第四話 帰りの荷
母が、私の小袖の脇をつまんだ。洗い重ねた薄藍の麻布が、指の間でくしゃりと寄った。
「腕を上げて」
「もう、痛いところはないよ」
「そうじゃない。ここが裂けているの」
言われて腕を上げると、脇の縫い目に指が一本入った。倉で俵に引っ掛けたのだろう。母は穴の向こうから私を見て、小さく息をついた。
父が北へ送ると言っていた荷が揃うまでに、六日が過ぎていた。粥は普通の飯に戻り、坂を上がっても途中で休まなくなった。母の手元には、私の寝込んでいる間に後回しにされた繕い物が溜まっていた。着たままでよいと言いかけたが、針を持つ母にこちらを向かされ、私は小袖を脱ぎに行った。
家の奥へ引っ込んで、細い帯を解いた。仕事のため帯へ挟んでいた裾を下ろすと、膝に風が当たらなくなった。着替えの小袖は脇が狭く、腕を通すと布が肘についてくる。私は縫い目を引っ張らぬよう片腕ずつ通した。
着替えを済ませて戻ると、母は膝に端布を広げていた。白茶けたもの、深い藍、赤みを帯びた黄。小さな布にも織り目の細かなものと粗いものがあり、母は裂けた袖へ順に重ねては戻している。
「その黄色いの、きれいだね」
「きれいだけれど、お前のには薄すぎるよ。そこだけ先に擦り切れる」
母は藍の布を選び、光へ透かした。
黄色い端を、私は指の腹で撫でた。前世の記憶が戻ってから、見慣れたはずの色に目が止まる。草や木から取り出した色は、もっと鈍いものだと、どこかで思っていたらしい。戸口の光の中では、母の膝の上だけが明るかった。
「何で染めると、こんな色になるの」
「染め屋に聞いておいで。私は、洗ったあとも色が残る方がありがたいけれどね」
母は私の指から布を抜き、小さく畳んだ。
その端を、脇から小さな手が押さえた。お春は母の針箱の隣に座り、端布を膝に集めていた。
「それ、私の」
「お春の袖に使うんだよ。お前のあとでね」
母が言うと、妹は黄色い布を両手で広げ、自分の袖へ当てた。こちらの繕いが長引くのを気にしているらしい。
「もう破らないでね」
「次に破れたら、お春のあとにするよ」
「次も、あと」
妹は念を押してから、母に袖を差し出した。私の番を待つ間、布を取られまいと押さえていた指がようやく離れた。
「今津は、遠いのかな」
「行ったことがないからねえ」
「父さんは」
「聞いておいで」
母は針を持ち上げた。糸の先を指で撚り、戸口の明かりへかざす。
私は店へ向かった。
父と久蔵は、北へ送る荷の控えを前にしていた。京から届いた布は、細長く畳んで幾重にも重ね、厚い包み布でくるんである。まだ口を閉じていない一包みには、濃い藍と、黄を含んだ赤い布が見えた。その脇に、両腕で抱えられるほどの木箱が三つ並ぶ。平たい蓋を縄で十文字に押さえ、側面には届け先を見分ける墨の印がある。角は擦れて丸くなっていた。
箱も包みも持ち主が違う。道中、いくつかの浜で渡し、最後の届け先が今津だった。父の店は、自分の米を売り買いするほかに、こうして人の荷を預かり、送り届ける手配もしている。今回はその帰りに、うちの米を買ってくる。
「うちの分は、二十俵でよい」
父はそう言って、久蔵の前へ銭の束を寄せた。丸い銭の真ん中には四角い穴があり、そこへ紐を通してある。黒く曇ったものの間に、青緑の錆の浮いた一枚が見えた。
父は束から一枚を抜き、別の皿へ置いた。その脇にも、使わない銭が幾枚か分けてある。
「欠けているから?」
「それもある。今津のあの家では、これは受け取らん」
「こっちで使える銭でも?」
父はうなずき、久蔵にも銭を見せた。
「向こうで嫌われるものを混ぜれば、米を前にして銭の話からやり直すことになる。先に揃えておく」
父が除けた銭を裏返した。縁の欠けは見分けられるが、この程度の擦れでも嫌われるのか。今津へ持っていく分を、私は久蔵の手元へ戻した。
話が途切れるのを待った。
「帰りの船は、いっぱいになるの?」
父が顔を上げた。
「孫七に聞かねば分からん」
「その人の船に乗るんだね」
「船頭だ。浜にいるはずだが」
私は久蔵を見た。彼は紙を揃えてから立ち上がった。
「出る前に、顔を合わせておきましょう」
外へ出ると、日なたの土が白く乾いていた。溝の縁だけに黒い湿りが残っている。店先の者に声を掛けられるたび、久蔵は足を止めた。私はその横で頭を下げ、浜へ続く道を覚え直すように歩いた。
家並みの切れ目に、陽を返す水面が見えた。道を下ると、両側の軒が途切れた。荷を置いた筵の向こうに砂利の浜があり、その先には、建物に遮られない琵琶湖が広がっていた。
浜には、陸の道とは違う騒がしさがあった。声が水に向かって遠くまで通る。舟を引く縄の濡れた匂いに、魚と泥の匂いが重なっていた。浅いところでは小舟が腹を見せるほど傾き、その脇で男が裾をまくっている。少し沖には、荷を覆った大きな船が揺れていた。
私たちが近づいた船では、男が舷に腰を掛け、縄の傷んだところを調べていた。
細い袖を肘までたくし上げ、裾を帯へ挟んでいる。日に焼けた膝に、乾いた藁くずがついていた。年は父より上に見えた。親指で縄を押し開き、奥の繊維を確かめてから、ようやくこちらを見る。
「それか」
久蔵が挨拶をすると、男は私を顎で示した。
「ご一緒させていただく、宗助様です」
「もう立って歩けるじゃないか」
「立つのは、ずっと前からです」
つい答えてしまった。
久蔵が横で咳払いをした。男は私を眺め、片方の頬に深い皺を寄せた。
「そりゃあよかった。立てんのを運ぶなら、荷が増える」
この人が孫七だった。
私は挨拶をし直した。孫七は手を動かしたまま聞いていたが、私が船の空きを尋ねると、縄から顔を上げた。
「帰りにか」
「うちは二十俵、米を買うと聞きました。ほかにも載せられるなら、船賃はどうなるのかと思って」
孫七はすぐには答えず、久蔵を見た。
「どこの米を買う」
「いつもの家です。揃っているものを見て決めます」
「同じところから、同じ時に出せるなら、まだ載る。坂本で下ろすんだな」
「はい」
私は、二十俵と四十俵ではいくら違うのかを尋ねた。
「お前のところの三斗入りで、二十なら二百文。四十を一度に積めるなら、三百二十で話そう」
二十俵のときは、一俵につき十文。四十なら八文になる。
「増えた二十俵の分は、百二十文で済むんですね」
「まだ空きを引き受けられるからな。ほかの荷を断って空けるとなれば、その値では受けんぞ」
「ほかの家の分も、一緒にしたら」
「してるぞ」
孫七は沖の船を指した。
「あれにも、こっちにも、違う持ち主の荷が載ってる」
船の包みは、形も印もまちまちだった。顔が熱くなる。隣にいる久蔵まで気にして口を閉じかけたが、まだ聞きたいところへ届いていなかった。
「うちの買付に、ほかの家の分も足せないかと思ったんです。欲しい米を先に聞いて、今津でまとめて買う。積むのも下ろすのも、うちで揃えるなら」
孫七の手が止まった。
「四十なら四十、決まっていれば話は早い」
「数が決まると、そんなに違いますか」
「二十は朝に来る、十は別の倉だ、残りはまだ米を見てるとなれば、人を待たせて縄を掛け直す。お前のところで揃えて、受け取る者も一人で済むなら、その手間が減る」
孫七は、船の奥に置かれた包みを指した。
「あれは途中で下ろす。奥へ押し込めば、上に置いた荷をまた動かさにゃならん。載るか載らんかだけで、銭を決めてるんじゃない」
孫七は縄を持ち上げた。
「四十俵。全部、同じ倉から出してくれるんだな」
「そのつもりです」
「だったら、その数で聞いてこい。ただ、あと十俵あるから待ってくれ、は受けん。風を見て出る」
「揃わなかった分は次の船にする。それでよいか、買う家へ聞いてくる」
「おう」
船が杭を引き、太い縄が鳴った。孫七が立ち上がったので、私たちは脇へ寄る。彼は船乗りに声を掛け、荷の間へ入っていった。私は歩き出した久蔵を追いながら、忘れないよう「四十俵」ともう一度言った。
*
家へ戻ると、父は私の話を聞きながら、二つに折った紙を開いた。
「その家々の米代も、うちで先に出すことになるぞ」
「ほかの家の分は、米を渡す日に全部払ってもらえる?」
「いつもは、売ってから払う家もある。十日ほどな」
「それなら、支払いの日も先に聞いておきたい。次の仕入れの銭を空けておきたいから」
父は紙の端へ二軒の名を書いた。そこの払い方なら知っている、と言う。私は名の横に、銭が戻る日を書ける場所を空けた。
「先に半分もらう話も、できるかな。船賃を安くできた分、先方にも残るなら」
「そういう家もある。だが、まだ買う米の値が分からん」
「買ってよい値の上限を決めてもらう。それより高ければ、買わずに戻る。質は久蔵に見てもらって」
「買えんときの話までしておくんだぞ。銭だけ預かって、帰ってから相談では揉める」
父は書いた二軒の名を、しばらく見比べた。
「私も行くよ。欲しい米と、いつまで待てるかを聞いてくる」
「久蔵について行け。値と払いは、わしから話す」
「分かった」
紙を受け取ると、父はすぐには手を離さなかった。
「扇屋もだぞ」
「……うん。分かってる」
次の日、久蔵と扇屋へ行った。
白い眉の主人は、こちらを見ると、私の足元まで目を下ろした。先日のことを言われるかと思い、背中が固くなった。
「今度は、買いに行く方か」
「はい。父の使いで」
「そうか」
扇屋は私を座らせ、久蔵の話を聞いた。
欲しいのは十俵。今のところ米は足りていて、急ぎの荷ではなかった。
「しばらく倉へ置く分だ。湿りのある米を安く買ってこられては困る」
「早く使ってしまう米なら、買うこともあるんですか」
扇屋は私を見た。
「傷む前に使えるなら、買うこともある。うちは今、その米を欲しがっておらん」
「置いておける方を」
「そうだ。安いからと買って、夏の間に十俵が九俵に減ったのでは、何をしているか分からん」
主人は久蔵へ顔を向けた。
「そこのところを頼む。うちでは一度に使わんからな」
「承知しております」
私は借りた筆で、紙に書き留めた。
十俵。その下に、急がず、と書こうとして、手を止める。
「いつまでは、待てますか」
扇屋がこちらを見た。
私は紙を見せた。
「次の御用に間に合うように。船が遅れたら、うちから知らせる時の目当ても欲しくて」
主人は奥へ声を掛け、別の控えを持ってこさせた。久蔵と二人で日を確かめる。その間、私は筆の穂先が乾かぬよう、机の端へ置いた。
「その日を過ぎそうなら、こちらでも探すぞ」
「替わりの米を頼むには、何日くらい要りますか」
「その時にならんと分からん。だから、遅れると分かったら先に知らせてくれ。こちらでも手を打つ」
前の仕事でも、「なるべく早く」と頼まれたら、いつ何に使うのか聞き返していた。急ぐ理由が分かれば、順を変えずに済むこともある。扇屋の示した日を記し、その手前にも、知らせを出す目当てを小さく書いた。
もう一軒も十俵を望んだ。家々へ小分けに売る分で、倉へ長く置くつもりはないという。久蔵が買える値の幅を聞き、私は届いた日に払える額と、残りの期日を書いた。同じ十俵でも、扇屋の紙を写すだけでは済まなかった。
戻って父へ控えを見せると、買付を一つにする話は通った。父が足していく費用を、私は脇へ書き出した。船賃、関銭、今津の倉から浜へ出す銭。さらに坂本で船を下ろし、うちの倉へ入れる手間。
「こっちも別なの」
「船から下ろすところまでか、倉へ入れるところまでか。孫七とどこまで決めた」
「船賃しか、まだ聞いていない」
「では、そこを聞いておけ」
船着き場と家の倉を別々に書き、間に余白を残した。父が加えた費用を全部引いても、まだ残りがある。私はその数字を指で押さえた。
「二軒とも自分で今津へ行くよりは、安くなるね。うちの余りも、ここに」
「この通りに買えればな」
父は二軒に渡す値を、一俵二百七十文を目当てに決めた。値と質の合う米が買えなければ、引き受けられない。その条件でよいか自分で話してくると言い、外へ出ていった。
その背中を見てから、私は久蔵に尋ねた。
「買えずに戻るときは、空けてもらった分を、幾ら払うことになるの」
久蔵は、私の書いた船賃を指した。
「そこは孫七殿と話しましょう。確かに四十俵分空けておけと頼むのか、まだ分からぬから、空いていれば載せてくれと言うのかで違います」
「四十俵を積めるよう、空けておいてほしい。買えずに戻るときに払う額も、出る前に決めたい」
「では、明朝、私も一緒に」
船賃の脇へ印をつけた。ここを決めれば、船の分も父へ返事ができる。聞くことばかりだった紙に、ようやく済んだ印も増えていた。
夕方、母が繕い終えた小袖を持ってきた。脇の当て布は元の生地より濃い。裏へ指を入れて引くと、手の甲を軽く叩かれた。
「直したそばから、何をするの」
「丈夫かなと思って」
「丈夫にしたよ。腕を上げて」
袖を直されている間にも、私の目は机へ戻った。父が今津の米商へ渡す書状を畳んでいる。二十俵だった買付の数が、四十俵になっていた。
「それ、四十で決まったんだね」
「先方との話はついた。孫七へは明朝、条件を合わせて知らせろ」
母の手が離れると、私は机へ戻った。四十俵とある書状の下に、自分の控えを重ねる。明日は、これを持って浜へ下りる。




