第十話 高島の浜
母は、荷物を増やさないと言っていた。
そう言ってから、握り飯の包みを一つ足し、替えの手拭いを足し、最後に小さな布包みを、私の荷の隅へ押し込んだ。
「これは」
「針と糸」
「縫い物までしてくるつもりはないよ」
「破くつもりも、ないでしょう」
私は針と糸の包みを、荷の隅へ戻した。
庄吉が戸口で笑っていた。旅支度をしていると、荷運びのときとは少し違って見える。いつもの小袖の上に、袖のない短い衣を重ね、腰の脇へ細長い包みを括りつけている。草鞋が二足、包みから顔を出していた。
「お前は、随分少ないな」
「帰りは増えるかもしれない」
「何を買うんだ」
「布。母親に頼まれた。値を見るだけでもいいからって」
私は、母の持たせた包みを締め直した。
父は店の板敷に、三枚の書付を並べていた。私は荷を土間へ置き、上がり口に膝をついた。父の指が、今津の米商から来た紙を押さえ、次に、届け先と数量を書いた控えへ移った。
運ぶのは、今津の米商が売った米、二十四俵だった。まず高島の浜で、買い手の商家へ渡す。そこで十二俵を倉へ入れ、残る十二俵を、さらに内陸の田中へ送る。
私たちの店が引き受けたのは、今津からの舟の手配と、田中まで荷を見届け、受け取りの書付を持ち帰る仕事だった。売り手と買い手の間では、量も届け先も決まっている。
陸の馬と人は、浜の商家が手配する。
「遅れるなら、向こうへ先に知らせろ。荷を受ける者を、いつまでも待たせるな」
「分かっています」
「足りん手間が出たときに、お前が決めてよいのは、ここまでだ」
父は、別に包んだ銭を示した。決めた額を超えるなら、現地の商人に話を通す。父の名で、際限なく支払いを約束してよいわけではなかった。
庄吉にも銭の包みを見せると、父は三枚の書付を重ねた。
「宗助が抱え込んだら、お前からも言ってやってくれ」
庄吉が、殊勝な顔で頷いた。
「この頃は、よく聞いてくれます」
父は庄吉を見て、私を見た。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
浜では、孫七が舟縁に腰を掛けていた。
舟には、北へ持っていく布包みと、蓋を縄で押さえた箱が積まれていた。箱の角には、何度も擦れて木肌の白くなったところがある。途中の浜でこれらを下ろし、今津で二十四俵を受け取る。孫七にとっては、私たちの米だけが仕事ではない。私は足を置く場所を確かめ、積む順を聞いてから縄を持った。
「今度は、久蔵がおらんのか」
「はい」
「帰りに増えてなきゃいいがな」
「何がです」
「俺の仕事が」
私は、乗り込む足を止めた。
「増やすときは、先に頼みます」
「頼めば増やしていいってもんでもねえ」
孫七は笑い、手を振った。早く乗れという意味だった。
舟が岸を離れると、風が袖の中へ入った。
振り返ると、坂本の浜で人が手を振っていた。少し離れただけで、その人の顔は見分けられなくなる。やがて家々の間を通る道も隠れ、湖岸に並ぶ屋根だけが、低い帯のように見えた。
その後ろに、比叡の山があった。朝の光が当たる斜面は明るく、谷の奥にはまだ青い影が残っている。店では隣家の軒に遮られていた空が、舟の上ではどこまでも広かった。私は舷に手を掛け、冷たい水の匂いを吸った。帰る家は、まだあの屋根のどこかにある。
庄吉は初めての長い舟旅だった。
初めは立ったまま岸を眺めていたが、しばらくすると黙り、言われた場所へ腰を下ろした。
「遠くを見ると、少し楽だ」
「見てる」
「下の荷を見ない方が」
「分かったから、あまり喋るな」
私は口を閉じた。
孫七がこちらを見た。助け舟は出してくれなかった。
今津では、顔を覚えてもらっていた。
最初に久蔵と来た米商は、私の後ろを一度見た。
「今日は、お前が見るのか」
「はい。こちらは庄吉です。うちの荷を運んでもらっています」
庄吉が頭を下げた。米商は二人を見比べてから、倉の戸を開けさせた。
中は、外よりひんやりしていた。目が暗さに慣れると、床へ渡した木の上に、俵が幾つもの列になって積まれているのが見える。米商は、戸口に近い二列を指した。今回、私たちへ渡す分だった。
戸口の明かりへ俵を一つ出し、庄吉と藁の底を見た。濡れた跡はない。角の擦れたものがあり、そこは米商にも見てもらった。受け取る前からの傷を届け先へ説明できるよう、書付へ覚えを添える。
この取引では、一俵を三斗とする。二十四俵で七石二斗。量の決め方が先の書付と合うことを確かめ、最後に二人で俵を数え直した。
荷を受け取り、翌朝、舟を南へ向けた。
高島の浜は、坂本ほど家が詰まっていなかった。
水際には、波に洗われた小石が帯状に続いていた。その先の土は踏み固められ、舟から下ろした荷を置ける広場になっている。縄を肩へ担ぐ者、空の籠を重ねる者が、濡れたところを避けて行き来していた。
広場の奥には、板壁の倉と、軒を低く構えた家が並んでいた。庇の下に、赤茶の包み布が干してある。家の間を抜ける道は水際から離れるにつれて緩く高くなり、その先に田が広がっていた。遠い山の裾に、もう一群の屋根が小さく見える。
高島は、この湖西の一帯の名でもある。私たちの行く田中は浜から内陸へ入った土地で、山の裾に見える屋根の辺りまで、ここから馬と歩くのだと教えられた。
白い鳥が浅瀬を歩いていた。舟から縄が投げられると、首を伸ばして飛び立った。
浜で待っていた商家の主人は、口の両端に白い髭のある、小柄な人だった。茶の小袖の裾を短くたくし、板に上がらず、私たちと同じ荷下ろし場へしゃがみ込んだ。
主人は父の書付を読み、今津で受け取った控えと見比べた。私が名乗ると、父が先頃送った米は京まで届いたかと尋ねた。届いたと答えると頷き、二枚の紙を重ねた。
「こっちの十二は、あの戸口へ。山へ出す分と混ぜんようにな」
浜の主人が、自分の倉を指した。私は庄吉へ声を掛け、舟から下ろした俵を二つに分けた。
浜の倉へ入れる十二俵を数え終えると、主人は山側へ送る分の印を示した。
「こっちは田中へ。城の方の用だが、山へ担ぎ上げるところまでは頼んでおらん。麓の家の倉へ入れればよい」
「倉の持ち主へお渡しするのですか」
「米を置く場所を借りている。受け取りを見る蔵番がいるから、その者と数を合わせろ。名は、この書付にある」
私は指された名を読み、受け取りをもらう相手を確かめた。書付を持つ手に、少し力が入った。
戦の話が出ると、私はまだ身構えた。
浜の主人は、私が少し黙ったのを見て、腰へ差していた手拭いを抜いた。紙を置く板の水気を拭き、その上へ、田中へ持っていく書付を広げる。
「行ったことは」
「ありません」
「馬方が知っている。分かれ道で、勝手に先へ行くなよ」
主人の手つきは、浜の倉へ米を入れたときと変わらない。私は声を落ち着けて、田中での受け渡しを聞いた。
「受け取る方は、昼を過ぎても、倉におられるのですね」
私が聞くと、浜の主人は、書付を畳む手を止めた。
「待っている。日暮れまでには、全部済ませたいと言ってある。向こうにも、人を別へ回す都合があるそうだ」
「途中で遅れたら、使いを先にやります」
「頼む。馬方に道を聞けば、身軽な者なら先へ行ける」
私は庄吉にも聞こえるように繰り返し、書付を受け取った。
手配された馬は六頭だった。
舟から離れた道端で、馬方たちが荷鞍を載せていた。荷鞍は人の座る鞍とは違い、米俵を左右へ支える木が組まれている。馬の背との間へ敷くものを直し、腹の下へ回した紐を締める。そのたびに、馬の皮膚がぴくりと動いた。
馬方たちをまとめているのは、灰色の小袖を着た、首の太い人だった。浜の主人も、運び方のことはこの人へ尋ねる。私は挨拶をし、十二俵を見届けて同行することを伝えた。
「荷を数えるときは、こっちから声を掛ける。馬の後ろへ、急に入るなよ」
まとめ役はそう言い、若い馬方の締めた縄を、指で一度引いた。若い方は赤茶の小袖の袖をまくり、締め直してから、馬の首を撫でた。
左右へ一俵ずつ。片側だけ先に重くすると、荷も鞍も傾く。馬方たちは互いに声を掛け、少し歩かせてから、縄が緩んでいないかをもう一度確かめた。
私は、届け先の者へ渡す書付を懐へ入れた。
孫七の舟には、まだ他の荷が積まれていた。これから別の浜へ寄る。こちらを待ってはいられない。帰りの舟は、仕事が済んでから浜の商人と相談して決めることになっていた。
「先に帰るぞ。帰りも俺が来ると思って待つなよ」
孫七が舟から言った。
「浜の御主人に、頼める舟を聞いてあります」
「ならいい。帰りに庄吉を、腹いっぱい食わせて乗せるなよ」
庄吉が、もう乗りたくない、と小さく言った。孫七は聞こえていたらしく、笑いながら舳先へ歩いていった。
浜を出ると、水の匂いが薄くなった。
浜に近い家々を抜けると、道の両側に刈り田が広がった。短く残った稲の茎の間に水が溜まり、歩く私たちの影が、細く途切れて映った。束ねた稲を担ぐ人の背から、乾いた葉先が揺れている。藍の袖、赤茶の裾。その色の間に、まだ刈られていない田の黄が残っていた。
馬の蹄が、固い土と、湿った土とで違う音を立てた。荷の縄が軋み、馬方がときどき短く声を掛ける。私は列の横を歩き、俵の印が見えるたびに、今津でつけた印と同じかを目で追った。
庄吉は、もう顔色が戻っていた。
「舟よりいい」
「歩くのは、まだあるぞ」
「地面が動かないだけでいい」
そう言ってから、馬の尻尾を避けた。
道は広いところと狭いところを繰り返した。田の水を引く細い流れを渡り、小さな社の前で道を折れる。まとめ役の馬方が先へ立ち、後ろの者へ曲がる方を手で示した。
家の脇を通ると、煮炊きの煙が低く流れてきた。土のついた菜を桶で洗っていた女が、馬を通すために桶を引いた。私は軽く頭を下げた。知らない土地でも、昼の飯を作る匂いは知っていた。
音がしたのは、細い溝を越えた先だった。
木の折れる、短い音。
振り返ると、列の後ろから二頭目の馬が、前へつんのめっていた。背の荷が片側へ大きく傾く。浜で縄を締め直していた、赤茶の小袖の若い馬方が、その馬の綱を引いた。
「寄るな!」
列の先から、まとめ役が叫んだ。私は足を止めたまま、落ちかけた俵を見ていた。横にいた庄吉が私の腕を掴み、道端へ引いた。すぐ目の前を、俵の丸い底が横切った。
俵が一つ落ちた。
馬は激しく暴れきる前に止まった。綱を握る若い馬方は、傾く荷をもう片方の手で支えようとし、道の低いところへ踏み外していた。座り込んだ膝の上で、赤茶の布が強く張っている。彼は歯を食いしばり、片足へ手をやった。
私は駆け寄った。
「馬へは触るな。お前は俵を頼む」
駆け戻ってきたまとめ役が、私の前へ腕を出した。馬の目が大きく開き、鼻から短い息が出ている。知らない者が手を伸ばして、また動かれては困るのだろう。私は若い馬方へ行きかけた足を引き、庄吉と落ちた俵の両側へ回った。
言われたところで待ち、下ろした俵を受ける。もう一俵も外し、道から離れた乾いたところへ運んだ。
荷鞍の一部が割れていた。
まとめ役は、馬の背から外した荷鞍を地面へ置いた。別の馬方が割れ口を押さえる。縄で締めて使えないかと話していたが、力を掛けると、割れた木が小さく動いた。
その間にも、若い馬方は何度か立とうとしていた。体重を掛けると足が痛むらしい。庄吉が手を貸し、私が道を空けた。馬の脚を見てもらい、こぼれた米を拾い、ほかの馬を少し先へ寄せる。やることを一つ済ませるたびに、日向と影の境がずれていた。
まとめ役は割れた荷鞍を道の脇へ置き、こちらを振り返った。
「ほかの馬へ、分けられませんか」
私が尋ねると、首を振った。
「二俵を、残りの五頭へか。余分に載せるなら、その分また荷を解いて、左右を合わせにゃならん。ここから道も上る。今のまま十俵を届けて、一頭、空で戻す方がよい」
まとめ役は、若い馬方の馬から外した鞍を指した。
「替わりの鞍がここにあれば話は早いが、ない。使える馬と鞍で戻る」
「それでお願いします」
私は、先へ寄せた五頭を数え直した。
若い馬方は、庄吉に肩を借りて道脇の低い石へ腰を下ろした。伸ばした足を見つめ、何か言いかけては口を閉じている。私は水を差し出した。礼を言う声は、馬へ声を掛けていたときより細かった。
先へ知らせをやるなら、庄吉を走らせることになる。私は声を掛けかけ、十俵を積んだ馬の列へ目を戻した。
空馬さえ戻せば、全部運べる。二俵を残したとだけ聞かせるより、残りもいつ届くか説明できた方がいい。荷を受け渡す仕事を任されて、最初の知らせが「困っています」では、父の顔も立たない気がした。
十俵と一緒に私が行こう。着けば、蔵番へ直接話せる。
私は庄吉へ、若い馬方と、残す二俵のそばにいてほしいと頼んだ。怪我をした人を一人にしたくはなかったし、荷を道端へ置いていくわけにもいかない。馬のことは本人に任せ、庄吉には人を呼ぶことや、荷を安全な場所へ寄せることを頼む。
残る五頭は、まとめ役たちが先へ運ぶ。私はその列について行き、麓の倉で十俵を渡すことにした。
「空の馬を戻す。私も戻るから」
私がそう言うと、庄吉は先へ進み始めた馬の列を見た。
「分かった。先へ話は?」
「着いたらする。まず十俵を入れる」
庄吉は私を見た。私はもう一度、必ず戻ると告げ、列の後を追った。
やがて道は、田の間から家の並ぶところへ入り、緩く上り始めた。軒先から突き出した薪の束を、俵が擦らないように避けて進む。まとめ役は、先の曲がり角で後ろを待った。歩く者ならすぐ抜けられる幅でも、荷をつけた馬は同じ速さでは通れない。
田の向こうに低く見えていた山が、今は家々のすぐ後ろにあった。西からの光は山の端に遮られ始め、道端の草へ触れると、指が冷えた。
もう少し行けば着く。今、使いを出しても、私たちとさほど変わらないはずだ。
曲がり角で列が止まるたびに、私は先を覗いた。門らしいものが見えても、馬方はそこへ入らず、さらに奥へ歩いていく。
麓の倉へ着いたとき、日は山へ近づいていた。
最後の曲がり角でも、まとめ役は井戸端の男へ声を掛け、借りている倉はどの家かを確かめた。すぐそこだと示された門の前で、なお一頭ずつ順を待つ。懐へ手を入れ、まだ渡していない書付に触れた。
届け先は、山裾へ寄った、大きめの家だった。
道から低い門を入ると、踏み固めた土の庭があった。正面に茅の屋根を載せた母屋、その右奥に板壁の倉がある。左手には水を溜めた桶と、薪を積んだ小屋。馬が庭で向きを変えるには、先に入ったものから片側へ寄せなければならなかった。
倉の壁は、雨の当たるところだけ黒ずんでいた。軒は深く、戸口の前に置かれた筵は、半分だけ日が残っている。床は地面より高い。下の横木と石の間に風の通る隙間があり、開いた戸の奥に、米俵の丸い口が並んで見えた。
その戸口で、袖を括った男が筵を畳みかけていた。肩へ掛けた麻の布を顎で押さえ、こちらの馬を一頭ずつ見る。荷を受け取る蔵番だと、まとめ役が教えてくれた。
「今津からの米です」
私が声を掛けると、蔵番は畳みかけた筵を足元へ置いた。
「今ごろか」
蔵番は、門の内へ入ってくる馬を目で追っていた。最後の一頭の後ろを見て、眉を寄せる。待っていた六頭が揃っていないことは、こちらが話すより先に分かったのだろう。私は頭を下げた。
懐から書付を出し、蔵番の前へ広げた。汗で湿った紙の端が、指に張りついて離れなかった。
「十二俵のうち、十俵が着きました。残り二俵は、空の馬を戻して運びます」
私が蔵番へ説明している途中で、庭を横切る声がした。
「二俵は、どこへ置いた」
声は、正面の母屋から聞こえた。
開いた戸の向こうから、年配の武士が出てきた。母屋の板敷には低い文机があり、紙を押さえる細長い木と、小さな硯が見えた。そこで何かを書いていたらしい。武士は戸口で履物に足を入れ、倉の方へ歩いてきた。
父より年上に見えた。こめかみに白いものが交じり、頬から口元へ、深い筋が一本ずつ下りている。深い藍の小袖の上に、灰茶の上衣を重ねていた。袖口の折れたところは、ほかより薄い色になっている。腰の刀の柄も、触れるところが黒く艶を帯びていた。
その人の目が私から馬へ移り、まだ背にある俵を一つずつ追った。私は数を説明しようと、書付を持ち直した。
「十兵衛殿。今津の荷を見届けてきた者です」
蔵番が、私をその武士へ引き合わせた。
「今回の米を使う側の用を、取りまとめておいでだ。道で何があったか、この方にも話してくれ」
私は十兵衛と呼ばれた武士へ向き直り、頭を下げた。通ってきた道と、二俵を残した場所を話す。
「馬の荷鞍が壊れまして。荷は濡れていません。俵の一つは落ちましたが、口は――」
「人は」
私は顔を上げた。
十兵衛殿は、私が持つ紙ではなく、私の顔を見ていた。もう一度、静かに尋ねた。
「そこへ残した人は、どうしている」




