第十六話 受け取りのあと
坂本へ戻る道で、雨が降った。
初めは、笠の縁を指で弾くような音だった。山を下り始めると、風に押された細い雨が、道に沿って斜めに走ってきた。久蔵が振り返り、私は襟を引き合わせた。
道の広いところで、書物を預けた男が荷を下ろす。衣の包みを内へ寄せて覆いを引くと、昨夜、縄へ結んだ端布が覗いた。その下に書物がある。
私は屈み、紙の包みまで雨が入っていないか見ようとした。ここで覆いを開けては、かえって濡らしてしまう。垂れた端だけを持ち上げ、男の手が空くのを待つ。
「そっちを押さえてくれ」
男に言われ、濡れた端を外へ向けたまま押さえる。空いた手で男が縄を回した。
「下りたら、中を見させてください」
「屋根のあるところでな」
男は覆いの端を折り込み、また背へ負った。私はその下を支えてから、手を離した。
雨は強くならなかった。道の土はしっとり黒くなり、踏んだところへ草鞋の跡が残った。私は男のすぐ後ろへつかず、包みが時々見えるくらいの距離で歩いた。
山を出ると、湖の方が明るかった。
低い雲の切れ目から水面が白く光り、その手前に、坂本の浜へ続く岸が見えた。あそこまで下りれば家へ帰れると思うと、膝の痛みが急にはっきりした。朝は平気だった足の指も、濡れた紐の下で擦れていた。
店へ着いたときには、日が西の山へ隠れかけていた。
男が荷を下ろす前に、土間脇の台木へ板を渡した。濡れた覆いはそこで外し、乾いたままの包みを、泥のついた敷物から離す。手を拭いてから、書物の包みを確かめた。油の染んだ紙の表に、小さな水の粒が幾つか残っていた。折り重ねたところを持ち上げても、内側の紙は乾いている。
私が息を吐くと、男は背負い紐を肩から外した。
「よかったな」
「ありがとうございます」
私も男も、光秀の文の包みを開けることはしなかった。品を守る外の包みだけ見て、書物が押し潰されていないことを確かめた。衣の方も、外側の布が少し湿っただけだった。
約束した六十文を渡すと、男は一度数えた。それから母の出した湯を飲み、今日はもう荷を担ぎたくないと言った。
「明日も、担ぐんでしょう」
母が言うと、男は椀を置いて笑った。
「明日になればな」
土間へ広がった濡れた藁の匂いを残し、男は帰っていった。
私は光秀の泊まる家へ、戻った知らせを持っていった。荷は店に置き、まずこちらの都合を聞く。主人が奥へ入って声を掛けてくれたが、光秀は出先からまだ戻っていなかった。
「明日の朝なら、おられると思う。荷は、そのときに」
主人はそう言い、光秀へ伝えておくと請け合った。
今夜のうちに受け取ってもらいたい気もした。包みを開いて、濡れていない書物を見てほしかった。明朝なら、出立にはまだ間がある。店へ戻ると、光秀の荷は奥の板間へ移されていた。湿った外の覆いは外したまま、衣の包みも書物から離してある。私は乾いた布で書物を覆い、母に、明朝持って出る荷だと伝えた。
表の帳場では、父と久蔵が京の勘定を合わせていた。
私はその隣へ座り、光秀の分を広げた。預かった百五十文のうち、包みに二十文、運び賃に六十文。手元には七十文が残っている。店で受け取る手間が五十文なので、二十文を光秀へ返す。
父は銭の数を見てから、書いた控えを読んだ。
「このほかに払った銭はないか。飯や泊まりの分は、どうした」
「ありません。飯と泊まりは、久蔵と同じ家でお世話になりました」
「それも、先方への礼に入る。京へ出る分は店の勘定で見るが、お前一人で出すときには、同じ五十文では引き受けられんぞ」
「うん。今回は、一緒に行けたから」
父は七十文を二つへ分けた。二十文の方を、光秀へ渡す紙の上へ載せる。残りの五十文には手を触れず、受け取りを済ませたら戻せ、と言った。
父は、箱を残したという覚えから棚の荷へ目を移した。
「向こうで、包み直してもらえたか」
「紙を運ぶときと同じようにしてもらいました。使い終えた板も、買い取っています」
明朝使う控えを荷の脇へ置くと、手をついた板まで冷たく感じた。
久蔵が手元の帳面を閉じた。今夜の仕事が終わったと分かり、私は足を崩した。膝の下の筋が痛み、伸ばしかけて止まる。
「歩けるか」
父に聞かれた。
「明日の朝には」
「今、飯を食いに行けるかと聞いている」
久蔵が立ち上がりながら笑った。私は柱へ手をつき、どうにか立った。
飯の席へ移ると、清吉が膝を引いて場所を空けた。お春は私が座り終えるのを待ちきれず、京にはどんな家があったかと聞いた。
大きな家もあったが、道から竈の火まで見える家もあった。樋口屋では、紙の束が箱に入りきらず、私が借りなかった箱へすぐ移していた。話しながらようやく足を伸ばすと、清吉が、自分も京へ行ってみたいと言った。
「兄さんは、今津にも高島にも行ったろう」
「まだ、清吉には――」
言いかけると、弟は父へ顔を向けた。
「父さんが行くときに。連れていってくれないか」
父は汁を飲み、椀を置いた。
「用も決まらんうちから、行く約束はできん。次に出る支度をするとき、わしに言え」
清吉は頷いた。断られたとは思っていない顔だった。こちらへ向き直ると、京へ行く道からも湖が見えるのか、と続きを尋ねた。
私は、木の間から見えた細い水面のことを話した。清吉は道の険しさより、峠の向こうに何が見えるかを知りたがった。
まだ早いと、私は誰の歳を思って言いかけたのだろう。弟はもう、私が留守の間に倉の荷を運ぶ。自分が初めて舟に乗る前の、落ち着かなさを思い出した。
「道の控えなら、あとで見せるよ。久蔵に描いてもらったものがある」
清吉は顔を上げた。椀を片づけると、忘れないでくれよと言って、自分から棚の紙を探しに行った。
翌朝、光秀は宿の庭先で待っていた。
私が包みを抱えて入ると、まだ冷え込む中なのに、すでに身支度を済ませていた。昨日会うはずだった相手が遅れ、話が夜まで掛かったのだという。目の下に少し影があり、庭を横切りながら、一度口元を覆った。
「よく戻った。雨に遭っただろう」
「山で少し。中は濡らさずに済みました」
泊まっている部屋へ通された。庭に面した板敷の奥に敷物があり、文机は戸からの明かりが届くところへ寄せてある。壁際には旅の荷が一つ。田中の部屋で見たときより、その包みが小さく感じられた。
私は乾いた布を敷き、その上へ持ってきた荷を置いた。
板を当てた包みを見て、光秀が首を傾ける。
「小さくなったな」
「箱は樋口屋へ残しました。数を合わせたうえで、こうして包んでもらいました」
光秀の前で縄を解き、布、油のある紙、内側の紙と順に外した。書物の表紙が現れる。光秀はその一冊へすぐ手を伸ばした。
開きかけたところで、私が控えを持っているのに気づいたらしい。手を止め、五冊を一緒に数えた。
文の包みは三つ。衣は二つ。折れていた角も見せると、光秀は、それは前からだ、と言った。
すべてを見終えたところで、私は二十文を差し出した。
「お預かりした分の残りです。包みと運び賃は、この通りです。手配の手間は、お約束の五十文を頂きました」
光秀は控えへ目を落とした。
「お前が背負って帰ったのではないか」
「樋口屋から泊まる家までは運びました。坂本までは、荷を担ぐ方に頼んでいます」
「そうか」
光秀は銭を受け取り、衣の包みの脇へ置いた。
光秀は二枚の板を重ねた。代を払って引き取った板なので、それもお納めくださいと伝えると、手に持って厚さを見てから、書物の下へ敷いた。
「こちらの方がよい。これなら、この先も持って動ける」
そう言って、自分の旅の包みを引き寄せた。並べた書物をどう入れるか、端を合わせてみる。私は控えを膝へ置いたまま、その手を見ていた。
田中で光秀に会ったとき、私は二俵の米を待たせていた。今は、頼まれた物が全部、ここにある。受け取った人が、もう次に使う支度を始めている。
口元が緩みかけ、私は目を控えへ戻した。
「樋口屋の御主人から、文を預かっております」
渡すと、光秀はすぐに折り目を開いた。書いた人の筆がどこで止まったか分かるのか、途中で一度、指を紙へ置いた。
「体の具合は、どうだった」
「咳をしておいででした。文を書く間にも、何度か」
「店へは出ておったのか」
「はい。品を確かめる間は、ずっと。奥方が水を出して、少し休むようにと」
光秀は小さく頷いた。文の最後まで読み、もう一度、初めへ目を戻した。
最後の行を過ぎても、光秀の手は文を開いたままだった。私は控えを膝へ戻した。こちらから声を掛ける気にはなれない。
「会えばよかったな」
光秀が言った。
「御主人も、お話ししたいことがあると仰っていました」
「そうか」
文を畳む手が止まった。私は、また会えます、と言いかけた。道も家も分かっているのだから、そう言いたかった。しかし、その家へ自分で行けないほど用のある人に、代わりに会ってきた私が言うことではない気がした。
光秀は三つあった文の束のうち、染めていない紐のものをほどいた。中から古い紙を一枚探す。私は見ないよう少し横を向き、開けた包みの紐を巻いた。
庭では、この家の者が薪を運んでいた。乾いた木が軒下へ積まれるたび、軽い音が続いた。光秀は古い文と今届いた文を重ねず、文机の左右へ置いた。
「すまぬ。受け取りの紙が先だった」
私へ向き直り、墨を摺ろうとした。硯の水が足りなかったので、私が庭先の人へ頼んだ。水が来るまでの間に、光秀は指で紙の端を揃えた。
「長くお付き合いのある方なのですか」
尋ねてから、少し踏み込んだかと思った。
「ああ。紙を買ったのが先か、書物を見せてもらったのが先か、もう覚えておらぬ」
光秀は書物の一冊を私へ向けた。端の反った表紙には、私にはすぐ読めない字が書いてあった。
「これは、あの家で見つけた。持っていけと言われて、値で揉めた」
「高かったのですか」
「買えぬと言ったら、読んでから返せと言われた」
私は書物を見た。
「では、まだ、お借りしている物ですか」
「いや。あとで代を払った。返す前に、あちこちへ書き入れてしまってな」
光秀が少しだけ頁を開いた。本文の脇に、細い字が詰まっていた。私には、一目では追えなかった。
「それは、返しにくいですね」
「返せば、また何を言われるか分からぬ」
光秀は本を閉じた。樋口屋の主人が、こちらにも話したいことがあった、と言ったときの顔を思い出した。差し出した水を脇へ置き、私の後ろを一度見た顔だった。
水が届いた。
光秀は受け取りを書き、私へ渡した。これで父にも、荷を届け終えたことを示せる。私は字が擦れぬよう、乾くまで待った。
「宗助」
呼ばれて顔を上げた。
「もう一つ、聞いておきたい。こちらを離れてからも、紙を頼めるか」
私はすぐに、はい、と言いかけた。今なら何でも引き受けたかった。父の声を思い出すより先に、北へ出した見本がどこで止まり、誰を通して届いたかが浮かんだ。
「お届けする先によります。今までの浜の家で受け取っていただけるなら、こちらから送る道があります。違う土地なら、まず相談させてください」
「そこは、こちらから知らせる。明智の名を付ければ、どこへでも届くというわけではないからな」
光秀は、さっき返した二十文を袋へ入れた。
「品を揃える前に、次の行き先と、受け取る者を文に書く。それでよいか」
「はい。まとまった数でしたら、値と、品を揃えられるかを先にお返事します」
「では、こちらも、急ぐときには待てる日を書こう。同じ品がなければ、買う前に知らせてくれ」
私は控えへ書き添えた。光秀も、自分の文机にあった覚えへ筆を入れた。
「では、お前へ頼む。父上にも伝えてくれ」
私は頭を下げた。
今度は値を決める前に、誰の仕事かを指してもらった。父の店で引き受けることには変わりがない。それでも文の表に書かれる名は、また私になる。
光秀の名を聞いて怯えたことを、この人は忘れたのだろうか。
畳んだ文を懐へ入れながら、一度だけ考えた。光秀は、私が立つ前に書物を旅の荷へ戻し始めていた。尋ねる機会はあった。私の方から、あのときの話をすることもできた。
私は口を開いた。
「また、文をお待ちしております」
光秀は手を止め、顔を上げた。
「うむ」
店へ戻ると、父は土間で俵を見ていた。受け取りを渡すと、手を拭いてから開いた。五十文の袋も渡し、次の注文をもらえるかもしれないことを話した。
「品と届け先は、その都度確かめると言いました。手間も、今回と同じとは約束していません」
父は私を見た。
「そこまで聞かれたか」
「私から、話しました」
「そうか」
それだけ言い、父は受け取りを私へ返した。
「次も、お前が取り次げ。値を出す前に、わしにも見せろ」
見本の控えとこれまでの注文を、今回の受け取りと重ねた。新しい紙を二つに折って挟み、表へ、明智十兵衛殿、と書く。米の受け取りや売掛けの控えが並ぶ棚に、その一綴りを置いた。
奥から母が呼んだ。濡らして帰った衣が乾いたので、取り込んでくれという。
私は筆を洗いに立ち、棚の前を通った庄吉へ声を掛けた。
「今度、明智殿から文が来たら、私に知らせてくれ」
「来たら、誰かが知らせるだろう」
「その、早く」
庄吉は私の顔を見て、ようやく笑った。
「そのために、お前を捜して歩けって?」
「店にいるときでいい」
「いたら、俺より先に見つけるだろ」
光秀が坂本を発ったあと、二十日ほどして、文が届いた。
父宛ての荷の知らせに添えられ、表には宗助とある。光秀は、当座、前と同じ浜の家を通して受け取れると書いていた。買い求めるのは、先に納めた大きい紙を二十枚。あの紙で具合がよかったと、一行あった。
私は店の仕事を済ませてから、坂を上がった。風に落とされた葉が道の端へ集まり、夏には見えなかった家の屋根が、枝の向こうに覗いていた。
紙屋の戸口では、いつもの主人が束を包んでいた。私を見ると、今度は何を確かめに来た、と言った。
「今日は、買いに来ました」
主人が手を止めた。
「薬を包む、あの大きい紙を二十枚。切らずにお願いします。値は、前と同じですか」
「同じだ。六十文」
私は持ってきた銭を出した。主人は奥から紙を取り、十枚ずつ二度数えた。
「使えたんだな」
「はい」
返事が思ったより大きくなった。主人は顔を上げ、私へ紙の端を見せた。
「もう一度、そっちでも頼む。二十枚だ」
私は乾いた手で、一枚ずつ紙を送った。数え終えて端を揃えると、主人が包む布を広げてくれた。
「また、あの方へか」
「ええ。次も、同じ紙をと」
主人は頷き、布の角を折った。私はその手元を見ながら、受け取るために両手を空けた。




