第七話 若旦那の頼み
店の前を通った男が、水溜まりを避けて軒下へ寄った。草鞋の裏から、濡れた土の塊が落ちる。
軒から落ちる雫はもう途切れている。道の真ん中だけが乾き、両側の溝には、細かな藁屑を載せた水が流れていた。向かいの家では、女が竿に掛けた赤茶の衣を広げている。濡れた布は重く、袖の先から落ちた水が、土に小さな穴を掘った。
今津から戻って半月ほど経っていた。私は板敷の端に座り、父が書いた紙を読み返していた。
「千三百五十文。受け取ったら、その場で数えろ」
父は、半分に折った紙を指で押さえた。
初めて今津で仕入れた米を、十俵買ってくれた相手への取り立てだった。米代二千七百文のうち、半分は受け渡しのときに受け取っている。残り半分を払うと約したのが、今日だ。
「払えないと言われたら」
「いつなら払えるか聞いてこい。その日まで待つと、お前だけで決めるな」
「少しだけなら、というときは」
「いくら受け取ったかを残す。残りまで済んだことにするなよ」
父は私の顔を見て、紙から指を離した。
「そんなに困る相手なら、初めから一人ではやらん」
「それを先に言ってほしかった」
小声で返すと、父は聞こえなかったふりをして、次の書付を取った。
母が、細い紐のついた布袋を持ってきた。表は藍色だが、口を折り返すと内側に薄茶の布が見える。二枚重ねになっていた。
「銭を入れたら、底を手で支えておいで。紐だけでぶら下げるんじゃないよ」
「そんなに弱く縫ってあるの」
「お前が途中で振り回すかもしれないでしょう」
振り回さない、と言いかけてやめた。昔、袋へ石を詰めて振り回し、中身ごと溝へ落としたことがある。拾おうと手を突っ込み、袖まで泥だらけになった。あのときは清吉に、母には言うなと頼んだ。二人揃って泥の袖を隠して戻り、すぐに見つかったのだった。
「今日は、石を入れないよ」
「銭の方が困ります」
母は袋の底を一度引き、縫い目を確かめてから渡してくれた。
土間では、若い男が縄の端を足で押さえていた。
庄吉という。私より二つ年上で、荷の多い日に父が呼んでいる。肩幅はまだ細いが、肘から先が太い。膝の出る長さに裾をたくし上げ、細い帯へ、使い込んだ縄を引っ掛けていた。薄い黄土色の小袖は、肩だけが日焼けして色を失っている。
子供の頃から顔は知っていた。私は店先で遊び、庄吉は、その横を荷を担いで通っていた。
「そっちも坂へ?」
「ああ。扇屋へ二俵」
庄吉は倉の方を顎で示した。
「一緒に行こう」
「若旦那が担ぐんなら、助かるけど」
私は倉を見た。
俵一つなら持ち上げられるようになった。そこから坂を上がり、先方の倉へ傷めず納めるところを思い浮かべて、返事が遅れた。
「着くまで待ってもらえるなら」
「米が飯になるのを待った方が早いな」
庄吉が笑った。私は、じゃあ先に行く、と言って戸口を出た。歩くくらいなら負けないつもりでいた。
米売りの店は、山へ向かう道から少し外れたところにあった。表の戸を外し、土間に大きさの違う木の枡を並べている。うちの倉から出ていった米が、ここで小さく分けられて売られる。
腰を曲げた女が、平たい籠を差し出していた。店の主人は米を枡へ注ぎ、口から盛り上がった分を木の棒で払った。白い筋になって落ちた米が、下の桶へ戻る。
戸口で待っていると、主人は枡の底へ残った数粒まで、指で桶へ払った。私はうちの倉で米をこぼしたときにも、同じように拾えていただろうかと、空になった木の面を見ていた。
「待たせたな」
女が籠を抱えて去ると、主人が奥へ入った。用意していたらしい銭を持って戻り、板の上へ置く。
「親父殿に、米は悪くなかったと伝えてくれ」
「ありがとうございます」
今津で俵を開いたとき、久蔵が何度も米を嗅いでいたのを思い出した。自分が選んだわけでもないのに、悪くなかったと言われると、口元が緩む。銭を数え始めてからも、もう一度聞きたい気がした。
私は紐から外した銭を数えた。主人は急かさず、別の客に米を量っていた。文字の潰れた銭が二枚あり、父から聞いていた受け取り方と違ったので、見てもらう。
「これは、こちらでは受け取らないように言われています」
「それもか。前には持っていったぞ」
「父に確かめてきます。今日は別のものに替えていただけると、助かります」
主人は私を見てから、小皿の中を探った。
替えてもらった銭を足して、もう一度数える。千三百五十文。私は父の用意した紙へ受け取った旨を書き、相手に渡した。
「次も十俵、頼めるか」
筆を片づける途中で、手が止まった。
「いつまでに、御入り用でしょう」
「急がん。来月に入ってからでいい」
「前と同じような米で」
「できればな。ただ、今度は先に値を聞きたい」
もう一枚出した紙へ、量と時期を書いた。
「値が決まったら、父からお知らせします」
「頼む」
外へ出て、袋の底を掌で受けた。千三百五十文に加えて、次の十俵の話まで持ち帰れる。家へ戻ったらどちらから報告しようかと考え、歩く足が少し速くなった。
扇屋へ寄ると、庄吉がちょうど二俵目を下ろしたところだった。首へ掛けた手拭いが汗で濃くなっている。
扇屋の主人は俵を確かめ、庄吉に声を掛けた。私は邪魔にならないところで待った。以前、ここへ謝りに来たときに座った板の端には、今日は小さな箱が積んである。
主人が私に気づいた。
「また先の話をしに来たか」
「今日は、米代を受け取りに行った帰りです」
「そうか。じゃあ、約束を増やさず帰れるな」
冗談なのか、釘を刺されているのか、まだ判じかねる言い方だった。庄吉は横を向いていた。肩が少し動いている。
私は、近くの坊へ届ける父の書付を思い出した。
急ぎのものではない。明日までに届けばよいと聞いていた。自分で行くつもりだったが、銭を持って坂を上がるのも気に掛かる。
「庄吉。戻る前に、これを届けてくれないか。そこからなら近いだろう」
庄吉は、私の手の紙を見た。
「どこへ」
「裏の炊事場で受け取ってくれるところ。前にも米を届けたろう」
「ああ」
少し間があった。
「いいよ」
私は、ありがとう、と紙を渡した。
店へ戻り、父に銭と控えを渡した。主人からの注文も伝える。父は値を考えると言い、受け取った銭を数え直した。
私は、その間に久蔵へ朝の取引を話した。替えてもらった銭のことを聞かれ、形と縁の欠け方を説明する。
「二枚とも替えていただいたんですね。こちらも先へ払う銭ですから、その方が助かります」
久蔵が受け取りをしまい、戸口を見た。
「庄吉は」
「坊へ書付を届けてもらっています」
「今日の分は、扇屋まででしたが」
「すぐ近くなので。明日また人を出すより、一緒に済ませた方がいいかと思って」
久蔵は、私から父へ視線を移した。
父が銭を置いた。
「今日は、昼までに帰すと言ってある」
戸口の影は、出かけたときより短くなっていた。
「用事があったんですか」
「あったから、昼までと決めた」
「でも、いいって言ったよ」
「お前に頼まれて、嫌だと言えるか」
袋の紐を握った。断ってくれればよかった。父にそう言い返しかけ、庄吉が紙を受け取る前に、少し黙ったことを思い出した。
前の職場で、断れない頼みを持ち帰って妻に愚痴をこぼした夜があった。ついさっきまで担げない俵のことで笑われていたから、庄吉への頼みも同じ調子でできると思っていた。
父の前にある銭の袋を見た。この店が庄吉へ払う銭を、私は自分で稼いだ分のように持ち歩いてきたのだった。
「いまから追いかける」
空になった袋を置き、土間へ下りた。
私は走った。
上り坂に入ると、すぐ息が切れた。乾いたところを選ぶ余裕がなく、草鞋の裏に泥がつく。さっきの道なのに、坂の長さが違って感じられた。
坊の裏へ通じる細道から、庄吉が下りてきた。
「どうした。何か忘れたか」
「違う。ごめん。昼までだったんだな」
「何が」
「今日の仕事」
庄吉は、私の顔を見た。
「旦那に叱られたか」
「叱られた。それで、気づいた」
「じゃあ、俺が言いつけたことにしないでくれよ」
「そんなこと、しないよ」
「お前が来たら、俺が何か言ったみたいにもなるだろ」
庄吉は坊の方を振り返った。細道の先を、薪を抱えた男が横切った。私は声を落とした。
「父には、私が仕事の終わる刻限を確かめずに頼んだ、と話す。庄吉に何か言われて来たわけじゃないって」
「ああ。頼む」
庄吉は歩きだした。私は隣へ並んだ。
「今日は、何があったんだ」
「家の屋根。昨日の雨で、また落ちてきた」
「一人で直すのか」
「叔父が昼過ぎから来る。日があるうちしかできないから、先に片づけて待ってるはずだったんだ」
庄吉は手拭いで首を拭いた。よく晴れていた。私には歩きやすいだけの午後が、庄吉には屋根を直せる半日だった。
「手伝う」
「銭を数えに行った格好で?」
「着替える」
「屋根へ上がれるのか」
「上がるだけなら」
「じゃあ、下にいてくれ。落ちたのまで拾ってたら、暮れる」
私は返事をしようとして、庄吉の口元に気づいた。
少しだけ笑っていた。
店へ戻ると、父は庄吉に、約束の時を過ぎた分の手間賃を渡した。私が言い出す前だった。
庄吉が去ったあと、私は残っていた控えを久蔵へ渡し、屋根の手伝いに行きたいと頼んだ。
「何をするんです」
「下で、要るものを渡します。先に、何ができるか聞きます」
「では、戻ったら今日の控えを。書けなくなるほど手を傷めないように」
久蔵は筆を置いた。
奥で仕事着に着替え、母にも行き先を告げた。戸棚から出してくれた古い手拭いを、襟へ挟んで家を出た。
庄吉の家は、表通りから二本入った細い路地にあった。隣家との間が狭く、湿った土の匂いがこもっている。屋根の低いところに、竹を渡した足場があった。
庄吉の叔父は、私を見るなり、足元の縄をまとめろと言った。事情を聞きもしなかった。
ほどけた縄をまとめ、呼ばれれば渡す。古い材を受けて、路地を通る者の邪魔にならないところへ寄せる。上では庄吉と叔父が言い合い、私は、先にどちらへ渡せばよいのか迷った。
「宗助、そっちじゃない。もう少し右」
声を掛けられて、竹の束を持ち直した。若旦那とは呼ばれなかった。返事をすると同時に、襟へ細かな土が落ちてきた。
日が傾く前に雨の入ったところが塞がった。叔父は道具を抱え、父へよろしくと言って帰っていく。手を下ろした途端に、肩から先が自分のものではないように重くなった。
庄吉が、軒の下へ二つの椀を置いた。水が入っている。奥で母親らしい声がして、庄吉は、もう雨は入らんよ、と返した。さっき叔父と言い合っていたときより、ずっと穏やかな声だった。
「ほんとに来るとは思わなかった」
「頼んだのは、私だから」
「書付は届けたぞ。返事は、あとで人をやるってさ」
私は水を飲んだ。ぬるかったが、舌に残っていた埃の味が消えた。
「次からは、先に用を聞くよ」
「それと、いつ戻る仕事かも言ってくれ。近いって言われても、向こうで待つかもしれないだろ」
「分かった」
水を飲み干して椀を返した。庄吉は軒下の材を積み直している。
「断ったら、次は呼ばれないとか、思った?」
「少しはな」
「そんなつもりはないよ」
「お前には、なくてもさ」
手を貸しかけた私は、持ち上げた材をそのまま支えた。庄吉が下へ二本差し込み、もう離していいと言った。
「父にも聞いておく」
「頼む。俺が言わせたことにはするなよ」
「それは、さっき聞いた」
「言っとかないと、お前、何でも話すから」
私は笑いかけ、今度は黙って頷いた。
戻って父に尋ねると、用があって一度断るくらいで、来てもらう者を替えたりはせんと言った。仕事の多い日にまた呼ぶとも。次に会ったら、そのまま伝えることにした。
久蔵の隣へ座って控えを書き始めると、筆が思うように止まらなかった。書き直そうと紙を引いたら、袖へ小さな藁屑がついていた。
「ずいぶん働いてきましたね」
「今日は細かい字を言わないで」
「その百の字が、千に見えるので」
私は紙を引き寄せ直した。そこだけは直さなければならなかった。




