第二話 坂を上がる
父は敷居をまたいだところで足を止めた。私と久蔵、それから机に置かれた小皿を見る。
「何をした」
私は扇屋へした返事を話した。初めに帳面を指してしまい、途中で手を引いた。
「船で来る六十俵も、明日の朝に渡せるものとして数えました。久蔵には、確かめずに」
奥から母が湯を持ってきた。父は受け取ると、飲まずに板の間へ置いた。脚絆を外そうと膝へ掛けていた手が、帳面の方へ伸びる。
「京の八十俵は動かせん。先に約束した分だ。向こうも、この米を待って人と馬を出す」
父の指が八十という字の上に止まった。
「ここを動かしても、詫びる相手が増えるだけだ。久蔵、浜に入った分はどうだ」
「買い手がついています。回してもらえるか、聞いてみますが」
「向かいの倉は」
「預かりだそうです。持ち主へ使いをやらねば」
父は口元を拭った。泥のついた裾が膝の下で折れ、横には母の湯が冷めていく。私は、さっきまで寝間着でいたことを急に恥ずかしく思った。
「いつもの家には、四十俵ほど残っています」
久蔵が別の紙を出した。父が身を寄せる。
「それを買えるか」
「明朝に使うなら、値は向こうの言うままになるかと。先に欲しいという者もいるそうです。明後日まで取り置いてもらうだけなら、もう少し話せます」
「取り置きの礼は要るな」
「はい。うちの船を待つ間、よそへ売らずにいてもらう分です」
父は顎をさすり、扇屋と決めた値を見直した。
「明朝、買って運んで、こちらで全部払えば……」
「利は残らないでしょう」
「そうか」
机の縁へ置いた私の手が、二人の紙を塞いでいた。膝へ戻した。父が相手なら頼めることも、久蔵が出向けば聞いてもらえることもある。私はこの家にいる人の顔を知っているだけで、米を四十俵回してくれと頼める相手を、誰も持っていなかった。
「父さん」
呼びかけると、父が顔を上げた。
「扇屋へ、一緒に行かせてください」
父は私の顔を見た。
「謝りにか」
「謝ります。でも、先へ届けるまで引き受けたら、分けて渡せないかな。明日の朝に、六十俵全部を使うわけじゃないかもしれない」
扇屋は山手の寺々へ米を納めている。先の届け日を聞ければ、動かせる分があるかもしれない。私は父の指が押さえている八十の字を避け、残る二十を指した。
久蔵が私の言葉を継いだ。
「いくつかの坊の分をまとめることは多いです。ただ、二度運ぶ手間は増えます」
「二度目に運ぶ分は、うちで払えば……」
父の顔を見て、言いさした。
「払えるか、聞いてから決めたいです」
父は冷めた湯を一口飲んだ。
「久蔵と行ってこい。要る日と、届ける先を聞くんだ。その場では、決めるな。こちらも米の手配をしておく」
「聞いて戻るだけで、間に合う?」
「戻るまでに、俺が米を探す。久蔵は運ぶ者の都合を聞く。お前は扇屋が何を動かせるか、確かめてこい。三つ揃えば、次の話ができる」
父は私の手元へ、何も書いていない紙を寄せた。
「自分で引き受けたからといって、全部一人で直そうとするな。こちらが何をしているかも、覚えておけ」
私は紙を取った。父が米を探している間に、自分の聞くことを確かめて帰る。そう考えると、ようやく立つ順番が分かった。
母が、土間へ下りようとする私を呼び止めた。差し出されたのは草鞋だった。藁を編んだ底から長い紐が伸びている。足を載せ、踵を留める輪へ紐を通した。母に手を出される前に済ませたかった。
「きつく締めすぎないんだよ」
私はうなずき、足首に回した紐を結んだ。指が急いでしまい、一度緩めて結び直す。その間、母は何も言わずに待っていた。
家を出ると、雨上がりの空が思いのほか広かった。
私たちの家は、琵琶湖に近い低い町にある。浜から、山手の日吉社へ上がる道のそばだ。祖父が店を開いた頃には、近くに大きな桂の木があったという。「桂のもとの米屋」と呼ばれたのが、桂本屋になった。木は私の生まれる前に倒れたと父に聞いたが、古い客の中には、今もあの桂のところ、と道を教える人がいる。
道沿いには、戸口の広い家と、荷を置いた小さな庭が続いていた。軒の下で縄をなう者が、往来を避けて膝を引く。藁束を担ぐ男の小袖は肩だけが白く擦れ、そのあとを行く女の裾には、黄と藍の布が継ぎ合わされていた。
道の溝には、山から下りてきた水が流れている。踏まれた馬糞の匂いに、どこかで焼く魚の匂いが混ざっていた。家の中にいるときより、空気がずっと湿って感じられた。
深い轍には空の色が残っていた。乾いたふちを選んで歩いたが、よけた先で荷を担ぐ男と鉢合わせし、軒下へ身を寄せた。目の前を俵の端が通り過ぎる。袖についた藁屑を払ってから、私はまた久蔵のあとを追った。
坂本は、背後の比叡山にある延暦寺という大きな寺と、その麓の日吉社の門前町だった。山手には僧の暮らす坊があり、そこへ米を納める商人も多い。父も寺から使いが来れば、私の話が途中でも、すぐに店へ戻っていった。
浜から来た馬の列が、私たちの前で道を曲がった。俵を積んだまま、京へ越す道に向かっていく。琵琶湖を渡ってきた荷は、この町で馬や人の背に移され、山の向こうの都へ運ばれる。うちの倉にも、その途中の荷が積まれていた。
坂の曲がり角で、久蔵が荷の列を先に通した。私も脇へ寄り、来た道を振り返った。
上ってきた坂が、家々の間を浜の方へ下っていた。少し高くなったここからは、低い屋根の向こうに琵琶湖が見える。水面の一部に雲の切れ目から陽が差し、遠い帆が白く浮いた。目を離すと見失いそうなほど小さかった。父の待つ米も、あの水の向こうから来る。
幼い頃には、湖へ近づくだけで浮き立った。水際へ走っていき、母に呼び戻されたときの、素足に触れる砂の感触まで覚えている。今は、帆を見つけると目で追った。行き先が分かり、待ってくれる人もいる舟だった。
久蔵が先へ歩きだした。私は紙を懐へ押し込み、足元へ目を戻した。
いつもなら小刻みに速く歩く人が、今日は何度も立ち止まる。
「もう少し速くても平気だよ」
「平気な歩き方には見えません」
「そう?」
「それに、私も暑い」
久蔵は襟元へ指を入れた。私も小袖の背が張りついていることに気づき、それきり急ごうとは言わなかった。
扇屋の店では、戸口を半分ふさいで空の籠が積んであった。奥の板の間で、主人が荷を運ぶ男と話している。私たちを見ると、主人の白い眉が上がった。
「どうしたね。何か書き漏らしでもあったか」
私は敷居の手前で頭を下げた。
「今朝の米のことで、お詫びに来ました。明日の朝に確かに渡せるのは、二十俵だけでした」
奥で鳴っていた木の音が止んだ。扇屋はすぐに答えなかった。隣の男が、手に持っている荷縄を巻き直している。縄の端が、乾いた土間を擦った。
「帰ってすぐ、人を頼んだぞ」
扇屋の声が低くなった。
「お前が出せると言うからだ。この者も明日の仕事を変えている。今から、ほかを探せと言うのか」
荷縄の男を見たが、目が合わなかった。
「申し訳ありません」
確認が足りなかった。見込みを誤った。前の仕事で使った言葉が浮かび、口へ出すところで止まった。男は縄を巻き終えても、こちらを見なかった。
「二十俵は、久蔵にも確かめてもらいました。残りをいつ、どこで使うのか、教えていただけないでしょうか」
「朝だと、言ったろう」
「はい。うちへ引き取りに来ていただくのは、明日の朝です。その先へ、こちらから直接届けることができればと思って」
扇屋が久蔵を見た。久蔵は頭を下げたまま答えた。
「運ぶ者の手配も含めて、清兵衛が話をし直したいと申しております。まず、変えられるところを聞いてこいと」
父の名が出て、扇屋の視線が私へ戻った。
「先へ届ける銭まで、そちらで持つのか」
「その案を持ち帰ります。父から、今日中にお返事します」
言い切ってから、久蔵を見た。小さく頷いたので、詰めていた息を吐いた。
扇屋が奥へ引っ込み、一枚の控えを持って戻ってきた。
届け先は三つで、二十俵ずつだった。明朝の分を外せないのは一か所。ほかは、先方の残り具合を考えれば、明後日の暮れまでには届けばよいという。
主人の指が、紙の上で二つの名を押さえた。
「ここを後にすることはできる。だが、別々に運べば、人も馬も二度要る。だから一度で引き取ろうとしていたんだ」
「こちらから直接届けても、その分の手間は増えるんですね」
「増える。二十俵ずつだからといって、六十を運ぶ支度の三分の一で済むわけではない。行く者を揃えて、帰ってくるまで待つんだ。道も同じではないしな」
扇屋は、隣の男へ控えを見せた。
「二つ目は、表の門へ行くなよ。前に裏へ回されたろう」
「あちらは、炊事場の脇です」
男の指が控えの一か所を叩いた。私はその指先を見ながら、自分の紙にも炊事場の脇、と書いた。
「その二度目を、うちで引き受けられるか確かめます」
「米が遅れたのは私の都合ではない。それも先へ伝えてくれ」
「はい」
扇屋は久蔵へ控えを向け、道順と受け取り手を告げた。
「受け取りは、どなたをお呼びすれば」
私が聞くと、扇屋はそれぞれの名を告げた。
「門でうちの名を出して呼んでくれ。よその坊の使いも来るから、顔を知らぬ者へ置いて帰るなよ」
久蔵が門の位置を聞き直すと、扇屋は筆を取り、控えの隅へ道を描いた。家と家の間を一本の線が抜け、奥で折れる。私は同じ形を自分の紙へ写した。
店を出る間際、扇屋が呼び止めた。
「宗助。親父さんの返事を待っているぞ」
「はい。すぐ戻って伝えます」
朝のようには笑ってもらえなかった。何か言い足したくて振り向いたが、扇屋はもう荷縄の男と話し始めていた。
帰りの坂で脚が重くなり、とうとう歩みが遅れた。塀際の石へ久蔵が先に腰を下ろす。隣へ座ると、陽に温まった石が小袖を通して腿を温めた。
「怒っていたね」
「ええ」
「次も、買いに来てくれるかな」
「それは、私にも分かりません」
久蔵は首筋の汗を拭い、手拭いを膝へ置いた。
「扇屋殿も、坊の者に渡す約束をしておいでです。あの方が向こうで詫びずに済むよう、今度は届けましょう」
「うん」
塀の向こうから葉の擦れる音がした。久蔵は目を閉じている。私は紙を出しかけ、手を止めた。
「久蔵にも、迷惑をかけた」
「今日は、かかりましたね」
目を開けずに言われた。すみません、と続けようとして、やめた。久蔵の胸がゆっくり上下しているのを、しばらく一緒に待った。
立ち上がるときには、先に腰を浮かせて道を空けた。久蔵が膝を伸ばしている間に、私は三つの届け先を読み返した。
家へ戻ると、父は木箱から銭を出していた。敷居をまたぎ、その前へ紙を広げる。
「父さん。明日の朝、動かせないのは二十俵でした」




