第十一話 戻る道
米俵の口が開いていないことを、もう少しで言い足すところだった。私は書付から目を離し、道脇で脚を伸ばしていた若い馬方を思い浮かべた。
「馬を引いていた者が一人、足を傷めました。道脇へ座って休んでもらっています」
私の返事に、十兵衛殿はすぐ問いを重ねた。
「歩けるか」
「立とうとしていましたが、痛むようでした」
「それは、荷を下ろしてすぐのことだな。その後、歩いたところは見たか」
「見ていません」
水を渡したとき、あの人は何か言いかけていた。痛みを訴えたかったのか、別のことだったのか。私が聞かなかったために、今、答えられない。
十兵衛殿は、私の背後で馬を止めている、灰色の小袖のまとめ役へ目を向けた。
「二俵を取りに戻る馬は、どれだ」
十兵衛殿の問いに、まとめ役が、いちばん戸口に近い馬の綱を上げた。
「これを。荷を下ろして、私が引いて戻ります」
「では、それから下ろそう。蔵の方は、受け入れる用意を」
蔵番が筵を広げ直し、戸口に置いてあった桶を倉の脇へ寄せた。私も手を貸そうとしたが、桶はもう運ばれていた。
まとめ役が馬の頭を押さえ、別の馬方が反対側へ回った。左右の俵を、声を合わせて下ろす。私は退ける場所を探して、一歩横へ寄った。庭は広く見えたが、五頭の馬と、下ろした俵と、人が動く道を取ると、空いたところは少なかった。
蔵番は、俵の印を確かめてから、倉の戸口へ運ばせた。私の立つ位置からは、庭に下ろされたものと、倉へ入ったものの両方が見える。数えるのは、蔵番が受け取った方だ。私は紙を片手で押さえ、運ばれるたびに筆を動かした。
西日が戸口の縁に当たっていた。中へ入る俵の藁は、明るい黄から、すぐに暗い茶へ変わった。
一つ。二つ。
十俵目が筵へ置かれた。
蔵番と声に出して数を合わせ、紙へ十俵と記した。残る二俵の欄は空けておく。蔵番は、私の筆先が止まるのを見てから、受け取った分のところへ自分の印を添えた。
だが、二俵の来る時は、まだ書けなかった。
「残りを、今から運んでまいります」
十兵衛殿へ頭を下げると、その人は一度母屋へ戻った。文机の横に置いてあった布包みを懐へ入れ、庭へ出てくる。
「私も行こう。歩けぬようなら、今夜休めるところを頼まねばならん」
「御一緒に?」
「足を診たい」
私は顔を上げた。
十兵衛殿は、倉の戸口にいる蔵番へ用を伝えた。届いた米のうち、すぐに炊事へ回す分を分けること。残る二俵が来るまで、自分の代わりに受け取りを頼みたいこと。
蔵番は、母屋の裏で飯を作る人へ声を掛け、それから私に、戻ったらどの戸を叩けばよいかを教えた。日が暮れて戸を閉めても、この庭へ入れば分かるようにしておくという。
「借りた分は、明朝に返す。先へそう伝えておいてくれ」
借りた、と聞いて、私は口を開いた。
「あの、ほかから米を借りておられるのですか」
私が聞くと、十兵衛殿は母屋の裏を指した。薄い煙が屋根の脇から上がり、鍋の蓋を動かす音が聞こえた。
「先へ発つ者に、飯を持たせる用がある。こちらの荷を待たせたままにはできぬので、別の家へ頼んだ」
「申し訳ありません」
「米を借りれば、それで済むのでもない。運ぶ者を出してもらった。明日は、借りた分を返しに行く」
母屋の裏から男が一人出てきて、炊き上がるのはいつかと蔵番に聞いた。すぐ戻っていく背を、私は見送った。十兵衛殿はその男へ会釈してから、私に向き直った。
「道で荷が崩れることはある」
「はい」
「遅れても今日中に来ると分かれば、待てる者には待たせて、先に要る分だけ頼める。舟が着かぬのか、米が来ぬのか、それも分からなければ、明日の分まで考えて借りねばならん」
明日の分まで借りたのか。私は書付の十俵の文字を見た。無事に運んだ分を示せば、少しは取り返せるつもりでいた。今これを見せても、すでに走ってもらった人の手間は戻らない。
「先に人をやるべきでした」
「そうしてくれ」
十兵衛殿は蔵番へ残りの用を伝え、門へ向かった。私は書付を畳んで懐へしまった。
倉を出たのは、まとめ役の馬方と、十兵衛殿と、私の三人だった。まとめ役が空馬を引いて先へ立つ。ほかの馬方は、残った馬を連れて浜へ帰る支度をしていた。門を出る前に、私は蔵番へもう一度頭を下げた。
山が近かった。庭ではまだ俵の藁が光っていたのに、家の陰を抜けた道は、もう青く沈んでいる。振り返ると、倉の屋根の上へ山の影が重なりかけていた。
湖の方の空には、まだ明るさがあった。田を渡る風が、汗の冷えた背へ入る。稲を運ぶ人の姿は昼より少なく、道端には、明日運ぶつもりなのか、束が揃えて置かれていた。私たちだけが、帰り支度の流れと逆へ歩いているようだった。
隣を歩く十兵衛殿は、年を重ねた人に見えたが、足取りは遅くなかった。
裾をさばき、道の濡れたところを避ける。刀が邪魔になるときには、手を添えて位置を変えた。父のように荷を担ぐ人の動きとは違うが、歩き慣れていない人の足でもなかった。
私が遅れ始めると、十兵衛殿が振り返った。
「少し落とすぞ」
先を行く馬方へ声を掛けてから、私の横へ戻ってきた。
「大丈夫です。急ぎます」
「そう言いながら、息が続いておらん」
返そうとして咳が出た。道を戻っているつもりで、いつの間にか先を急いでいた。十兵衛殿に合わせて足を緩めると、ようやく息が続いた。
土の上には馬の蹄の跡が残っていた。道が分かれるところでは、先を行くまとめ役が、こちらへ手を上げる。私は、その灰色の背と、隣を歩く十兵衛殿を見失わないようにした。
途中、畑から戻る人とすれ違った。担いだ道具の柄をよけてもらい、私は頭を下げた。その人は十兵衛殿にも気づき、歩きながら会釈した。十兵衛殿は短く言葉を返した。
このあたりで顔を知られている人なのだろう。倉へ用を言いつけていた姿を思い返し、城でどういう役を務めているのか、あとで聞けたらと思った。
庄吉がいたのは、私が離れた道端ではなかった。
事故のあった場所から浜の方へ少し戻った、道端の家だった。田に面した茅屋根の軒が低く張り出し、その陰に二俵が置かれている。下には短い木を二本渡し、その上へ筵を敷いてあった。
開いた戸からは、土間の奥の竈が見えた。束ねた薪と、土のついた根菜を入れた籠。その手前の上がり口に、赤茶の小袖の若い馬方が座り、片脚を伸ばしている。庄吉は軒先で、俵に掛けた筵の端を直していた。
庄吉は私を見るなり、立ち上がった。
「遅かったな」
庄吉の声には、安堵と、少しの苛立ちが混じっていた。
「すまない。空の馬を一頭、戻した」
私は、後ろから来るまとめ役と馬を示した。
「米は二俵とも、ここだな」
「ああ。ここの人が、屋根の下へ入れろって。道に並べておいたら、邪魔になるから」
庄吉は戸口を振り返り、家の女主人に、連れが戻ったと声を掛けた。
庄吉の肩には、細かな藁屑がついていた。
私は、軒を貸してくれた女主人へ頭を下げた。浅い藍の小袖の袖を括り、土のついた手を布で拭きながら出てきた人だった。怪我人と馬を交互に見てから、俵を壁へつけすぎるな、と私たちに言った。
「昨日の雨で、まだ下の方が湿ってるからね」
壁の裾を見ると、日が当たるところより色が濃かった。庄吉が俵の位置を少し直した。
「悪かった。こんなに待たせるつもりでは」
「もういい。あの人に、どうするか話してやってくれ」
庄吉は上がり口へ顎を向けた。若い馬方が、こちらの話を聞こうと身を乗り出していた。
「二俵は向こうへ運ぶ。歩くのは――」
私が庄吉へ次の手順を話しかけたところで、十兵衛殿が戸口の馬方に声を掛けた。
「足を見せてもらえるか」
若い馬方が顔を上げ、頷く。十兵衛殿は、その返事を待って膝をついた。
十兵衛殿は、どちらへ足を捻ったか、さっきから痛むところが変わったかを本人に尋ねた。赤茶の裾を少し引き上げ、脚絆の紐を緩める。腫れた足首が夕方の光に出ると、若い馬方は、それを見るのも嫌そうに目をそらした。
十兵衛殿は触れるところを確かめ、馬方の顔を見ながら手を動かした。馬方が息を詰めると、すぐに手を止める。私には細かな判断は分からなかったが、黙って我慢させたまま進めてはいなかった。
私は横で見ていた。
若い馬方が大丈夫だと言いかけ、足を動かして言葉を呑んだ。私はさっきの水を手元へ寄せ、求められたら渡せるようにした。
「今夜、浜まで歩かせるのはやめた方がよい」
十兵衛殿は立ち上がり、馬のそばで待つまとめ役へ言った。
「馬の方も、あれを見てくれ。戻せるかどうかは、お前たちで確かめてほしい」
まとめ役が頷き、軒から少し離れたところに繫いである馬へ歩み寄った。庄吉もついて行き、待っている間の馬の様子を伝えた。
しばらくして、まとめ役が戻ってきた。馬は歩けるが、割れた荷鞍はもう使えないという。残る二俵は、倉から戻した馬で運ぶ。その受け渡しを済ませた帰りに、この馬も引いて浜へ戻すことになった。
「浜の主人には、私から話す。あいつが今夜ここにいることも、知らせておく」
まとめ役は若い馬方のそばへ屈み、短く話し始めた。私は懐の銭袋へ手をやった。宿の銭はある。それで泊まれる家を、この辺りに一軒も知らなかった。
竈のそばで薪を揃えている女主人を呼び、私も声を低くした。
「この方を、今夜休ませてもらえるところは、ありませんか」
女主人は、若い馬方の伸ばした脚と、軒下の米を見た。まだこちらが何を頼むつもりか、測りかねている顔だった。
「米まで、うちへ置くのかい」
「米は、これから倉へ運びます」
私が答えると、女主人は庭先の馬へ目を向けた。
「馬は?」
「荷を届けた帰りに、まとめ役の方が浜へ連れ戻してくれます。こちらへ泊まらせていただきたいのは、足を傷めた人です」
女主人は腕を組み、土間の奥と上がり口を見比べた。
私は返事を待った。早くしてほしいと顔に出さないように、口を閉じていた。
「奥は、使えないよ。今、物を入れてあるから。ここなら寝られるけど」
女主人が指したのは、土間の左手にある板敷だった。薪や籠を少し動かせば、一人が横になれる。奥の部屋とは古い筵で仕切られており、戸を閉めれば夜露も入らなかった。
女主人が棚の下を指したので、私は籠をそこへ寄せた。板敷には細かな藁屑が残っている。庄吉が、箒を借りられるかと尋ねた。
「お借りできますか。食べるものと、敷くものも、こちらで――」
「敷く藁ならある。飯は、もう少し炊かなきゃ足りない」
若い馬方一人の夕飯と翌朝の飯、それに藁と筵を頼んだ。女主人は私たちの顔を見回し、お前たちは食べていかないんだね、と念を押した。頷くと、竈の方へ戻って米の残りを見てきた。
聞いた額は、父から預かった銭で立て替えられる。女主人の前で数えて渡し、何を頼んだ分かを控えた。もとの運賃とは別に、浜の商人へ持ち帰って相談することになる。
私が女主人と銭の話をしていると、上がり口に座る若い馬方が顔を上げた。
「俺の取り分からか」
若い馬方は、私の持つ銭を見ていた。
「いま、ここで勝手には決めません。荷を頼んだ浜の家へ、何があったか持ち帰って話します」
「俺が荷を落としたから……」
「鞍が割れたところは、みんなが見ています。それも伝えます」
若い馬方は唇を噛み、私が銭を数え終わるまで見ていた。割れた鞍に前から傷みがあったのか、誰が確かめるはずだったのか。彼の取り分を減らす話になるなら、その辺りも浜で聞いてもらわなければならない。私は銭の控えの横へ、鞍、と小さく書き足した。
戸口の脇に立つ十兵衛殿は、私と若い馬方のやり取りを、黙って聞いていた。
空で戻ってきた馬へ、二俵を載せた。
一俵は、落ちたときに藁の端が裂けていた。庄吉が巻き直した縄を馬方にも見せ、倉で改めて量ってもらうよう書付へ記した。
米を先に運ぶまとめ役へ、私は蔵番宛ての言伝を頼んだ。
「二俵、これから届きます。怪我をした人は、この家で今夜休みます。私たちは、その手配を済ませてから戻ります」
「二俵が先で、お前らは後だな」
「はい。倉へ入れたところで、受け取る人と数を合わせてください。受け取りは、あとで私がいただきます」
まとめ役が言伝を繰り返したので、私は順に頷いた。今度は聞き違いのないことを確かめてから、道を空けた。
馬が道へ出ると、軒先が急に広くなった。俵を置いていた木の上に、数粒の米が残っている。庄吉は掌へ拾い集め、私へ見せてから、小さな紙へ包んだ。
夕方の風が、空いた筵の端をめくった。田の向こうの空はまだ明るいのに、家の土間には、火の色が少しずつ目立ち始めていた。
私は女主人へ、借りた筵をどこへ戻すか尋ねた。軒の下を掃き、怪我をした馬方の寝るところを空ける。庄吉は渡された藁をほぐし、板敷へ運んでいた。日が落ちる前に済ませることは、まだ幾つもあった。
十兵衛殿は、持ってきた小さな包みを閉じていた。結び紐の先は、擦れて少し毛羽立っている。私は箒を壁へ戻し、そのそばへ寄った。
「足のことも、お分かりになるのですね」
私が言うと、十兵衛殿は紐を結びながら顔を上げた。
「教わったことがある。医者をすぐに呼べるところばかりではないのでな」
「旅先でも、お使いになるのですか」
「旅先でも、城でも。知っている者が、その場におれば助かることはある」
十兵衛殿は結び終えた包みを懐へ収めた。指についた埃を払うと、節のところへ残った土が見えた。
「助かりました」
私は改めて頭を下げた。
「坂本の宗助と申します。先に名乗るべきでした」
私が言うと、十兵衛殿は、私たちの店の名を口にした。
「浜で、その家から来ると聞いていた。お前の父とは、まだ会っておらぬ」
十兵衛殿は、板敷の縁へ添えていた手を離した。こちらへ向き直り、今度は名字から名乗った。
「明智十兵衛だ」
私は頭を下げかけた姿勢で止まった。倉で聞いた十兵衛という呼び名の前に、明智がつく。前の世で何度も見聞きした名が、不意に思い浮かんだ。
女主人が奥で薪を動かし、庄吉が筵を叩いていた。その音を遠くに聞きながら、私は目の前の顔を見上げた。さっきまで一緒に歩いてきた人を、確かめずにはいられなかった。
「光秀、様でしょうか」
口にしてから気づいた。十兵衛は日頃呼ばれる通称で、光秀は諱という、別の名だ。店へ来る武士にも、皆が呼ぶ名と書付に記す名の違う人はいる。幼い頃から見て知っているのに、今は前の世で馴染んだ「明智光秀」の方が口をついて出た。
この人は、まだ光秀とは名乗っていない。
十兵衛殿は、懐へ添えていた手を止め、私を見た。
「そうだが」
白いものの交じる眉が動いた。私を見たまま、しばらく次の言葉を待っている。
「私の書いたものでも、見たことがあるか」
問いの意味が分かるまでに、少し間があった。
「いえ。それは、ありません」
「では、どこでその名を聞いた」
書状でも、人の噂でもなかった。本能寺の変。信長を討つ人。そう答える自分を想像して、背が冷えた。まだ起きていない謀反のことを、この人の前で口にできるはずがない。
もっと遠くから人へ命じる、近づけない人を想像していた気がする。光秀と名を確かめた今も、その膝には土がついていた。私はそこへ目を落としたまま、返事を探した。
「以前に、お名前を、どこかで」
父から聞いたと言えば、いつ父と会ったか尋ねられるかもしれない。噂になったと言えば、その中身を聞かれる。光秀の目が、腹の前で強張った私の手へ下りた。
「私のことで、何か聞いておるのか」
私は唇を動かした。何も言えずにいると、上がり口の若い馬方が足を動かし、小さく呻いた。
光秀はそちらを見た。私へ戻しかけた視線を止め、馬方のそばへ屈む。
「そろそろ中へ入ろう。冷えてきた」
若い馬方が両手を板敷へつき、立とうとして顔をしかめた。
光秀が、私を呼んだ。
「宗助。こちらを頼む」
呼ばれて、ようやく返事をした。若い馬方の反対側へ回り、腋の下に腕を差し入れる。肩へ預けられた体は重かった。踏ん張る私の草鞋が、土間で僅かに滑った。
「上がります」
低い段を確かめて声を掛けた。光秀が頷き、二人で若い馬方を板敷へ上げた。




