第五話 湖の道
浜へ向かう朝、母は包みの中の飯を一度減らし、また戻した。
「二人で食べるのでしょう」
「久蔵も、自分の分を持ってくると思う」
「それなら、余ったら分ければいい」
包みは結ばれた。私が受け取ると、まだ温かかった。
父は久蔵へ書状を渡した。仕入れの銭は小さな袋に分け、板の厚い箱に納めてある。店の者が二人で持ち上げると、底で重いものがずれ、紐に通した銭が鈍く鳴った。いつもは勘定の数字で見ていた額が、持ち運ぶ荷物になっていた。
私には、買い付ける米の控えを持たせた。二十俵と、十俵ずつ。買える値と、確かめておくことが書いてある。私は折り目を指で押さえ、懐の奥へ入れた。
「向こうで何か変わったら、久蔵の言うことを聞け」
私はうなずいた。
父はそのあと何かを言いかけたが、結局、戸口を出る私の肩を一度叩いただけだった。
浜の空は薄く曇っていた。湖から来る風が、小袖の裾を膝に貼りつける。久蔵は歩く間だけ裾を帯へ挟み、足を出していた。荷を担ぐ者には、脚を左右に分けた袴の裾を紐で絞った者もいる。濡れた砂利を踏むたび、草鞋の下から水が滲んだ。
孫七の船では、すでに荷を覆う筵が結びつけられていた。藁を編んだ敷物のような覆いで、縁から細かな藁先が突き出している。布の包みも木箱も、その下に納まっていた。銭の箱は久蔵が位置を確かめ、船の者に縄を掛けてもらっている。
岸から渡された板は、見ている間にも先が上下していた。
「真ん中を歩け」
船の中で孫七が待っている。踏み出すと板がしなり、私は前を行く久蔵の背へ近づきすぎた。踵を踏みそうになって止まり、それから一歩ずつ渡った。
船へ下りた途端、足元が傾いた。脇へ手をつくと、船乗りが笑った。
「まだ着いてるぞ」
知っています、と言い返す余裕もなかった。
私は曖昧に笑い、孫七の指したところへ座った。足の間に飯の包みを置く。すぐ前には縄が輪に巻かれ、その向こうに荷が並んでいる。人が一人通れる幅だけ、板が見えていた。
「そこから動くときは、声を掛けろ。勝手に荷の上へ乗るな」
孫七は私にそう言ってから、久蔵と出立の話をした。
膝を寄せているうちに縄が外された。岸の男が船を押し、長い櫂が浅瀬の水を掻く。濁りが船の脇を後ろへ流れた。
頭の上で帆が鳴った。たるんでいた布に風が入り、縄が一斉に張る。その力が足の裏まで届いた。船が身を伸ばすように進み出し、私は帆と離れていく岸を交互に見た。
坂本の家々が、山裾に沿って並んでいた。浜を歩いているときには人と荷に遮られていた倉の戸口が、今は幾つも見える。そこから町へ上がる道は、家並みの間で途切れ、少し高いところにまた現れた。朝の煙が、屋根の上を低く流れていた。
だが、自分の家は見つからなかった。
あの中にあるはずなのに、似た色の屋根が重なり、どれを目印にすればよいのか分からない。目を凝らしているうちに、浜の人の姿も、一本ずつ立っていた杭も、岸の色へ溶けていった。
「何を探してる」
孫七が尋ねた。
「家を」
「帰ればある」
私は彼を見た。孫七は帆の方を見上げ、口の端だけを動かしていた。
帰ればある。その言い方が羨ましくて、返事が遅れた。膝の間の飯を抱え直すと、包みから漬物の匂いがした。朝、母の手で結ばれた角は、もう片方だけ短くなっている。
「帰ったら、家の見える場所を聞いてきます」
「岸へ近づくときに教えてやる。今は、前を見ろ」
孫七の顎が、帆の下に広がる水を指した。
*
船は琵琶湖を北へ進んだ。
進む方を向けば、左手には山が続いていた。坂本で見慣れた比叡山が後ろへ下がり、その先に、もっと高く険しい山並みが現れる。孫七は、あれが比良の山だと教えてくれた。今津は、その山々を左に見ながら、さらに北へ行ったところにある。
右手には、靄の向こうまで水が広がっていた。地図で見た琵琶湖を思い浮かべても、膝のすぐ横までせり上がる波は小さくならなかった。近づいた濃い緑の斜面へ船が乗り、ゆっくり下りる。荷の縄がそのたびに鳴った。
隣の久蔵は遠くを見ている。
「怖くないの」
「怖いですよ」
「今も?」
「今日は大丈夫だと、孫七殿が。私も、あの人の顔を見ています」
孫七は船乗りに向こうを指して、何か言い直していた。二人とも、私のように縄へしがみついてはいない。指を一本ずつ緩めて、また山を見た。
しばらくすると、腹の中だけが船に遅れるような感じがしてきた。膝の間の包みを見ると、昨日から考えていた米の数まで、うまく並ばなくなる。
久蔵が気づき、私の背を軽く押した。
「下を見続けない方がいいですよ」
顔を上げると、孫七もこちらを見ていた。
「吐くなら、言え」
「まだ、大丈夫」
「まだ、は早めに言え」
私は返事をせず、山を見た。
少し離れたところを、小舟が一艘通っていった。低く座った男が櫂を動かしている。こちらへ顔を向け、片手を上げた。孫七が顎を上げて応じた。
私はその舟が小さくなるまで見送った。そうしているうちに、腹の遅れも幾分収まった。
昼近く、船は途中の浜へ寄った。
荷の受け渡しがあり、久蔵は父から預かった書状を出した。私は脇に座り、木箱の印を一つずつ控えと合わせた。縄の下に挟んだ薄い木片にも、同じ印がある。持っていく者が箱を指すたび、久蔵を見てからうなずいた。
その浜で渡す最後の一箱が渡ると、船にはまた別の包みが入った。
孫七が置き場所を指した。新しく積む大きな包みを、船乗りが舷の脇へ据えようとすると、もう少し内側へ寄せろと声が飛ぶ。私は足元が邪魔になることに気づき、先に声を掛けてから場所を変えた。
縄を掛け終えるのを待って、孫七に尋ねた。
「空いたところへ、そのまま置かないのは、船が傾くから?」
「片側だけ重くすればな。それに、あの箱は次の浜で下ろす。上へ積んだら、またどけにゃならん」
「下ろす順に、初めから分けてあるんですね」
「分けたつもりでも、途中で増えるし減る。お前の場所も変わるぞ」
私は、さっきまで座っていた板を見た。そこにはもう、角の丸い木箱が一つ収まっていた。
浜から来た男へ、久蔵が銭を渡した。荷の代金ではなく、ここを通る関銭だという。
「帰りも?」
「荷によって違います。誰の荷かも確かめられますから、書状はなくさないでください」
「沖を通って、ここへ寄らなければ?」
久蔵が私を見た。すぐには答えず、浜の男が離れるのを待ってから声を落とす。
「今のは、あの人の前で言わないでください」
「ああ……関の銭を逃れるってことになるのか」
「そう聞こえます」
久蔵の指が、受け取った紙の折れ目を強く押した。
「寄る理由を知りたかったんだ。ほかの道があるのかなと」
「ここで渡す荷があるでしょう。寄る浜を変えれば、その荷も運び直すことになります。それに、関の者へ話も通さず動いて、次の船まで調べられては、孫七殿が困ります」
船乗りが近くを通り、私は声をさらに小さくした。
「無駄な銭を払ってる、と言ったつもりじゃないよ」
「分かっています。私はね」
久蔵は書付をしまった。沖の水には柵も杭もない。どこを通るかを自由に決められない理由が、その水面を眺めているだけでは見えなかった。
「どこへ何を払うか、あとで教えてくれる?」
「今夜、控えを合わせるときに。今は飯を食べましょう」
浜で荷役が続く間に、飯を食べた。
母の包みをほどくと、米に混じった麦が、丸く膨れていた。もう冷えていたが、噛むと腹の中が落ち着いた。添えられた大根の漬物をひとかじりすると、強い塩気に唾が出る。
「多いな」
孫七が言った。
「母が、分ければいいと」
差し出すと、彼は遠慮なく受け取った。太い指で飯を分け、そばにいた船乗りにも渡した。
「今朝は、粥じゃなかったか」
「もう違います」
「ならよかった」
孫七は漬物を噛み、その音に自分で眉を上げた。
「よく漬かってる」
漬物をもう一本出すと、孫七が受け取った。余ると思っていた飯の包みが、すっかり軽くなった。
*
今津へ着いた頃には、日が山の後ろへ回っていた。
湖に向いた町の軒下は、もう暗い。浜から上がる道には馬が連なり、両脇に掛けられた荷が、歩みに合わせて揺れていた。浜の土や汗の匂いに、干した魚の匂いが交じっている。運ばれていく藁包みの継ぎ目には、白い塩がこびりついていた。
久蔵は私の目がそちらへ行くのを見ると、山へ入っていく道を指した。
「あの先を越すと、若狭です。海の方から来る荷も、ここで船に積み替えます」
示された道から、また馬が下りてきた。脇腹の汗が白く乾いている。海の魚も、塩も、あの山を人や馬の背で越えてくるのだ。地図に線を引けば短い道が、目の前ではまだ終わらず、次の馬、次の荷と続いていた。
船を下りたあとも、足元がわずかに揺れている気がした。立ち止まると、かえって気になったので、久蔵のあとを歩いた。
取引先の家は、浜から少し上がったところにあった。
店の前には、馬の背から下ろしたばかりの荷が置かれていた。男が縄を解くと、藁が大きく息をつくように緩む。その横を通って、私たちは中へ入った。
久蔵が名を告げると、奥から主人が出てきた。日に焼けた手で額を拭い、私を見た。
「息子さんか」
「桂本屋の宗助と申します」
頭を下げると、主人は父の名を口にし、久蔵から書状を受け取った。私の知らない、父が若かった頃の話が少し出た。私は顔を上げて聞いていたが、二人はすぐ荷の話へ戻ってしまった。
持ってきた布の包みを渡し、控えと数を合わせた。受け取りを確かめると、久蔵は帰りに買う米の話をした。
米は、揃っていた。
倉へ案内される。戸が開くと、乾いた藁と米糠の匂いがした。うちの倉より奥が深く、木を渡した床の上に、俵の丸い口が何列も並んでいた。戸口の近くだけに細かな塵が浮いている。主人は壁際へ掛けた縄を取り、その下の列から見せようと言った。
久蔵は主人と米の出どころを話し、何俵かを開けてもらった。掌に取った米を明るい戸口へ運ぶ。白く磨かれた粒ではない。薄い糠の色を残した粒に、欠けたものや細かな籾殻が交じっていた。
「何を見ればいい?」
「まず、匂いを嗅いでください。俵の表が乾いていても、中まで同じとは限りません。鼻につく匂いがないか。それから、欠けや屑がどれほど交じるか」
私は掌を鼻へ近づけた。家の倉でも嗅いでいた匂いなのに、言葉に分けようとすると難しかった。
「変な匂いはしないと思う。でも、よい米なのかは、まだ」
「分からぬところは、そのままで。こちらも見てください」
久蔵は自分の掌の米を半分寄せ、さっきの俵から取った分と並べた。
「こちらには欠けた粒が少ないでしょう。匂いだけで決めず、こうして違いを拾うんです。扇屋様は長く置く。今すぐ飯にする家と、選び方も変わります」
今度は、粒の端を見れば私にも分かった。久蔵の掌へ、もう少し自分の手を近づけた。
「奥にある分も、開けてもらっていいの?」
「見せてもらいます。同じ田の米でも、置いた場所や運ばれ方で傷みは違いますから」
主人は嫌な顔をせず、別の俵を指した。久蔵は見終わるたび、解いた口を丁寧に戻していた。
値は一石八百文でまとまった。米の量を数える升は、十杯で一斗、十斗で一石。今回の俵は三斗入りと、父とこの家で決めてある。俵の大きさは取引によって違うので、久蔵は持参した升を出し、先方の升と合わせた。
四十俵で十二石、九貫六百文。一俵にすれば二百四十文だった。私は帳面の二百七十文と並べ、その差から、ここまでに払った銭を順に引いてみた。
扇屋に頼まれた質の米が、決めてきた値の内で買える。久蔵へ紙を寄せると、彼も同じところを指で叩いた。
主人が倉の戸へ手を掛けたとき、私は尋ねた。
「明日の朝、船へ運べますか」
主人の手が止まった。
「朝は、先に頼まれた荷がある。こちらへ戻るのは、昼を回るだろう」
「孫七殿は、風がよければ早く出たいと」
「米は渡せる。運ぶ者が、ほかの仕事へ行くんだ」
主人は戸口の向こうを指した。馬の背から下ろされた荷が、まだ軒先に積まれていた。
「あれを明朝、先へ運ぶ手を頼んである。お前たちの米は、今、買うと決まったばかりだろう」
「こちらで運ぶ人を探しても、構いませんか」
私が聞くと、主人は久蔵を見た。
「米を渡すのは、この倉でよいということか」
「はい。浜へ運ぶところはこちらで。ただ、朝に倉を開けていただきたい」
久蔵の返事を聞いて、主人は戸口の方を見た。
「明るくなれば開ける。人が決まったら、今夜のうちに知らせてくれ」
私は控えを懐へ入れた。浜へ下りる道は、まだ見える。孫七が船を離れる前に話さなければならなかった。




