第八話 空いた席
久蔵の座るところへ日が当たっていた。
いつもなら、そこに袖口と、紙を押さえる指が見える。今日は細かな埃が光の中を流れているだけだった。硯の蓋は閉じたままで、筆も揃えて置かれている。
永禄七年(1564年)の春だった。
二度目の冬を越して、私は十七になっていた。前の年に直してもらった小袖は、手を伸ばすと手首が出る。母は、また出たね、と言って袖を引っ張ったが、布が縮んだのではないことは分かっていた。
今朝、着替えると、その小袖は清吉の背へ当てられた。弟は袖の先をつまみ、前に私が裂いた脇の継ぎを裏返していた。
「ここ、また破れない?」
「繕ってあるよ。お前が引っ張らなければね」
母に言われて手を離したが、清吉はまだ継ぎ目を見ていた。自分が着るとなると、気に入らないところもあるらしい。母は余る袖丈を測り、あとで詰めようと言って針箱の上へ置いた。
弟の肩が、思っていたより近くにあった。頭の中に残った小さな背丈へ、いつまでも当てはめて見てしまう。自分にもこんな継ぎだらけの袖を嫌がった覚えがあるのに。
「次の布が来たら、一緒に見ようか」
「俺のを?」
「父さんに聞いてからだよ」
清吉は針箱の小袖を眺め、先に約束してから言えよ、と口を尖らせた。
舟に乗れば、荷の上を渡らずに自分の居場所へ行けるようになった。岸を離れる前に済ませる用も分かる。孫七に叱られるのは、主に、仕事の最中に余計なことを聞いたときだった。
米の匂いも、少しずつ分かるようになっていた。秋に入った俵と冬を越した俵では違う。開けてよい荷かどうか、持ち主へ声を掛ける前に印を確かめる癖もついた。
戸口で音がするたびに顔を上げた。頼んでいた薪が届いただけでも、帳面から手を離してしまう。
「まだ熱があるって」
母が奥から出てきた。朝早く、久蔵の家へ様子を見に行っていたのだ。
「飯は」
「少し食べたそうだよ。お前のことを聞いていた」
「私の?」
「帳面をどこまで見たかって」
心配されているのが体ではなく仕事だと分かり、私は硯へ目を落とした。
「今日は、起きてこなくていいと伝えてくれた?」
「伝えたよ。伝えただけで大人しくするかどうかは、また別だけれど」
母は、私の前へ椀を置いた。白湯の湯気が、乾いた唇に触れた。
父は京へ出ており、戻るのは早くても明日だ。久蔵が寝込んで三日、約束の荷を出し、受け取り、使いの者へ返事を渡すところまでは、私がしていた。家の銭は母と確かめて出す。値や量が父から聞いた範囲を越えれば、客には待ってもらった。
そのたびに、いつ戻るのだと尋ねられる。明日には、と答えたいのを堪えて、父も道中だと話した。
戸口に影が差した。
「いるか」
扇屋だった。
細長い包みを脇へ置き、上がり口へ腰を下ろす。薄鼠の小袖の袖口から、重ねて着た青い衣が覗いていた。寒さの戻った朝で、扇屋は両手を袖へ引っ込めたままだった。
「旦那は、まだか」
「明日以降です。久蔵も、今日は休んでいます」
「そうか」
扇屋は、懐から紙を出した。
「これを済ませたかったんだが」
米代の残り、千八百文。
控えを開くと、米を渡した日の脇に、銭を待つ印が残っていた。
扇屋は、紐に通した銭を置いた。
「千六百八十だ。舟賃の百二十を引いてある」
「舟賃は、どの荷の分でしょう」
「北へ送った布だ。そっちで払う分を、先で私が立て替えた。親父殿には話してある」
米代だけなら百二十文足りないが、舟賃を立て替えてもらった覚えも、どこかにあるはずだった。私は布の書付の束を引き寄せた。
「いつの舟でしたか」
「先月の終わり。親父殿と話したんだがな」
「届け先と、包みの数だけお願いします。どの荷と差し引いたか、こちらにも残したいので」
扇屋が指を二本立てた。
「二包み、今津。孫七の舟だ」
「ありがとうございます」
紐をほどき、月末の紙を順に送る。父の急いだ字が続いたところで、一度前へ戻った。よく見れば読める。以前なら久蔵へ差し出していた紙を、明るい戸口へ少し寄せた。
該当する書付には、布二包みと、送り先が記されていた。舟賃の立て替えについて、父の筆で短い覚えがある。
さらに銭の出入りを確かめる。うちから同じ分を払った記録はない。
私は三つの紙を並べた。
「この百二十文ですね。こちらで確かめられました」
「だから、そう言ったろう」
「はい。お待たせしました」
扇屋が書付を畳む間に、私は千六百八十文を数えた。米代と立て替えの舟賃を差し引いて済んだ旨を書き、二人の間へ差し出す。
扇屋は紙を読んで頷いた。
「ずいぶん書くようになったな」
「あとで私が分からなくなるので」
「自分のためか」
「次に、そちらへ聞きに行かずに済みます」
扇屋は、鼻から短く息を出した。笑ったのだと、今度は分かった。
「それなら書いておけ。何度も同じことを話すのは、かなわん」
帰り際、扇屋は戸口で振り返った。
「久蔵には、こちらは済んだと」
「伝えます」
「病人を起こして、あとからまた聞きに来させるなよ」
私は頭を下げた。
扇屋が帰ると、母が空の椀を下げ、漬物を二切れ置いていった。朝飯を半分残したことを、まだ覚えていた。
一切れを噛みながら、三枚の紙を並べ直す。次に同じことを聞かれたら、また初めから布の束を探すのか。それは嫌だった。
米の控えの脇へ、布を送った日と、書付のある束を記した。布の方には、米代と差し引いて済んだ日を書く。新しい帳面へ全部写すことも考えたが、どれか一つを直し忘れそうだった。元の紙を開けば相手の紙へ行ける、その程度の覚えを残した。
書き終えたところへ、庄吉が入ってきた。
肩へ担いでいた空の籠を下ろし、戸口の柱へ寄り掛ける。髪の生え際に汗が浮いていた。
「山の方、済んだ」
「二つとも?」
「ああ。下の方は、あとで受け取りを持ってくる」
「どうして」
「受け取る人が、上の坊へ行ってる。米はいつもの倉へ入れた。そこの婆さまが見てた」
「いつもの人は、まだ見ていないんだね」
「ああ」
「倉へ入れた数は」
「十俵。婆さまと一緒に数えた」
私は届けたところまで記し、受け取りの欄を空けた。庄吉が籠を持ち上げかける。
「その人の名、知ってる?」
「知らん。いつも炊事場にいる人だ」
「今度、聞けるかな」
「なんで今さら知らないんだって、言われるぞ」
「私も知らないんだよ」
「じゃあ、お前が聞け」
そう言って籠を担いだ。私は、次に一緒に行ったら聞く、と答え、見落とさないよう欄外に印をつけた。
昼を過ぎると、店へ来る者は途切れた。
私は、未着の受け取りと、父の返事を待っている新しい注文を分けた。分からないところに印をつけ、明日、何を聞けばよいか短く書く。
久蔵の硯の蓋には触れなかった。
夕方、母が包んだ食べ物を持って、久蔵の家へ行った。
店からは遠くない。狭い土間の奥に、板を敷いた部屋があった。障子から入る光は薄く、家の中には煮た飯と、乾いた草のような匂いが混じっていた。
久蔵は上体を起こしていた。普段より細く見えた。髪を結い直す気力もないらしく、こめかみへ白いものが落ちている。
「来なくても、よかったのに」
「母からです」
「店は」
「母が見ています。約束の荷は出ました。扇屋の米代も済みました」
包みを置き、父の覚えを探し出せたことを話した。久蔵は壁へ背を預け、途中から目を閉じて聞いていた。
「どの支払いと差し引いたか、両方の紙へ書いておきました」
「そうですか」
「見ますか。持ってきたんだけど」
久蔵は首を横に振った。
「今は、字を追うと頭が痛くて」
「ああ。ごめん」
差し出しかけた紙を戻した。見てもらえば安心できると思っていた。そのために持ってきたことが、少し恥ずかしかった。
咳が出たので、水の椀を寄せた。久蔵は一口だけ飲み、息を整えた。
「それより、明日の荷を二つ」
「今、言わなくても」
「今なら思い出したところですから」
私は紙を開いた。届け先へ返事の届いていない荷と、父がまだ値を決めていない米。出す前に止める印をつけたと告げると、久蔵の肩が少し下がった。
「ほかは」
「それだけです」
帰り支度をしていると、久蔵が私を見た。
「宗助さん。昼を抜いていませんか」
「少し食べたよ」
「母上が、仕事を渡すと、済むまで席を立たぬと」
「それ、久蔵のことも言ってると思う」
病人に言い返してしまった。久蔵は笑おうとして咳き込み、私は慌てて椀を戻した。
「明日も、休んでいて。困ったことがあったら、先に聞きに来るから」
「ええ。では、そうしてください」
外へ出てから、懐の紙を押さえた。確かめてもらわずに持ち帰る控えが、いつもより厚く感じられた。
店へ帰ると、母が灯りの支度をしていた。戸口から入る夕日は、朝に久蔵の席を照らしていたところまで届かない。
私は自分の控えを出し、明日の荷の脇へ、久蔵に言われたことを書き足した。
翌々日、久蔵が店へ戻ってきた。上がり口へ腰を下ろし、しばらく息を整えてから板敷へ上がる。私が席の紙を片づけようとすると、そのまま見せてほしいと言った。
米と布の控えを広げ、差し引いた額を確かめる。脇の小さな覚えを見たところで、棚の束へ手が伸びた。
「これを開けばよいんですね」
「先月の終わりの方にあります」
目当ての書付が出てきた。久蔵は二枚を揃え、覚えを残しておくよう言った。
「これなら、私が出なくても済みますね」
「次も、私が受けていい?」
「ええ。値の決まったものは。分からない紙だけ、こちらへ」
私は出していたほかの控えを、自分の膝元へ戻した。一枚ずつ確かめてもらうつもりだったが、もう済んだものまで渡す必要はなかった。
客の声がした。久蔵が顔を上げる前に、私は土間へ下りた。いつもの納め先から来た使いだった。
「清兵衛殿は」
「どの御用でしょう。昨日の米でしたら、私が伺います」
振り返ると、久蔵は母の運んだ椀へ手を伸ばしていた。




