第三話 風待ち
翌朝、米の出ていく音で目が覚めた。
まだ家の奥は暗かった。寝ていた筵の端から起き上がると、表の戸が開いていた。青白い朝の空を背に、荷を担ぐ者が入ってくる。机のそばの灯りがその袖を照らし、通り過ぎると、土間はまた暗くなった。太い縄の擦れる音と、短く息を合わせる声がする。外では馬が足を踏み替えていた。
夜具代わりに掛けていた衣を押しのけた。昨夜、母に言われて早く横になったのに、眠りは浅かった。船が着いたという知らせを聞いた気がして、何度も目を開けた。
足を下ろすと、床の冷たさが踵から上がってきた。
父は倉の戸口にいた。俵を出す側と受ける側へ目を配り、ときどき、先の者が通るまで待てと声を掛ける。倉から母屋へ続く庭には、もう藁屑が散っていた。湿った土に貼りついたものと、草履に払われて転がるものがある。私は父のそばへ行こうとして、担ぎ手に道を譲った。
担ぎ手が一人、倉の敷居に足を掛けた。膝を曲げて俵を背に受けると、首の筋が浮いた。もう一人が縄を押さえ、短く声を掛ける。立ち上がったとたん、その足の下で床が一度鳴った。土間を通るときには肩を斜めにし、父の机の脇をすり抜けていった。
父が私を見つけた。
「起きたか」
「手伝います」
昨夜、扇屋との話はまとまった。
朝に二十俵、残る四十俵は十一日の暮れまでに、こちらから二つの坊へ届ける。父が返事に行き、久蔵が、扇屋で待つ者たちと運び手の割り振りを決めた。
北からの船が間に合わなかったときの米は、町の別の商人に四十俵、取り置いてもらった。十一日の朝になっても船の米が使えなければ、そちらを買って届ける。取り置きの礼は八十文で、買わずに済んでも戻らないという。
昨夜は取り置きが決まったと聞いて、ようやく眠れると思った。それでも、六十俵が来るまでうちの米は空になる。庭へ出ると、父たちの邪魔にならない場所を探すばかりで、手を出せずにいた。
久蔵が倉の横から声を掛けた。
「こちらへ。戸を出た俵を数えてください。受け取る者へ渡ったところで、一つです」
私は彼の隣に立った。薄明かりの中で、俵を縛る縄の印を見せられる。
「京へ出すのは、この印。ほかの荷も動きますから、俵が通っただけで数えないでください」
「そっちへ置いた分は?」
「まだ倉の中です。縄を締め直してから出します。渡す時に声を掛けますから」
受け取り手の背へ俵が渡り、男が立ち上がる。そこで一つ。途中で呼ばれて返事をしかけ、今の分を数え落としそうになった。
「七つです」
数を先に告げると、久蔵が続けるよう手で示した。次の縄の印が男の肩へ隠れ、私は横へ一歩ずれた。
八十俵が出たところで、久蔵と、受け取る側の男が数を合わせた。
揃っている。ほっとする間もなく、京へ向かう一団が動き出した。馬の背を越して、もう一頭、その先にも一頭と、暗い道へ影が連なっていく。最後の馬が角を曲がると、脇へ避けていた町の人々が道へ戻った。馬方の声だけが、家並みの向こうからまだ聞こえていた。
やがて、扇屋の頼んだ運び手が来た。
こちらは二十俵だった。昨日、店で荷縄を巻き直していた男が、受け渡しを見ていた。私は父の脇から進み出て、改めて頭を下げた。
「手間を増やして、申し訳ありませんでした」
男は私の顔を見た。
「残りの分も聞いている。明日は頼むぞ」
男は俵へ手を掛け、腰を落とした。私は慌てて戸口を空けた。彼の肩が通り過ぎるときに、明日の分もよろしくお願いします、と言った。
米を置いていた場所には、床板の黒い筋が現れていた。百俵が積まれているときには見えなかった筋だった。片側には預かり荷がまだ積まれているのに、倉はひどく広くなった。声を出せば、いつもより遠くから返ってきそうだった。
私は箒を取り、俵の下にたまっていた藁屑を庭へ掃き出した。
使い慣れた箒の柄は、掌の当たるところだけ滑らかになっている。俵のなくなったところを掃き、木屑のように硬い藁の節を拾う。倉の仕事を何も知らなかったわけではない。手を動かせば、次にどこを掃くかは考える前に分かった。
「そこ、昨日も掃いた」
倉の戸口に清吉がいた。五つ下の弟は、両手で抱えた塵取りを敷居の向こうへ置き、私の箒を指した。
「俵を動かしたから、また落ちたんだよ」
「知ってる。兄さんが寝てる間も、俺がやった」
そうだったのか、と言いかけて口を閉じた。庭を掃くのはもともと私の仕事で、弟がついてくれば箒を渡し、残りを頼んで浜へ遊びに行ったこともある。
「そうか。助かったよ」
弟の頭へ手を伸ばしかけ、箒の柄が傾いた。清吉が肩をすくめる。
「何だよ」
「いや。よくやってくれたと思って」
「父さんみたいなことを言う」
得意になったとき、口の片端だけを上げる。弟は昔からそうだった。息子にも似た顔を見たことがある。褒められるのを待ちながら、待っていないふりをする顔だった。
清吉が塵取りを寄せた。
「早く。こぼれる」
私は箒を両手で持ち直した。
「ここへ集めるから、受けてくれ」
弟は口をこちらへ向け、まだ残っている、と隅を指した。何度も指されるので箒を返したくなったが、弟はもう、次に受ける場所へ塵取りを動かしていた。
昼近く、私は家の前へ出て、湖から吹いてくる風を受けた。
北の船は、まだ着いていなかった。もう一度浜へ行こうかと思ったところで、母に呼び止められた。
「久蔵が見てきたばかりだよ」
「分かってる」
「浜へ行けば、早く着くのかい」
私は返事をしなかった。母も、すぐには言い足さなかった。かまどで使った手拭いをゆすぎ、絞ってからこちらを見た。
「足、引きずってるよ。少し座りなさい」
「何か、していないと」
母は絞った手拭いを広げかけ、私を見た。
「まだ仕事があるのかい」
すぐには答えられなかった。母は庭へ出て、手拭いを干した。戻ってくると、私が立っているところを軽く叩いた。
「そこにいられると、桶を持って通れないよ。座って、清吉が戻ったら顔を洗ってくるように言っておくれ」
私は脇の板の間へ腰を下ろした。朝から使い続けていた脚が、思い出したように重くなった。母はすぐそばで、干しきれなかった布を膝へ広げた。
道の向こうで、子どもが空の籠を押して遊んでいた。大人に叱られると脇へ寄り、通り過ぎればまた出てくる。次はあの角から馬が来る。そう思ったところで、案の定、子どもは抱え上げられた。昔の自分を見ているようで、少し笑った。
膝の紙には、明日届ける二つの坊の名があった。道をもう一度思い浮かべようとして坂を見上げると、家並みの後ろに比叡山が見えた。
あの山が焼かれることは知っている。山の肩から白い雲がほどけ、木々を隠した。煙ではないと分かっていても、目を離せなかった。
昨日、道順を聞いた炊事場も、山へ米を頼む人々の家も、あの木々の下にある。清吉はどこへ行った。お春は母のそばにいたはずだ。顔を確かめようとして、立ちかけた。
いつのことかも分からない。今、走って二人を連れ戻しても、何を言えばよいのだろう。私は膝に置いた届け先の紙を押さえた。
母の手が額に触れ、私はびくりとした。
「ぼんやりして。まだ熱があるんじゃないの」
「ないよ」
「そうかねえ」
水仕事で冷えた指が、しばらく額に留まった。私は目を閉じた。
「少し休む」
「そうしなさい。出ていくときは、声を掛けるんだよ」
返事をして柱へ背を預けた。母が奥へ戻っても、額に冷たさが残っていた。
しばらくして、父が机の前へ座った。
古い木箱を開き、銭の束を取り出している。蓋の端には木が欠けたところがあり、紐を掛ける溝だけが黒く艶を帯びていた。父は箱を膝へ引き寄せ、必要な分を小皿へ移した。私は柱から背を離した。
「取り置きの米の分?」
「そうだ」
父は数えた銭を紐に通した。
「明日の朝まで、ほかへ売らずにいてもらうんだね」
「そうだ。こちらが買うか買わんか、朝には返事をする」
父は紐の先を指で撚った。私は帳面の余白に八十文と書き、取り置きの礼、と添えた。米を買うかどうかに関わらず払う銭だ。
「米そのものの値は、もう決めてある?」
「決めてきた。四十俵分を、今から別に揃える」
父は木箱から、もう一束取り出した。
父が紐を通す爪に、黒い筋が入っていた。以前はその横で菓子をねだっていた。少し待てと言われても、銭を数え終えるまで待てず、袖を引いたことがある。
「私にも、払えるものがあれば」
父が顔を上げた。
「今はないだろう」
「……うん」
「なら、明日の荷を間違えずに渡してこい」
父は木箱へ蓋を載せ、机の端にあった書き損じの紙を一枚、こちらへ寄せた。
「明日の届け先は聞いたか」
「聞いた」
「では、忘れんようにしておけ。誰に何を渡すか、途中で聞き直さずに済むようにな。久蔵も、お前のことだけを見てはおれん」
私は紙を受け取った。
父は立ち上がり、銭を渡しに外へ出ていった。私はその後ろ姿が戸口を過ぎるのを見届けてから、墨を擦った。
紙へ二つの届け先を離して書き、それぞれに二十俵と添えた。扇屋で聞いた門の位置を思い出す。受け取る者を、誰に呼んでもらえばよいのか。そこだけは分からず、久蔵の帰りを待った。
「門の者へ扇屋殿の名を告げれば、呼んでもらえます。明日は私が運び手と話しますから、宗助様が声を掛けてください」
「私が?」
「二つとも、御自分で聞いてきた先でしょう」
紙を見直した。二つ目は炊事場の脇へ回る。扇屋の主人が指で道を辿ってくれたのを思い出し、そのところに印をつけた。
翌朝、船が着いた。
知らせに来た者の声を聞くと、父も久蔵もすぐに動いた。私は倉へ走り、戸を開けて荷の通る場所を空けた。誰かに言われる前に、しておきたかった。
浜から届いた俵には、濡れた藁の匂いが残っていた。
縄の表にも湿りがある。私は手を当て、すぐ久蔵を見た。
「米まで濡れてない?」
「それを確かめます」
久蔵は俵を回し、底に当たっていたところを掌でなぞった。父と二人で包みを確かめ、口を解いたところから米をすくう。掌の上で広げると、粒は乾いた音を立てて落ちた。
「上の藁だけですね。こっちの俵も開けましょう」
「このまま、乾いた俵と一緒に積んでいいの?」
「濡れた覆いは外します。乾いた俵まで湿らせてはいけません。まず、この板の分を確かめましょう」
久蔵は入口脇へ渡した敷板を示した。父が次の俵をそこへ転がす。私はほどいた縄を受け取り、足に絡まぬよう一か所へ置いた。
「もし中まで濡れていたら」
「良い分から離して、船の者にも見てもらいます。受け取ったあとで言っても、どこで濡れたか分からなくなりますから」
乾いた粒が二人の掌を渡った。私も手を拭いて、ひとつかみ受けた。思っていたより冷たく、指の間からするすると落ちた。
数も、米も揃った。六十俵を受け取り、そのうち四十俵を二つの届け先へ分ける。父は取り置きを頼んだ商人へ、買わずに済んだとすぐ知らせを出した。私は用意しておいた紙を懐へ入れ、運び手が来るまでに、行き先ごとの印を久蔵と確かめた。
久蔵と荷の列を追って坂を上がった。まだ脚は重かったが、門に着いて何を言うかは決めてある。懐の紙を押さえ、運び手の肩に見え隠れする縄の印を追った。
最初の坊では、門の脇で待たされた。坊というのは、僧たちが暮らす家である。門の奥には庭があり、その向こうに軒の深い建物が見えた。どこへ米を置けばよいのか、外からでは分からない。
私は門に出てきた者へ扇屋の名を告げた。久蔵が運び手と話している間に、聞いておいた相手を呼んでもらう。振り返ると、久蔵がこちらを見て、一度うなずいた。
庭の砂に朝の水気が残り、竹箒で引かれた筋が足元から奥へ続いていた。呼ばれて来た者が脇の倉を指し、そこへ運び入れてくれと言った。米を渡すたび、私は数を確かめた。最後の一俵まで納まると、久蔵が先方の数と合うかを聞いた。
二つ目は裏へ回った。炊事場の戸口から薪の匂いが流れてきた。使い込んだ椀が、口を上にしていくつも並べられている。誰かが釜の蓋を持ち上げると、白い湯気が梁まで上がり、煤けた木を一瞬だけ隠した。
受け取りを終えた男が、倉の方を見て言った。
「これで、しばらくは足りる」
奥へ積み入れる場所を指して、男は炊事場へ戻っていった。久蔵が控えを確かめている間、私は土間を半歩外れ、邪魔にならない柱へ背をつけた。釜から流れてくる湯気に、思いがけず腹が鳴った。朝の飯を、ほとんど食べていなかった。
帰りに寄った扇屋で、主人は報告を聞き、短くうなずいた。
「二つとも、受け取ったんだな」
「はい。数も、先方と合わせました」
久蔵が受け渡しの控えを見せた。扇屋は二つの名を確かめ、紙を戻した。
「分かった。親父さんにも、そう伝えてくれ」
九日の朝、約束をしたときのようには笑わなかった。けれど帰り際、戸口の籠をどけてくれた。私たちが通る幅だけ、黙って空けてくれた。
私はその前で足を止め、もう一度頭を下げた。
家では、父が帳面を開いて待っていた。
父は、もとの勘定と、そのあと増えた分を並べた。この米を売って残るはずだったのは、百八十文。取り置きの礼が八十文、うちで引き受けた追加の運び賃が百六十文だった。
「六十文、出る方が多くなった」
紙の上で百八十から八十を引き、さらに百六十を引いた。六十文の損。二つの坊から受け取った控えを、その横へ並べた。
「全部、渡してきたんだな」
「二か所とも。数も合わせました」
父は控えを読んで帳面に挟んだ。まだ何か言われると思い、私は立って待った。
「座れ。顔色が悪い」
「もう、終わり?」
「今日の用は終わりだ。母さん、飯はあるか」
言われて初めて気づいた。腰を下ろすと、膝が熱を持っていた。奥から出てきた母が、何も言わず、私のそばへ椀を置いた。
粥だった。
「また粥?」
「急に歩き回って、そのうえ腹を壊されたら困るもの」
母は椀を私の方へ寄せた。昨日より米が多い。匙ですくって口へ運ぶと、塩が足りなかった。
「少し、塩を」
「それくらいにしておきなさい」
「もう少しだけ」
母は笑い、ほんの少し足してくれた。匙を入れ直した私を見て、自分も足を伸ばす。
「お春には内緒だよ。あの子まで欲しがるから」
「母さんも食べた?」
「先に食べたよ。みんな待っていたら、片づかないもの」
母は、私が次の一口を飲み下すまで見ていた。ようやく立ち上がると、私も椀を少し持ち直した。もう仕事を探さず、膝に伝わる温かさを感じながら、ゆっくり匙を動かした。
しばらくして、父が隣に座った。
懐から出した紙には、北へ送る荷と持ち主が書いてあった。今度の船に、久蔵をつけて行かせるつもりだという。
「身体が戻ったら、お前も行ってみるか」
私は匙を止めた。
「船に?」
「今津までだ。北から来る荷を、一度見てこい」
「行っても、まだ米の良し悪しは分からないよ」
「久蔵がつく。初めから一人で買ってこいとは言っておらん」
父は紙をこちらへ向けた。
「買うところから、見てきた方がいい。店に座っていても分からんからな」
今津は、坂本から琵琶湖の西岸を北へたどった先の港だ。日本海側から山を越えてきた荷が、そこで湖の船へ移される。帳面では何度も見ていた名だった。
行きに載せる荷の名を追い、私は書かれていないところを指した。
「帰りは何を積むの」
「うちの米を二十俵。ほかに話があれば積みたいがな」
「その話を、私も探していい?」
父がこちらを見たので、慌てて言い足した。
「買う約束はしない。欲しい家があるか、聞くだけ」
「……まず、その粥を食え」
匙を持ったままだった。私は椀を引き寄せた。奥では久蔵が帳面をしまっている。出かける前に聞いておくことを思い浮かべながら、残りをかき込んだ。




