第一話 米の匂い
永禄五年(1562年)。近江国坂本。
母が置いた粥の椀から、細い湯気が上がっていた。
雨の翌朝だった。通りに面した戸が開き、土間の半ばまで白い光が差している。濡れた道には馬の蹄の跡が残り、その間を選んで人の脚が通った。私は土間より一段高い板敷きに座り、膝に載せた手を見下ろしていた。
爪の脇に治りかけの傷がある。熱を出す前、荷を縛る縄で擦ったのだ。母に見つかれば薬を塗られるから、袖へ隠した。今も椀が近づくと、ついその手を引いた。
ところが、その同じ指で、携帯電話の画面に触れた覚えもあった。仕事を終えて、これから帰ると返事を打つ。妻から届いた写真には、息子の横で眠ってしまった娘が写っていた。
画面を広げようとした指が、空をなぞった。手にあるのは治りかけの傷だけだった。
七日前、熱の高かった夜から、そういう記憶が入り込むようになった。
初めは夢だと思った。白い天井、窓の閉じた部屋、机の上で光る画面。見知らぬ人の声が聞こえるのに、何を頼まれているのかは分かった。起き上がって返事をしようとし、目の前の暗い柱へ手をついた。
母が私の肩を押さえた。
「水かい」
水が欲しかったのか、どこかへ行きたかったのか、そのときは答えられなかった。藁の匂いがする。母の膝へ爪を立ててしまい、手を離そうとしたら、その手ごと包まれた。
熱が下がっても、夢は薄れなかった。
現代の日本で、三十五歳まで暮らした記憶だった。金融機関で働き、数字を集め、話の合わない人たちの間を行き来していた。机の引き出しに何を入れたかも、返事を先延ばしにしたまま気にしていた用も覚えている。
家には妻と、八歳の息子と、二歳の娘がいた。息子が話し始めると、娘も割って入ろうとする。まだうまく言葉にならない声に、妻と二人で笑った。寝かせたはずの娘がまた起きてきて、夫婦で顔を見合わせた夜もあった。
思い出せるのは、そういうことばかりだった。どうしてここにいるのか。帰るには何をすればよいのか。その答えになるものは、いくら辿っても見つからない。
もう一度眠ればと思った夜もある。目を開けるたび、暗い梁があった。庭で水を汲む音がし、そろそろ母が来ると分かった。
宗助、と呼ばれれば、自分のことだと分かった。
琵琶湖の西岸、近江の坂本。米を売り買いし、よその荷を預かって運ぶ手配もする、桂本屋の息子だ。十五年、ここで暮らした。裏の戸は下を少し持ち上げないと開かない。久蔵が昼寝をするときは奥の柱へ寄る。父が留守の日には、少しだけ仕事をさぼって浜へ下りた。帰りが遅くなると叱られたが、次に船が来れば、また見に行きたくなった。
寝床でそれを一つずつ思い出し、消えていないことを確かめた。自分が二人いるのなら、どちらかがいなくなるのだろうか。目を閉じるのが怖くて、母が眠ってからも起きていた夜があった。
「宗助」
暗がりから呼ばれると、考える前に返事が出た。
「起きてるの」
「……うん」
「どこか痛む?」
「もう、痛くない」
母は私の襟元へ手を入れ、汗をかいていないか確かめた。その手の動きに、もっと小さかった頃の自分が身をよじる感覚まで蘇った。構ってほしくて母の袖を引くのも、心配されるのが少し煩わしくなったのも、どちらも私だった。
今の暮らしを、会社員だった記憶の側から眺めれば、はるか昔の日本になる。近江は滋賀県。父たちが使う永禄という年号は、戦国時代のものだ。昔へ生まれ直して、その前に送った人生を思い出した。前世というなら、そう呼ぶのだろう。順序の逆になった二つの暮らしを、ほかにどう説明すればよいのか分からなかった。
母に話そうとしたこともある。遠くに、会いたい人がいる。そこまで言えれば続けられる気がした。だが、どこの誰かと聞かれたら、何と答えればよいのだろう。
知らない夢を見たと言いかけたところで、また額へ手を当てられた。その手に額を預けたまま、続きを飲み込んだ。
「冷めるよ」
目の前で、母が粥をこちらへ寄せた。
褪せた藍の小袖の袖をたくし上げ、細い帯へ布巾を挟んでいる。前を重ねて帯で留めるこの衣は、母にも私にも馴染んだ普段着だった。袖口から出た手首が、水仕事で赤くなっている。
「……いただきます」
匙を取ると、母はようやく腰を伸ばした。私のために何度、竈と寝床の間を往復しただろう。今日くらいは自分で食べるから、仕事へ戻っていい。そう言おうとして、母が隣へ座ると、椀を抱え直すだけになった。
粥には薄く塩が利いていた。木の匙ですくうと、割れた米粒が白く濁った汁の中に浮いた。舌で潰すほど柔らかく、飲み下したあとに、少しだけ米の甘さが残る。熱かった頃には、この味も分からなかった。
椀を傾けて最後まで飲むと、母が少し笑った。
「今日はよく入ったね」
「もう、だいぶいいから」
椀へ手を伸ばした母より先に、私は立とうとした。
「私が運びます」
「おや」
母の目が丸くなり、そこでようやく、よその家で食事をいただいたような口を利いたことに気づいた。
「……そこまで、運ぶよ」
奥を指す間に、椀は母の手へ移っていた。
「急に行儀がよくなって。椀を下げるたびに立たれちゃ、こっちが落ち着かないよ」
笑いながら台所へ戻る背を見送った。床に残った丸い濡れ跡を袖で拭い、母に見つかる前に手を引っ込めた。
「もう寝ないの」
奥の柱から、妹のお春が顔を出した。六つになる。私が起きてきてからも近寄らず、母の後ろをついて歩いていた。
「昼には、少し寝るかもしれない」
「夜は?」
「夜も寝るよ」
お春は困った顔になった。それから、私の耳へ口を寄せる。
「今日は、母さんと寝てもいい?」
私が熱を出している間、母はずっと寝床のそばにいた。妹の寝つきが悪く、背を叩いてもらわなければ眠れないことを、私は知っている。
「いいよ。もう起きられるから」
お春はすぐに立ち上がった。裾を踏みそうになり、私は脇へ手を差し入れた。妹はひょいと足を抜いて、私の腕を避けた。
「平気だよ」
奥へ走っていく背を見送った。抱き上げるつもりで伸ばした手を、膝へ戻す。もう六つだ。昨日まで知らなかったことでもないのに、手が先に出ていた。
母を呼ぶ声がして、兄さんのところでは騒がないの、と返事があった。
父の机の方へ膝を向けた。表から入って左手の板の間にあり、後ろの棚には帳面と書付の束が並んでいる。天板には墨の染みが重なり、父がいつも手を置く縁だけが黒く滑らかだった。
板の間から一段下りると、表の通りから裏へ抜ける土間になっている。荷を担ぐ人は、そこを通って倉へ行く。湿った足跡が裏の戸まで幾重にも重なり、戸の先には狭い庭があった。庭脇の木戸は細い道へ出るが、荷が重なる日は家の中を通す。その向こうに開いた別棟の倉から、俵の丸い端がのぞいていた。
倉では、床に渡した木の上へ米俵を積んでいた。膨らんだ藁の腹を太い縄で縛り、両端にも藁を編んだ蓋を当てた荷だ。入口から見て、うちで売る分は右、人から預かった分は左。幼い頃、その隙間へ潜って遊んでは叱られた。
庭では空の俵を叩いていた。細かな屑が舞い、戸口の光を濁らせる。その音に母が椀を洗う音が交じり、止まっていた一週間が、私を置いて動きだすように思えた。
机の前では、久蔵が銭を数えていた。四角い穴の開いた丸い銭を、指で一枚ずつ押し出す。表の字が擦れたものは裏返し、縁まで見てから重ねていた。黒い小さな柱が、皿の上に並んでいく。
私が物心ついた頃から、もう年寄りに見えていた人だ。今見ると、まだ髪の黒いところも多い。うちの商いを長く支えている古参で、父が出かけると店のことはこの人が差配する。
私が近づくと、久蔵は銭から顔を上げた。
「横になっていなくて、いいんですか」
「少し、手伝えないかな」
久蔵が奥の台所へ目をやったので、私は早口になった。
「座ってすることなら。数を確かめるくらいはできるよ」
「前は、もう少し寝かせてくれとおっしゃったのに」
久蔵は笑った。私も口元を緩めたが、奥の寝床を見ないようにした。横になれば休める。けれど、目を閉じて待つ時間を、また始めたくなかった。
昨日、倉で俵を動かそうとして膝が折れた。藁が顎を擦り、襟元へ屑が入った。久蔵に支えられても、縄を離すことができなかった。寝込む前には持てた。久蔵の手を借りて床へ戻すまで、俵の重みを認めたくなかった。
久蔵は数え終えた銭を脇へ寄せ、私の前を空けた。
「昨日入った荷の控えです。帳面と合わせてください。母上には、私から言いますから」
「ありがとう」
「読めない字は、勝手に読みませんように。分からないところを指で押さえて待っていてください。そこだけ私が見ます。全部をやり直すより、その方が早いですから」
久蔵は、すぐ横へ自分の銭の皿を置いた。聞くたびに仕事を止めてしまうと思っていたので、その近さに少し肩の力が抜けた。
厚さの揃わない紙に、古い裏書きが透けていた。受け取った数と持ち主を帳面へ合わせる。ようやく手の置き場が決まったと思ったのに、崩した一字で早速止まった。
「これ、何と読むの」
「預かり、です。買った米の方と混ぜないでください」
「倉の印と同じ?」
「ええ。運び先が決まるまで置く荷もありますから。俵の数が合っていても、違う家の米を売ってしまえば大変です」
久蔵は帳面の行と、庭の向こうの倉を交互に指した。紙へ戻った彼の指先に墨がつき、舌打ちが漏れた。袖へ擦りつけかけ、私が見ているのに気づくと、そばの布を取った。
私は笑いそうになって帳面へ顔を伏せた。次の行の同じ字は、もう読めた。
久蔵が、琵琶湖の浜へ呼ばれたのは、その少し後だった。
「すぐ戻ります。お父上も、昼にはお帰りでしょう」
「こっちは、もう終わるよ」
久蔵は帳面をのぞき、うなずいた。私は彼が戸口を出るのを見送ってから、最後の一行を合わせ、印を入れた。
控えを帳面の上へ揃えた。母が通ったら見てもらおうと思い、すぐには紙を畳まずにいた。
筆を置こうとしたところへ、客が来た。
「親父さんは留守かね」
戸口をくぐった人影から、濡れた道の匂いがした。山手の寺々へ米を納めている、扇屋の主人だった。暗い赤茶の小袖の裾に、泥が跳ねている。私はこの人に、幼い頃から顔を知られている。持ち上げた片眉に白い毛が混じっていて、笑うと、その眉だけが余計に動いた。
「昼には戻ります。久蔵も、今は浜へ」
「そうか」
扇屋は空いた父の席を見て、それから、私の前の帳面を見た。
「起きられるようになったんだな」
「おかげさまで」
「それならよかった。親父さんが、気を揉んでいたぞ」
私は知らずに背を伸ばした。扇屋は、父と先日話した米について用件を告げた。値と米の質は既に相談してあり、寺へ届ける量も決まったので、六十俵を買いたいという。
「明日の朝、引き取りに来たい。親父さんは、米が入り次第、六十くらいは出せると言っていたが、揃いそうかね」
帳面を開き直した。うちで買った米が百俵。そのうち八十俵は、明日、十日に京へ出す。北から届く六十俵の控えにも、十日とある。
百から八十を引いて六十を足す。扇屋へ六十渡しても、二十残る。父が話していた値も、すぐ下の行にあった。
久蔵を待ってもらうなら、ここだった。顔を上げると、扇屋は戸口の外を見ていた。次の用があるのだろう。自分で読める帳面を抱えたまま、誰かが帰るまで待ってくださいと言うのが、ひどく情けなく思えた。
「明朝、六十俵ですね」
扇屋がこちらを向いた。
「ご用意できます」
「助かる。宗助に聞けば済むようになったか」
扇屋の白い眉が上がった。私もつられて笑った。
手付けに渡されたのは、紐に通した百文分の銭だった。文は銭の額を数える単位で、千文で一貫文になる。久蔵がいつもするように、小皿へ寄せて数を確かめ、控えへ額を記した。
扇屋が帰ってからも、筆を置く場所や小皿の向きを直していた。父が座るときと同じようにして、誰かがそれに気づくのを待った。
久蔵が戻ってきて、増えた銭を見た。
「扇屋殿がいらしたんですか」
「明日の朝、六十俵。父と話した値で」
新しく書いた行を示した。久蔵は立ったまま、そこを読んでいた。浜で濡れた草履の緒が黒い。
「六十俵、渡せると?」
「うん。ここに百あって、明日も六十入るから」
久蔵はようやく座った。私の前から帳面を引き、北の米の控えを開く。
「京の八十俵は、夜明けに出ます。船がそれまでに着くと、誰かに聞いたんですか」
「十日って、書いてある」
「十日頃には着くだろう、という知らせです」
「……頃?」
紙の上には、十日としかなかった。もっと詳しく書いてあれば、という言葉が出かけた。
久蔵は別の書付を広げた。畳み目の内側に細かな文字が続いている。
「この知らせを控えたものです。京の方は相手と刻限まで決めてありますが、船はまだ湖の上でしょう。着いてからも、米を見て、数を合わせてからでなければ渡せません」
並べられた二枚を見た。久蔵が先に帰っていたら、何と言ってもらえただろう。そんなことを考えている自分が嫌になった。
朝の百俵から八十を渡したら、残りは二十。自分で書いた「六十」の字を、爪で擦った。
船が遅れることくらい、私は昔から知っていた。父が何度も浜へ人を走らせた日も、父を乗せた舟が戻らず、母が夜まで戸口を離れなかった日もある。
「来るかもしれないよね。明日の朝に」
久蔵は百文の小皿を、ほかの銭から離した。
「来ればよいのですが。扇屋殿には、来なくても渡すと約束したことになります」
「そんなつもりじゃ」
「向こうには、船を待っているとは話していないでしょう」
俯くと、膝へ置いた手が目に入った。さっきまで筆を持っているのが嬉しかった。その手を、今は袖の中へ隠したかった。
「父は、まだ戻らない?」
「そろそろでしょう」
外で荷車が軋んだ。人の足音が近づくたびに顔を上げてしまう。父が帰るまでに何とかしたかった。浜へ行けば、別の船が来ているかもしれない。
腰を浮かせると、久蔵が帳面の端へ手を置いた。
「浜には、着いたら知らせるよう頼んであります」
「私も浜へ行って、ほかに回してもらえる米がないか聞いてきたら」
「宗助様」
久蔵は一度だけ呼び、戸口を見た。
軒先で泥を落とす音がした。父の草履だった。私は座り直し、閉じかけた帳面を机の真ん中へ戻した。
「父さん。扇屋の米のことで、話がある」




