↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/24

幕間 京へ行く支度

 又八は、袴を包み直していた。


 濃い藍の、膝に継ぎのない方だった。主人の弥三郎が京で人前に出るときのために、奥方が櫃の底から出しておいたものである。畳んだ上へ手を置くと、布の間から、干したときの日の匂いがかすかにした。


 これを着る日が近いと思っていた。


 八月に入る前には、草鞋も余分に買い、馬を借りる先へも話をつけてある。矢島の御所におられる義秋様が京へ入れば、弥三郎も供をする。春から泊まっていた客たちが、ようやく同じ方へ向けて出立するはずだった。


 ところが、月が終わろうとする今、庭へ集められた荷は増えるばかりだった。途中で置けると思っていたものまで、持って出るという。借りるはずの馬も来ない。


 又八は袴を膝へ載せ、敷いていた古布を引き抜いた。裾が擦り切れている。重い荷を包むには向かないが、着替えなら持つだろう。


「又八。座敷へ来い」


 主人の声がした。


 弥三郎は御所から戻ったばかりで、足を拭いた布も脇へ置いたままだった。又八が座る場所を空けようとすると、そのままでよいと言った。


「北へ行く。お前も支度をしろ」


「北、でございますか」


「義秋様は若狭へお移りになる。わしらも追って参る」


 又八は、膝に抱えた袴へ目を落とした。


「京へは」


「今は入れぬ」


 庭で、箱を置く音がした。蓋が合わないのか、誰かが二度、三度と押している。弥三郎はそちらへ怒鳴りかけ、やめた。


「織田殿の兵を待つ話だったでしょう」


 又八が尋ねると、主人はようやく腰の刀を外した。


「その織田殿が、来られぬ」


「お断りに」


「道がつかぬのだ。尾張から兵を出せば、まず美濃を通る。美濃には斎藤がおる。その先、こちらの近江では六角。両方と話をつけて、京へ入るはずだった」


 弥三郎は刀を背後へ置き、低い机の上から書付を取った。又八に読ませるのではなく、何かを確かめるように目を通す。


「その約束が当てにならなくなった。斎藤と戦い、六角とも戦って来いと言うて、すぐに来られるものではない」


 又八も、御所へ出入りする人の話は聞いていた。尾張へ出した使いが戻った。来月には動く。山城の者からも助力の申し出がある。そのたび、いとから泊まり客の数を聞かれた。


 返事が届くほど、京が近づくと思っていた。


「では、ここでお待ちになれば」


 言いかけて、又八は主人の顔を見た。


 六角の名は、遠い国の話ではなかった。矢島は、その六角の力が及ぶ近江にある。


「ここも、前と同じには頼めぬのですね」


「そうだ。湖の西へは三好方も兵を出しておる。京は、なおさらだ」


 弥三郎は、机に残った紙を重ねた。


 去年、将軍義輝様が殺され、弟の義秋様が寺を逃れて近江へ入られたころから、家には使いの者が泊まるようになった。飯と寝床を用意して待ってきたが、京で迎える兵は揃わなかった。弟君まで、兄君を討った三好方の前へ出せるはずがない。


「若狭の武田殿には、前から助けを求めておられる。御縁もある。まず、そちらを頼られる」


「そこから京へお戻りになるので」


「戻るための兵と、味方を集め直すのだ」


 弥三郎は答え、又八の抱えているものを見た。


「それは置いていけ。着るのは、いつもの方でよい」


 又八は袴を脇へ置いた。


 京へ入る先触れに使うはずだった文が、机の端に残っていた。主人はその上へ手を置き、しばらく動かさなかった。


     *


 炊事場では、いとが持ち出す米を量っていた。


 袖を帯へ挟み、枡へ山になった米を板で払う。横の女が袋の口を開けて待ち、又八が来ると、縄を取ってくれと言った。釜の火は落ちていたが、湯気と人の熱で、額から汗が下りてきた。


「若狭へ行かれるそうです」


「伺いました」


 いとは枡を置いた。


「何人で」


「殿と私と、荷を持つ者を。あと、昨夜からの客がお二人」


「その方々の米も、ここからですか」


「途中まで、こちらで」


 いとは開いた俵を見た。春から何度も見てきた顔だった。泊まる者が増えたと告げたときにも、買い物の代が予定より高かったときにも、すぐには返事をしない。


 又八は縄の端を揃えながら待った。


「いま量った分を持っていってください。次にどこで頂くかは、出る前にお尋ねしておいて」


「はい」


「一俵を丸ごと担いで山を越す者は、ここにはいませんよ」


 又八は頷いた。米を増やせば、持つ者を増やすことになる。その者の飯も要る。


 いとは袋の口を押さえ、女へ結ぶよう頼んだ。


「十兵衛殿には、泊まる先のお話はできたのですか」


「殿が御所で聞いてこられたようです。あの方も、北へ通う者に当たっておられるとか」


 明智十兵衛は、弥三郎の家へ来ても、長く腰を落ち着けることの少ない人だった。ある日は使いの帰りを待ち、ある日は客の行き先を尋ね、同じ道を行く者を見つければ、片方の出立を少し延ばすよう頼んだ。


 その一つ一つが、義秋様を京へ戻すための用だった。又八には遠い話だった上洛が、十兵衛の口から聞くと、明朝まで誰をここへ泊めるかという話になった。


 米屋を紹介してもらったのも、そういう折だった。


「坂本の、五俵の代は、出る前にどういたしましょう」


 又八が言うと、いとは視線を上げた。


「まだ、渡していませんね」


「明後日に払う約束です」


 いとは女へ米の袋を渡し、座敷の方へ歩いていった。又八も付いていく。


 弥三郎は銭を分けていた。紐に通したものを数え、道中で使う分を別の袋へ入れている。


「米代を残していただけますか」


 いとが言った。


 主人の手が止まった。


「全部は置けん」


「掛けで買うときは、ほかからでもお払いになると」


「そう言った。あのときは、こんな支度ではなかった」


 弥三郎は開いた袋を妻へ向けた。いとはその中を見たが、手を入れなかった。


 又八には、袋から銭を取り戻すことも、そのまま主人へ渡すこともできなかった。買うと決めたのは主人で、店へ頼みにいったのは自分だった。清兵衛は文を読み、宗助と奥で話をしてから、五俵を出してくれた。


 初めて米を買った日、宗助は渡した紙を一度書き直している。二俵しか買えなかったように見えると言うと、十俵を求めた用から順に並べ直した。又八が戻って何を言われるかを、あの若者は考えてくれたのだ。


 今日は、自分が文を書く側だった。急な出立だったという一言で、米代まで宙へ浮かせることはできなかった。


「私が、坂本へ回ってから」


「それでは間に合わぬ。お前には途中の荷を任せる」


 弥三郎が答えた。


 いとは夫の前へ座った。


「あなたが、お供しなければなりませんか」


「わしを残せば、義秋様がここへ戻るまで待てと言うことになる」


「家と田は、ここにあります」


「分かっておる」


 弥三郎は、銭を袋へ入れる手を止めた。


「父の代から、将軍家の御用を承ってきた。兄君がおられなくなって、今度こそ京で働けると思った。家を使ってもらっただけで終わりにはしたくない」


 主人は、妻から目を逸らさずに言った。


「だが、義秋様が困られたときだけ帰っておいて、京へお戻りになったらまた呼んでくれとも言えぬ」


 いとは、膝の上で指を組んだ。


 又八も京へ行くつもりでいた。新しい用が増えれば、今よりも任せてもらえることがあるだろう。南へ向かう旅なら、不安だけを数えずに済んだ。その行き先が変わった今、自分だけが取り残されたような気がした。


「帰る使いを、出してください」


 いとが言った。


「落ち着いたら、では困ります。何も決まらなくても、こちらへは知らせてください。又八も」


「はい」


「米屋へは、私から話します。次の米を止める文を、今、書いておいて。代は払い済みと思われぬように」


 又八は、机の端の硯を手前へ寄せた。


「いと。秋の米が入れば」


 弥三郎が言いかけた。


「その前にも、残る者は食べます」


 いとは答え、開いた銭の袋をもう一度見た。


「御用で来る方を、今までのようにはお泊めできません。それは、あなたから伝えておいてください」


 弥三郎は頷いた。


 又八が筆を取ると、門の方から、運び手が来たと呼ぶ声がした。


     *


 文を渡した舟の男は、先に自分の荷を運んでから坂本へ寄ると言った。


「それでよい。桂本屋という、この家の米を買っている店だ。清兵衛殿か、息子の宗助へ」


 又八は念を押した。


 男が出ていくと、庭の荷を一つずつ確かめた。出る者の荷と、家に置くものが近すぎる。間に自分の草鞋を置き、そちらから持つなと告げた。


 頭上を、早い雲が流れていた。


 畑へ出る者が道を通った。井戸では女が水を汲んでいた。主人が去っても、この家の薪を買う者は要るし、田の米を受け取る者も要る。皆で御所の方へ付いていけば済む話ではなかった。


 いとが包みを持って出てきた。


「これも」


 又八が開きかけると、最初に畳んでいた藍の袴が見えた。


「殿は置いていけと」


「若狭でも、人前へ出るのでしょう。そこで作る方が高くつきます」


 又八は受け取り、自分の着替えの脇へ収めた。もう一度縄を掛けると、今度は膝で押さえなくても結べた。


 主人が庭へ下りてきた。


 家の末の子が、母の袖をつかんでいる。弥三郎はその頭へ手を置き、妻へ何かを短く言った。又八の立つ場所からは聞こえなかった。


「行くぞ」


 又八は荷を背負った。


 門を出る前に、一度だけ座敷を見た。畳んだ紙の残る机に、もういとが座っていた。


 御所の方から、何組かの人が出てきた。


 馬の背へ振り分けた荷が、歩くたびに左右へ揺れている。その後ろでは、槍を抱えた若い男が片手で包みを持ち直していた。続く者の荷が大きく、二人並ぶと道を塞いだ。田から戻る女が畦へよけ、鎌を持った手を下ろして一行を見送った。


 又八も道の端へ寄った。前の荷が通り過ぎるのを待つ間、背負ったものが肩へ食い込んだ。家の中では、これで足りるかと幾度も確かめた重さだった。


「弥三郎殿」


 道向こうから呼ばれ、主人が顔を上げた。春には家へ泊まったことのある男だった。今日は旅の支度をしていない。弥三郎がそちらへ向かいかけると、間に馬が入った。


「先の話は、どうなさる」


 男は馬の首越しに声を掛けた。


「向こうから、文を出す」


「どこへ差し上げれば」


 馬が通り過ぎたあとも、二人は道の両側に立っていた。


「それも、知らせる」


 弥三郎は答え、短く頭を下げた。又八は主人に合わせて歩き始めた。振り返ると、男はまだそこにいた。


 道が広くなるところで、連れの一人が南へ顔を向けた。京へ出る話をしていたころ、皆で歩くはずだった方だった。弥三郎は立ち止まらず、先を行く者へ続いた。


 又八の肩から縄がずれた。片手を後ろへ回し、結び目を押し上げる。藍の袴を入れた包みが、背中へ収まった。家へ残してきた銭は、あの袋だけでよかったのだろうか。尋ねに戻ろうにも、弥三郎との間にはもう二人入っていた。


「又八。離れるな」


 前から声がした。


 小走りに追いつくと、主人は歩調を少し落とした。又八は息を整え、草鞋の下へ入った小石を足を振って落とした。


 京へ行くために揃えた荷を、そのまま北へ運んでいった。

挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。