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第二十一話 去った人の家

第1話〜第20話にかけて、家族とのやり取りや勘定の描写、幕間などを大幅に加筆・改稿しました。

物語の大筋は変わりませんが、お時間のある時に読み返していただけますと幸いです。

「京へ、ですか」


 聞き返すと、舟の男は首を振った。


「北だと聞いた。若狭へ出られるとか。俺が見たわけじゃない」


 父が上がり口を空け、男へ座るよう言った。私は又八の文を読み終え、机へ置いた。端が反っていたので、硯の蓋で押さえる。


 次の米は止めること。主人に従って出るため、当分、又八は店へ来られないこと。先の五俵については、残る奥方へ話をしてほしいこと。


 払い済みという言葉は、どこにもなかった。


 父は、男がその文をどこで受け取ったか尋ねた。


「あの家だ。荷を浜へ出す手が足りんと言われて、運び手を連れていった。その帰りに、坂本へ寄るならと渡された」


「又八は、まだいたか」


「いた。出る支度をしていた。奥方も、うちの用を済ませてからでよいから、これを渡してくれと」


 私は明朝の荷の控えを引き寄せた。矢島の名はない。庭の向こうでは、久蔵が米倉の戸を閉めていた。


 男は湯を飲み、船を待たせているからと立った。父が文を届けてくれた礼を言い、私も表の戸口まで送った。何かもう一つ聞かなければならない気がしたが、光秀の居所をこの男が知っているとは思えなかった。


 戸を寄せて戻ると、父は又八の文を読み直していた。


「待っている銭は、あの五俵だけだな」


「千四百文。明後日が約束の日」


「明日、誰か向こうから来るかもしれん。まず、舟の様子を聞こう」


 私は頷いた。


 聞き慣れた若狭という国の名が、その夜はひどく遠かった。


 琵琶湖の北西にある国で、今津からさらに山を越える。そこまでは、この土地で暮らした私が知っている。春に光秀が話していた、兵を通せるかという問題が片づかなかったのだろうか。どこの約束が崩れ、なぜ近江を離れることになったのか、舟の男の話だけでは分からなかった。


 信長に伴われて京へ入る。知っていたはずの歴史では、その手前が丸ごと抜けていた。


 夕飯のあと、母屋の奥へ行った。


 光秀から預かった二冊は、棚にあった。浅葱の布の上に、私の書いた小さな紙が載っている。勝手に開かなくても、中身と持ち主は分かる。


 手を伸ばしかけて、やめた。


 文が来なくても、居所を尋ねて歩くなと言われている。あのときは、京へ入ってから落ち着く先が決まるまでの話だと思っていた。北へ向かうことまで考えていたのか、光秀に会わなければ聞けなかった。


 棚の手前に、母が使う針の包みがあった。私が立っていると邪魔になるらしく、母が肩越しに手を伸ばした。


「その本が、心配なのかい」


「預けた人が、どこにいるか分からなくて」


 母は包みを手に取り、棚の前を空けるよう、私の肘へ軽く触れた。


「明日、使える紙は揃ってる?」


「まだ」


「じゃあ、そっちを。明智様の物は、私も見ておくから」


 母は棚へ掛けた覆いを直し、灯のある方へ戻った。


 私は自分の荷を取り出した。向こうへ行くと決まったわけではない。それでも、草鞋の緒を確かめ、紙を濡らさず運ぶ布を畳み直すうちに、手の冷たさが薄れていった。


     *


 翌日、いと殿からは誰も来なかった。


 父は浜で、東から来た者を二人つかまえた。一人は同じ浜からの帰りで、矢島の家の門まで荷を運んでいる。道は通れたが、御所の周りには寄らなかったという。もう一人は浜までしか知らず、家々のことは言えなかった。


「道が通れたというのは、家の門まで行った者の話だ。浜までしか来ていない者に、家の中のことまでは聞けん」


 父は、二人から聞いたことを混ぜずに話した。


 いと殿の家までなら、翌朝、向こうへ出る舟に乗せてもらえる。私は米代の文を揃えた。父は、庄吉にも来てもらうつもりだと言った。


「米を出す用じゃないけど」


「現物で返す話になるかもしれん。お前一人で俵を見て、運び手まで探せるか」


「庄吉に来てもらいたい。向こうの浜には、私より通っているから」


 父は、又八の文を指で押さえた。


「米を送ったあとで、向こうの都合が変わった。だからといって、売ったことまで消えるわけではない。ただ、使いの者も銭も、いつものようには出せんのだろう。払えるものと、待つものを、分けて聞いてこい」


「待つなら、いつまで」


「今回、半分以上を受け取れるなら、残りは九月の末まで待ってよい。その間に次の掛けは増やさない。秋の仕入れは、その残りがなくてもできるようにする」


 今年は八月のあとに閏の八月があった。九月の末といえば、短い待ち方ではない。


「米で戻すなら、今の値で見てこい。そのまま全部、売った値で引き取るとは言ってくるな。運ぶ銭まで含めたら、うちで受け切れんこともある」


 私は紙へ短く書き留めた。


「それで話がつかなかったら」


「持って帰れ。向こうに残って、返事が出るまで待たなくてよい」


 父が自分の銭を入れる箱から、道中の分を出した。受け取りにいく費用は店が持つ。私は包みへ入れ、父の前で口を結んだ。


 庄吉は夕方に来た。


 父から仕事と手間賃を聞いて引き受けたあと、私へ、向こうで一晩かと尋ねた。


「そのつもり。話が済まなくても、翌日の舟で戻る」


「分かった」


 庄吉は庭の隅へ腰を下ろし、草鞋の裏へ付いた土を落とした。翌々日には、坂本で別の荷の約束があるという。私はその日を自分の紙にも書いた。


「十兵衛殿のことも、聞くのか」


 庄吉が顔を上げずに尋ねた。


「聞ける人がいれば」


「捜しに行く?」


 すぐに、行かないと答えられなかった。


 庄吉は土を払い終えた草鞋を、片手に重ねた。返事を急がせず、私を見ていた。


「行かない。米の話をして、帰る」


「ああ」


 そこで庄吉は立った。


     *


 東の岸へ着いたとき、湖は白く曇っていた。


 空と水の境に、細い灰色の筋がある。波は低かったが、舟から下りると足の裏がしばらく揺れた。庄吉は早々に陸へ上がり、荷を受ける者へ声を掛けていた。私は何も運んでいないのに、少し遅れた。


 浜には米より薪の束が多かった。割った木の切り口が淡く、湿った樹皮の匂いがする。浜の家の軒には、旅の者が干したらしい小袖が二枚、長さを違えて下がっていた。


 庄吉がその家の者と話した。


 春から何度か通う間に、顔を覚えてもらったらしい。前に米を運んだとき、帰りの舟を待つ場所を借りたのだという。私は横に立って、明日の舟と、荷を持って戻る場合のことを一緒に聞いた。


 家の主は、日に焼けた首に白い布を巻いていた。庄吉の顔を見ると笑ったが、矢島へ行くと聞いて、笑みを引っ込めた。


「通れはする。昨日も二人、戻ってきた。ただ、誰の用か尋ねられたら、あの家の名を言うんだぞ。御所へ行くなどと言わんように」


「米代を受け取りにいくんです」


 庄吉が答えた。家の主は、私の抱えた包みを見て頷いた。


 浜から東へ歩くと、田の稲が色づき始めていた。


 春にぬかるんでいた道の端は乾き、草鞋の下で土が細かく崩れた。風が稲の穂を同じ方へ倒す。田にいる者は、私たちが通っても長くは顔を上げなかった。


 人が消えた土地ではなかった。鍬を洗う者がいて、刈った草を背負う女がいて、子供が溝へ枝を突っ込んでいた。


 家並みに入ると、違いが分かった。


 馬のつながれていた庭が空いている。門前の地面には、蹄で掘れた窪みがまだ残っていた。御所へ続く道は奥まで見えたが、庄吉はそちらへ顔を向けず、前と同じ角を曲がった。


 弥三郎殿の家の門は、閉まっていた。


 私は声を掛け、もう一度名乗った。しばらくして、門の向こうから足音がした。戸がわずかに開き、いと殿の顔が見えた。


「坂本から」


「宗助です。庄吉も」


 いと殿は二人の顔を見て、戸を大きく開けた。


 庭の細い流れは、春と同じ音を立てていた。縁にあった旅の箱はなく、空いたところに、外した戸板が一枚立て掛けてある。母屋の中を通る風が強すぎるので、直しているのだという。


「今日、支払いの使いが来られなければ、こちらから伺おうと話しておりました」


「来ていただいて、助かりました。今は、こちらから出せる者が少なくて」


 いと殿の小袖は、袖の端だけを帯に挟んであった。片側はほどけ、手首に垂れている。私たちを中へ入れると、それを直しながら炊事場へ案内した。


 大きな釜には木の蓋が載り、火は入っていなかった。脇の小さな釜からだけ、湯気が上がっている。青菜を刻んでいた女は、そこで鍋を見ていた。私たちへ会釈し、椀を二つ取り出す。


 母屋の端から、小さな男の子が覗いた。


 いと殿が振り返ると、すぐに引っ込んだ。この家の末の子だという。前に来たときは、表へ出てくる暇もなかったらしい。


 こちらを見る顔に、私は自分が誰を待たせたままなのかを思い出した。妻は子供たちに、何と話しただろう。そもそも、私のいない朝が、あちらにも来たのだろうか。問い始めると、どこまでも確かめようのない方へ行く。


 いと殿が戸口の男の子へ短く声を掛けた。子は奥へ戻り、こちらには椀を置く音がした。私は膝の包みを解いた。


「今は、どれほどの方が」


「家の者と、残っておいでの方が二人。あとはもう」


 いと殿は、いつもの板を柱から外した。


 折った紙の後ろ半分に、米を出した数が書いてある。字の間隔は、春に見たものより狭かった。ある日のあとから、数が急に小さくなっていた。


「主人は、義秋様のもとへ参りました。又八も一緒です。支度に使った銭と、向こうへ持たせたものは、ここへ書いてあります」


 別の紙も出てきた。


 私は手を膝へ置いたまま、いと殿を見た。米の残りを尋ねるつもりだったのに、家の中の銭まで見せてもらうことになるとは思わなかった。


「全部、すぐにお返しできません」


 いと殿が言った。


「払わぬということではありません。ただ、今ここにあるものを全部出すと、家の者へ渡す銭がなくなります」


 女が椀を置いた。私の手前に一つ、庄吉の前に一つ。置き終えても、すぐには釜へ戻らなかった。


 いと殿は、女に向けても聞こえる声で続けた。


「残る者も、ここで暮らさなければなりませんから」


 私は包みを開き、父から預かった文を出した。


 この家の人々が京へ発ったあとの米を、春には心配していた。帰り支度のできた客が去って、人数が減る。そんな場面を思い浮かべていたのだと思う。


 いと殿は倉の方へ顔を向けた。


「先に送っていただいた五俵のうち、まだ開けていないものが二俵あります。それを、買い取っていただけませんか」


 庄吉が、私の隣で膝を動かした。


 私は父の文をいと殿へ渡してから、倉を見せてくださいと言った。

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