式に綴じ終えました」彼はやがて言った。「あの空欄も、空欄のまま綴じてあります」
慰謝の項目のことだ、と分かるまでに一拍。分かってから、頷いた。
「それでかまいません」
「立会人としては、これで役目が終わります。ですから、立会人ではない者として、ひとつ訂正を」
彼は窓の外を見たまま、いつもの拍で続けた。
「求人だと申し上げたのは、嘘ではありませんが、全部でもありませんでした」
窓の色が、一段深くなる。
「五年前から欲しかったのは書き手で、それは本当です。半年前から欲しくなったのは、書き手の隣の席で、それは求人票に書けませんでした。……お返事の期限は、設けません。空欄のままでも、この記録は成立します」
空欄のままでも成立する。その言い方が、この人のぜんぶだった。埋めろと言わない。急かさない。ただ、欄がそこにあることだけを、正直に教えていく。返事を、明日にすることもできた。一年先にすることも、しないことも。選べる、と思った瞬間に、選びたいものの形が、もう自分の中にあると分かった。五年間、選ばされる側だった者の癖で、私は選べる状況の点検から入ってしまう。点検は、一周して同じ場所に戻った。戻った場所に、この人が立っている。
私は手元の反故紙を一枚、指で揃えた。揃え終えて、顔を上げる。
「あの五年を、悔しかったと、今なら言えます」
言えた。声は、思ったより静かに出た。
「務めだと呼んで、痛みを経費で落として、自分への項目を作らずにきました。作らないほうが、楽だったので。……その欄を空けたまま綴じてくださった方に、口頭で埋める分くらいは、お渡ししたいと思います」
カイウス様が、初めてこちらを向いた。急かさない人の目が、今だけ、返事を待っている。
「口頭でお答えするのは、初めてですね。……私も、あなたの隣を選びます」
書面はない。署名もない。証人は、窓の外の夕暮れだけ。それでもこの契約は、私が五年間扱ってきたどの書面より、確かな効力を持つ気がした。
彼は何かを言いかけて、言葉を選び直して、結局、短くなった。
「……ありがとうございます。上出来の文面を、一晩考えてきたのですが」
「存じています。書き直しの跡が、お顔に出ておいでです」
彼は観念したように短く笑って、卓の書類を取り上げる。持ってきた口実の書類は、白紙だった。白紙のまま持ってくるあたりが、この人の精いっぱいの緊張だったらしい。
翌朝は、よく晴れた。
湯を沸かして、一人分の茶葉を量る。量れるようになっていた。カップはひとつ、机の右上、書類の邪魔にならない位置。一口目の温度が、ちょうどいい。ちょうどいい温度を、私はもう、自分のために知っている。窓の外で、名前を覚えたばかりの鳥が鳴く。今日の予定は手帳に三件。三件とも、私の名前で受けた仕事だ。
机の上には、昨日綴じ上がった国書の控えと、今日発送する書簡の束。綴じ棚には、先日終わった精算記録の背表紙が収まっている。終わった仕事の背は、静かでいい。封をする蝋を炙って、垂らして、印章を捺す。
六年目の朝の封蝋は、私の名前のかたちをしていた。




