幕間 京へ行く支度
又八は、袴を包み直していた。
濃い藍の、膝に継ぎのない方だった。主人の弥三郎が京で人前に出るときのために、奥方が櫃の底から出しておいたものである。畳んだ上へ手を置くと、布の間から、干したときの日の匂いがかすかにした。
これを着る日が近いと思っていた。
八月に入る前には、草鞋も余分に買い、馬を借りる先へも話をつけてある。矢島の御所におられる義秋様が京へ入れば、弥三郎も供をする。春から泊まっていた客たちが、ようやく同じ方へ向けて出立するはずだった。
ところが、月が終わろうとする今、庭へ集められた荷は増えるばかりだった。途中で置けると思っていたものまで、持って出るという。借りるはずの馬も来ない。
又八は袴を膝へ載せ、敷いていた古布を引き抜いた。裾が擦り切れている。重い荷を包むには向かないが、着替えなら持つだろう。
「又八。座敷へ来い」
主人の声がした。
弥三郎は御所から戻ったばかりで、足を拭いた布も脇へ置いたままだった。又八が座る場所を空けようとすると、そのままでよいと言った。
「北へ行く。お前も支度をしろ」
「北、でございますか」
「義秋様は若狭へお移りになる。わしらも追って参る」
又八は、膝に抱えた袴へ目を落とした。
「京へは」
「今は入れぬ」
庭で、箱を置く音がした。蓋が合わないのか、誰かが二度、三度と押している。弥三郎はそちらへ怒鳴りかけ、やめた。
「織田殿の兵を待つ話だったでしょう」
又八が尋ねると、主人はようやく腰の刀を外した。
「その織田殿が、来られぬ」
「お断りに」
「道がつかぬのだ。尾張から兵を出せば、まず美濃を通る。美濃には斎藤がおる。その先、こちらの近江では六角。両方と話をつけて、京へ入るはずだった」
弥三郎は刀を背後へ置き、低い机の上から書付を取った。又八に読ませるのではなく、何かを確かめるように目を通す。
「その約束が当てにならなくなった。斎藤と戦い、六角とも戦って来いと言うて、すぐに来られるものではない」
又八も、御所へ出入りする人の話は聞いていた。尾張へ出した使いが戻った。来月には動く。山城の者からも助力の申し出がある。そのたび、いとから泊まり客の数を聞かれた。
返事が届くほど、京が近づくと思っていた。
「では、ここでお待ちになれば」
言いかけて、又八は主人の顔を見た。
六角の名は、遠い国の話ではなかった。矢島は、その六角の力が及ぶ近江にある。
「ここも、前と同じには頼めぬのですね」
「そうだ。湖の西へは三好方も兵を出しておる。京は、なおさらだ」
弥三郎は、机に残った紙を重ねた。
去年、将軍義輝様が殺され、弟の義秋様が寺を逃れて近江へ入られたころから、家には使いの者が泊まるようになった。飯と寝床を用意して待ってきたが、京で迎える兵は揃わなかった。弟君まで、兄君を討った三好方の前へ出せるはずがない。
「若狭の武田殿には、前から助けを求めておられる。御縁もある。まず、そちらを頼られる」
「そこから京へお戻りになるので」
「戻るための兵と、味方を集め直すのだ」
弥三郎は答え、又八の抱えているものを見た。
「それは置いていけ。着るのは、いつもの方でよい」
又八は袴を脇へ置いた。
京へ入る先触れに使うはずだった文が、机の端に残っていた。主人はその上へ手を置き、しばらく動かさなかった。
*
炊事場では、いとが持ち出す米を量っていた。
袖を帯へ挟み、枡へ山になった米を板で払う。横の女が袋の口を開けて待ち、又八が来ると、縄を取ってくれと言った。釜の火は落ちていたが、湯気と人の熱で、額から汗が下りてきた。
「若狭へ行かれるそうです」
「伺いました」
いとは枡を置いた。
「何人で」
「殿と私と、荷を持つ者を。あと、昨夜からの客がお二人」
「その方々の米も、ここからですか」
「途中まで、こちらで」
いとは開いた俵を見た。春から何度も見てきた顔だった。泊まる者が増えたと告げたときにも、買い物の代が予定より高かったときにも、すぐには返事をしない。
又八は縄の端を揃えながら待った。
「いま量った分を持っていってください。次にどこで頂くかは、出る前にお尋ねしておいて」
「はい」
「一俵を丸ごと担いで山を越す者は、ここにはいませんよ」
又八は頷いた。米を増やせば、持つ者を増やすことになる。その者の飯も要る。
いとは袋の口を押さえ、女へ結ぶよう頼んだ。
「十兵衛殿には、泊まる先のお話はできたのですか」
「殿が御所で聞いてこられたようです。あの方も、北へ通う者に当たっておられるとか」
明智十兵衛は、弥三郎の家へ来ても、長く腰を落ち着けることの少ない人だった。ある日は使いの帰りを待ち、ある日は客の行き先を尋ね、同じ道を行く者を見つければ、片方の出立を少し延ばすよう頼んだ。
その一つ一つが、義秋様を京へ戻すための用だった。又八には遠い話だった上洛が、十兵衛の口から聞くと、明朝まで誰をここへ泊めるかという話になった。
米屋を紹介してもらったのも、そういう折だった。
「坂本の、五俵の代は、出る前にどういたしましょう」
又八が言うと、いとは視線を上げた。
「まだ、渡していませんね」
「明後日に払う約束です」
いとは女へ米の袋を渡し、座敷の方へ歩いていった。又八も付いていく。
弥三郎は銭を分けていた。紐に通したものを数え、道中で使う分を別の袋へ入れている。
「米代を残していただけますか」
いとが言った。
主人の手が止まった。
「全部は置けん」
「掛けで買うときは、ほかからでもお払いになると」
「そう言った。あのときは、こんな支度ではなかった」
弥三郎は開いた袋を妻へ向けた。いとはその中を見たが、手を入れなかった。
又八には、袋から銭を取り戻すことも、そのまま主人へ渡すこともできなかった。買うと決めたのは主人で、店へ頼みにいったのは自分だった。清兵衛は文を読み、宗助と奥で話をしてから、五俵を出してくれた。
初めて米を買った日、宗助は渡した紙を一度書き直している。二俵しか買えなかったように見えると言うと、十俵を求めた用から順に並べ直した。又八が戻って何を言われるかを、あの若者は考えてくれたのだ。
今日は、自分が文を書く側だった。急な出立だったという一言で、米代まで宙へ浮かせることはできなかった。
「私が、坂本へ回ってから」
「それでは間に合わぬ。お前には途中の荷を任せる」
弥三郎が答えた。
いとは夫の前へ座った。
「あなたが、お供しなければなりませんか」
「わしを残せば、義秋様がここへ戻るまで待てと言うことになる」
「家と田は、ここにあります」
「分かっておる」
弥三郎は、銭を袋へ入れる手を止めた。
「父の代から、将軍家の御用を承ってきた。兄君がおられなくなって、今度こそ京で働けると思った。家を使ってもらっただけで終わりにはしたくない」
主人は、妻から目を逸らさずに言った。
「だが、義秋様が困られたときだけ帰っておいて、京へお戻りになったらまた呼んでくれとも言えぬ」
いとは、膝の上で指を組んだ。
又八も京へ行くつもりでいた。新しい用が増えれば、今よりも任せてもらえることがあるだろう。南へ向かう旅なら、不安だけを数えずに済んだ。その行き先が変わった今、自分だけが取り残されたような気がした。
「帰る使いを、出してください」
いとが言った。
「落ち着いたら、では困ります。何も決まらなくても、こちらへは知らせてください。又八も」
「はい」
「米屋へは、私から話します。次の米を止める文を、今、書いておいて。代は払い済みと思われぬように」
又八は、机の端の硯を手前へ寄せた。
「いと。秋の米が入れば」
弥三郎が言いかけた。
「その前にも、残る者は食べます」
いとは答え、開いた銭の袋をもう一度見た。
「御用で来る方を、今までのようにはお泊めできません。それは、あなたから伝えておいてください」
弥三郎は頷いた。
又八が筆を取ると、門の方から、運び手が来たと呼ぶ声がした。
*
文を渡した舟の男は、先に自分の荷を運んでから坂本へ寄ると言った。
「それでよい。桂本屋という、この家の米を買っている店だ。清兵衛殿か、息子の宗助へ」
又八は念を押した。
男が出ていくと、庭の荷を一つずつ確かめた。出る者の荷と、家に置くものが近すぎる。間に自分の草鞋を置き、そちらから持つなと告げた。
頭上を、早い雲が流れていた。
畑へ出る者が道を通った。井戸では女が水を汲んでいた。主人が去っても、この家の薪を買う者は要るし、田の米を受け取る者も要る。皆で御所の方へ付いていけば済む話ではなかった。
いとが包みを持って出てきた。
「これも」
又八が開きかけると、最初に畳んでいた藍の袴が見えた。
「殿は置いていけと」
「若狭でも、人前へ出るのでしょう。そこで作る方が高くつきます」
又八は受け取り、自分の着替えの脇へ収めた。もう一度縄を掛けると、今度は膝で押さえなくても結べた。
主人が庭へ下りてきた。
家の末の子が、母の袖をつかんでいる。弥三郎はその頭へ手を置き、妻へ何かを短く言った。又八の立つ場所からは聞こえなかった。
「行くぞ」
又八は荷を背負った。
門を出る前に、一度だけ座敷を見た。畳んだ紙の残る机に、もういとが座っていた。
御所の方から、何組かの人が出てきた。
馬の背へ振り分けた荷が、歩くたびに左右へ揺れている。その後ろでは、槍を抱えた若い男が片手で包みを持ち直していた。続く者の荷が大きく、二人並ぶと道を塞いだ。田から戻る女が畦へよけ、鎌を持った手を下ろして一行を見送った。
又八も道の端へ寄った。前の荷が通り過ぎるのを待つ間、背負ったものが肩へ食い込んだ。家の中では、これで足りるかと幾度も確かめた重さだった。
「弥三郎殿」
道向こうから呼ばれ、主人が顔を上げた。春には家へ泊まったことのある男だった。今日は旅の支度をしていない。弥三郎がそちらへ向かいかけると、間に馬が入った。
「先の話は、どうなさる」
男は馬の首越しに声を掛けた。
「向こうから、文を出す」
「どこへ差し上げれば」
馬が通り過ぎたあとも、二人は道の両側に立っていた。
「それも、知らせる」
弥三郎は答え、短く頭を下げた。又八は主人に合わせて歩き始めた。振り返ると、男はまだそこにいた。
道が広くなるところで、連れの一人が南へ顔を向けた。京へ出る話をしていたころ、皆で歩くはずだった方だった。弥三郎は立ち止まらず、先を行く者へ続いた。
又八の肩から縄がずれた。片手を後ろへ回し、結び目を押し上げる。藍の袴を入れた包みが、背中へ収まった。家へ残してきた銭は、あの袋だけでよかったのだろうか。尋ねに戻ろうにも、弥三郎との間にはもう二人入っていた。
「又八。離れるな」
前から声がした。
小走りに追いつくと、主人は歩調を少し落とした。又八は息を整え、草鞋の下へ入った小石を足を振って落とした。
京へ行くために揃えた荷を、そのまま北へ運んでいった。




