第九話 京からの知らせ
最初にその話を持ってきたのは、布を届ける使いだった。
永禄八年(1565年)の五月。庭の隅に干した筵が、日を吸って藁の匂いを立てていた。
男は戸口へ荷を置くと、腰に下げた竹筒へ手を伸ばした。飲もうとして、軽い音だけがするのを確かめ、また下ろした。母がそれを見て、水を汲みに奥へ入った。
「京が、騒ぎで」
父が、書付から顔を上げた。
「どこだ」
「公方様の御所が、攻められたと」
私は、巻いていた紐を取り落とした。
公方様。店の者がそう呼ぶ将軍は、足利義輝だった。知っている名を聞いたときに、もっと確かめておけばよかった。その人が殺される話を、私は以前に読んでいる。
「公方様は」
口を挟むと、使いの男がこちらを見た。
「討たれたという話だ」
「誰にやられた」
父が尋ねた。男は幾つかの名を挙げたが、御所へ押し寄せた者と、命じたと噂される者が、話の中で入れ替わった。戦を見たわけではない。途中で聞いた話だと、父に確かめられて言い直した。
母が水を差し出すと、男は深く頭を下げた。
「うちの主人は、今日の荷を出せと。先の分は、まだ何とも」
父は頷いた。
「道は通れたか」
「私が通ったときは」
「途中で、止められたところは」
「一度。誰の荷か、何を入れているか聞かれました」
父はそれ以上、将軍の死に様を聞かなかった。
布の包みを受け取り、届いた数を久蔵に確かめさせ、男を日陰で休ませた。
落ちた紐を拾った。湿った繊維に土が入り込み、指で払っても黒いところが残る。
殺されると知っていた。だが、どの年のどの月かと問われれば、答えられなかった。刀を並べて奮戦したという話ばかり浮かび、今日までに何をしておけばよかったのかは分からない。
向かいの家で、女が筵をひっくり返した。父は届いた布の数をもう一度聞いている。私は紐の土を払うのをやめ、使いの男へ、戻る道も同じなのか尋ねた。
昼を過ぎると、別の使いが来た。
今度は京の得意先からだった。草鞋の紐を片方、細い縄で継いでいる。袖口の土が、血のように見えて、私は思わず腕を見た。
男は擦り剝いたところを庇うように袖を直した。
「道を外れて、転びました。たいしたことはありません」
父へ渡した紙は、懐の汗で端が柔らかくなっていた。
翌日送るはずだった米を、二日だけ待ってほしいという。
京の店は残っている。主人もそこにいる。だが、荷を受ける者をいつもの場所へ出せるか分からず、先に運んでもらっても引き取れないかもしれない。改めて使いを出すので、それを待ってほしい、とあった。
「米は、要らなくなったのか」
父が聞くと、男は首を振った。
「要ります。だから、ほかへ回さずにいてほしいと」
待たせる分の手間について、父が二つ三つ確かめた。返事を書き、男に持たせる。久蔵は、翌日の荷を出すために頼んでいた者へ知らせに行った。
私は父の横へ座った。
「京向けを、全部止めた方がよくないですか」
「今の家の分は止める。ほかも返事を待っている」
「でも、その間に出す荷があったら」
「宗助。お前は、ほかに何か聞いたのか」
声が低くなった。
「京から戻った者に会ったのか」
「会っていません」
父は私を見ていた。自分が知っている将軍の死を、言葉にしそうになった。だが、今聞いた話より詳しく言えることは、ほとんどない。
「怖いんです。人を行かせるのが」
「わしもだ」
父は折りかけた紙を机へ戻した。
「だから聞いている。道を通った者と、荷を受ける家に。米を止めて、困る先がないわけでもない。こちらが止めるなら、その返事もやらねばならん」
夕方まで、店からは荷より使いの者が多く出た。久蔵の聞いた返事を家ごとに分け、私は、誰がいつ道を通ったのかを添えた。
同じ場所の話が、二つの控えに出てきた。別々の使いがそう言うなら確からしいと思ったところで、途中の言い回しまでよく似ていることに気づく。
「この二人、浜で同じ人から聞いたんじゃないかな」
隣で紙を分けていた久蔵が、手を止めた。
「確か、そこで一緒だったと」
「その人が通ったあとに、道が変わっているかもしれない。今朝通った人がいないか、浜でも聞いてもらえますか」
片方の脇へ、もう一方と同じ伝え手だと記した。三つ揃ったつもりの知らせのうち、まだ一つしか確かめられていない道もあった。
庄吉が戻ってきたのは、軒の下が暗くなる頃だった。
明日の荷運びを待ってもらう話を伝えに行っていた。約束を変える相手は、父の得意先だけではない。朝から働くつもりでいた人にも、事情を説明しなければならなかった。
「まだ戻らないのかと思った」
「こっちへ来る途中で、別の人に聞かれた。明日は本当に仕事がないのかって」
「ないんじゃない。今は待ってもらっているだけで」
「同じだろ。明日出る銭を当てにしてたら」
私は筆を置いた。
庄吉は、足についた土を払った。待たせている男の顔は、私も知っていた。倉の前で何度も一緒になっている。肩に古い傷があり、荷を下ろすときだけ片側へ体を傾ける人だった。
「父さんに伝える。待ってもらう約束をどうしたか、確かめる」
「ああ。そうしてくれ」
庄吉はそれだけ言って、帰っていった。
翌日、父は運び手たちと約束をし直した。取り消せない支度に払う分、日を変えてまた頼む分。店先で二度、声が大きくなり、私は奥にいても紙へ目を戻せなかった。
話が済むと、父は水を飲み干した。空の椀を持ったまま、しばらく動かない。
私は隣へ、京から戻った返事を置いた。父はそれを読んでから、さっき出した銭の覚えを書いた。
「代わりの荷を頼めるところも、聞いておこうか」
「そうしてくれ。明日の仕事を失った者から、先に名を書いておけ」
返事の束を渡すと、父は空いた手で目頭を押さえた。店の銭を守る人の顔ばかり見ていた。仕事を頼んだ相手に会って断り、明日もまた顔を合わせるのは、この人だった。
夕飯の前、母が清吉とお春を座らせ、しばらくは日が暮れる前に家へ戻るよう言った。清吉は黙って聞いていたが、お春は膝の上で手を握った。
「明日、向かいへ行く約束をした」
「行っておいで。日が高いうちにね。遅くなるなら、清吉に迎えに行ってもらうから」
「迎えなんか、来なくても帰れる」
お春の声に、母は少し間を置いた。
「帰れるのは知ってるよ。誰と、どこにいるか、分かるようにしておいてほしいんだ」
妹はまだ不満そうだった。清吉が、向かいなら戸口で呼べば聞こえる、と言ったので、母はようやく頷いた。
私が同じ年頃には、帰ってから行き先を聞かれることの方が多かった。お春は明日の遊びの話をし直し、清吉は聞きながら、自分の草履を戸口から奥へ寄せていた。
夜、母が戸を閉める音を聞きながら、私は裏へ出た。
庭には昼に干した筵が畳まれていた。山の方は黒く、空との境にだけ、稜線がかすかに残っている。
黒い比叡山の方へ顔を上げた。あの山が焼かれるという記憶は、熱を出した頃から消えていない。信長の名と炎の像ばかりがはっきりしている。
将軍が討たれたあと、信長が別の将軍を奉じて京へ来る。そこまでは思い出せた。本能寺の一五八二年より前だということも分かる。いくつかの出来事がようやく順に並びかけていたが、その間に何年あるかを考えると、曖昧な数字が混じった。
永禄八年と、覚えている西暦とが繋がらない。数年先なのか、来年なのか。その違いさえ分からずに、母や弟妹へ家を離れようと言えるだろうか。山裾の家々には、もう灯りが少なかった。
戸が開いた。
父が出てきて、軒の下へ腰を下ろした。私を探してきた様子ではなかった。手に持っていた椀を傍らへ置き、肩を回した。
「ここを離れた方がいいと思ったことは、ありませんか」
私は山を見たまま聞いた。
「どこへ」
「戦の少ないところへ」
「当てがあるのか」
父は山を見ず、私を見ていた。国の名なら幾つか浮かぶ。大名の名も、戦の名も。そこでこの家の者が暮らせるかどうかとなると、何も知らなかった。
「まだ、ありません」
「そうか」
父は空の椀を指で回した。
「わしも、京の使いが戻るのを待つ間、ここまで兵が来たらと考えた。舟に乗せるところまでは、孫七に頼めるかもしれん。その先だ。米をどこへ置くか、誰の家で寝るか。金を持って着けば、全部揃うわけでもない」
初めて聞く話だった。私一人が山を怖がっているつもりでいた。
「今津の取引先なら」
「頼めることはあるだろう。だが、向こうにも家族と商いがある。行ってから、何日でも置いてくれとは言えん」
「先に話しておくことは、できる?」
「向こうにも、ここへ逃げたいときがあるだろう。その話なら、できるかもしれん。次に会ったら聞いてみよう」
父の肩が私に触れた。座る場所を少し詰めたのだと気づき、私も寄った。
「お前たちを先にやることもあるだろうな」
「父さんは」
「荷をどうするか、それから――」
「一緒に考えてください」
思ったより強い声になった。父は椀を回すのをやめた。
出かけるとき、戸口から何と声を掛けたのか。妻へ最後に送った返事は何だったのか。思い出そうとすると、幾度もの朝と夕方が重なって、最後の一つだけが選べない。
「先に行けと言われるときに、初めて聞くのは嫌です」
返事はすぐに来なかった。戸の内側で母が何かを動かし、父はそちらへ顔を向けた。
「分かった。母さんにも話す」
私はもう一度念を押したくなったが、その言葉をそのまま受け取ることにした。
将軍の死は、やがて確かな知らせになった。返事が来て荷を受けられる家へは米を送り、消息の分からない先は待った。二日待ってほしいと頼んだ京の得意先からも、そのうちに使いが戻り、倉の俵がまた動いた。
待つ間によそへ移った注文もある。父が余分に払った銭は、そのまま帳面に残った。それでも次の荷を頼むと、肩に傷のある男は、また倉へ来てくれた。
夏の間、私は荷の先で誰が待つかを、以前より詳しく聞いた。今津へ渡す書付には、次に訪ねる折には主人と少し話したいと、父が一行足した。夜、軒の下で話したことを、父は覚えていた。
秋に入って、今津の米商から父へ書付が届いた。
高島へ送る米の仕事だった。
今津で二十四俵を受け取り、南へ少し戻った浜で商家へ渡す。そのうち十二俵は、さらに内陸へ運ぶ。先方が人を出すことになっているが、数と受け渡しをこちらでも見届けてほしいという。
父は書付を久蔵に見せ、それから私へ渡した。
「今度は、お前が行け」
私は紙を受け取った。
「久蔵は?」
「今回は店に残る。庄吉を連れていけ。向こうの荷運びは浜の家が手配するから、お前たちだけで抱えるなよ」
十二俵の行き先に、田中とあった。行ったことのない土地だった。地名のところへ指を置き、湖からどれくらい入るのか尋ねた。
「庄吉にも、今のうちに話していい?」
「帰ってきたらな」
戸口で彼の声がした。私は紙を持って立ち上がった。




