第十五話 京の預かり物
前を行く馬が、ぬかるみの手前で足を止めた。
馬方が蹄の下を確かめ、道の端へ綱を引く。私も足を止めた。背に負った包みを木の枝から外し、馬の通った跡へ踏み込む。乾いて見えた落葉の下から、水が滲み出した。
坂本を出て、湖に沿って南へ歩いたあと、私たちは山へ入っていた。比叡の山並みの南を越え、白川から京へ出る道だった。米を運ぶ者たちは山中越と呼んでいる。舟から下ろした荷がこの道へ入っていくのは、何度も見送っていた。
登りでは、細い水が道を横切っていた。馬の蹄が踏むところだけ土が深くえぐれ、落葉の下に黒い泥が覗いている。私は石のある方へ足を置いたが、その石も濡れていた。踏ん張るたび、草鞋の紐が足の甲へ食い込んだ。
馬との間を空けて歩いた。荷縄の結び目が、歩みに合わせて上下する。高島で荷鞍が割れた音を思い出し、左右の俵が揺れすぎていないか、つい見てしまう。
坂が緩んだところで振り返ると、木々の隙間に琵琶湖の水面が見えた。朝には向こうの岸まで霞んでいたのが、今は細い光を返している。
光秀の文は油の染みた古い包み紙で覆い、さらに布へ入れてあった。汗のつく肌から離して、上衣の内側へ収めている。胸元が湿ってきたので、休むときには一度確かめようと思った。
峠を越える頃には、背が熱かった。
立ち止まると、今度は汗が冷える。緩めていた襟を引き合わせ、紐を結び直した。下りでは腿の前が突っ張った。足を出すだけで地面が近づいてきて、歩くのをやめる方が難しい。
山の下に人家が増えた。道脇に薪が積まれ、その間から子供が顔を出す。畑の畝には切り取った菜の根が残っていて、杖をついた老人が、馬を通すために端へ寄った。
白川へ下りてからも、京の家並みにはすぐ入らなかった。
田畑を挟んで、屋根の集まりが見える。高い塀が続くところもあれば、道から竈の火まで覗ける家もある。土の色は坂本より白っぽく、乾いた場所を馬が通ると、薄い埃が後ろへ残った。
鴨川を渡り、荷を届ける家へ近づいた頃、通りの先に木戸が見えた。昼なので戸は開いていたが、脇に座った男がこちらの馬を数えていた。久蔵が届け先を告げると、男は先へ通した。後ろから来た別の男には声を掛け、どこを訪ねるか聞いている。
後ろの男が足を止めさせられている。私は久蔵の袖に追いつき、声を落とした。
「いつも、ああして行き先を聞かれるのか」
「ここは、前にも聞かれました。顔を知られていなければ、なおさらでしょう」
久蔵はそれだけ答え、通りの角を曲がった。
将軍が殺されたと知らせが来た日、父の店では京向けの米を止めた。あのときは、京という場所全体へ、何か大きな蓋が下りたように感じていた。
目の前では、笊へ入れた菜を売る女が客を呼んでいた。向かいの軒には、赤茶と藍の布が垂れている。その間を、脇差を差した男も、薪を背負う女も通った。板を担いだ二人連れを避けると、菜売りの女に、買わないならそこも空けてくれ、と言われた。
久蔵の隣へ戻った。立ち止まる場所にも、誰かの商いがあった。
米を届けた家では、先に荷の受け取りを済ませた。
通りから奥へ細長く土間が延び、右手に板敷、左手に積んだ荷が並んでいた。坂本の店より人が多く、奥から来る者と外へ出る者が、俵の間で互いの肩を避けている。私は受け取りを確かめる久蔵の横で控えを出し、荷を下ろした数を一つずつ消した。
手が空いたのは、昼をだいぶ過ぎてからだった。
久蔵は紙の端へ、樋口屋までの曲がり角と、戻ってくるこの家の目印を描いてくれた。荷を運ぶ者も紹介できるという。この家へ出入りする担ぎ手が、明日、坂本へ戻るのだった。帰りの馬には、もう荷が決まっていた。
「荷の大きさを見てからなら、返事ができるそうです」
「夕飯までに、樋口屋の荷をここへ持ち帰ります。それから見てもらうので、間に合いますか」
「ええ。こちらで待っていてもらいます。樋口屋が留守でも、ここへは戻ってください」
久蔵は私の胸元の文へ目を向けた。
「預かり物のことを、よそで大声で尋ねて回らぬように。五月のあとですから、尋ねられる方も気にします」
私は頷き、道の控えを文と同じところへ収めた。泊まるのも、この家だった。夕飯までに帰ると伝え、門を出た。
樋口屋は、教わった通りの先にあった。
浅い軒の下へ、四角く切った紙の束が載せてある。戸口には煤けた板が立ち、その向こうの棚に、布で覆った包みが並んでいた。新しい木を削った匂いに、湿った紙の匂いが少し混じっている。
声を掛けると、奥から女房が出てきた。母より年上に見える。灰色の小袖を紺の帯で締め、片袖をたくし上げていた。私の草鞋、背の荷、顔と順に見て、どこから来たと尋ねた。
坂本の桂本屋、清兵衛の子だと名乗り、明智十兵衛からの文を差し出した。
「明智様は、今どちらに」
「坂本へおいでです。こちらへ預けてある物を、引き取ってくるよう頼まれました」
女房は文の表を見てから、奥へ声を掛けた。
出てきた主人は、口元を布で押さえていた。咳が続いているようで、文を受け取ってからもしばらく顔を背けていた。女房が水を置く。主人は一口飲み、私へ上がるよう言った。
「十兵衛殿は、自分では来ぬか」
「坂本で待つ方があるそうで」
主人は差し出された水を脇へ置き、私の後ろを一度見た。
「そうか。こちらにも、話したいことがあったが」
主人は目を細め、文を明かりへ向けた。私の名のところを指し、清兵衛というのは米を扱う者かと聞いた。取引のある京の家を挙げると、一軒は知っていた。
そのあとは、私を立たせて待たせなかった。
女房が奥へ呼んだ若い男と二人で、木箱を運んできた。黒ずんだ蓋の縁に手垢が染み、角だけ明るい木肌が出ている。縄を解いて開けると、中から紙の匂いが立った。
主人が光秀の書いた数を読み、女房が物を出した。
厚さの違う書物が五冊。大きさは揃っておらず、一冊は表紙の端が反っている。紐で綴じた背に触れないよう、私は両手で受け取った。紙に包まれた文は三束あり、赤茶、浅い青、染めていない紐で、それぞれ結んであった。
文の包みには手をつけず、外から傷みを確かめる。元から折れている角を女房に見てもらい、私の控えへ短く書いた。
「それは、持っておいでになったときからだよ」
「そうですか。こちらで新しくついた傷だとは、書きません」
そう答えると、女房がようやく、包みを押さえていた手を離した。
替えの衣も、大小の二つの包みに分かれていた。どちらも乾いている。数を合わせてから、私は荷を運ぶ入れ物を相談した。
「箱は、借りていくか」
主人が言った。
「坂本へ返す荷を出すなら、そのとき一緒に戻してくれればよい。貸す礼は十文。箱のために八十文、預かる。割らずに戻れば、八十文は返す」
私は頭の中で数えた。
八十文は戻る銭でも、今日ここへ置けば運び賃には使えない。懐の百五十文には、店で頂く手間の五十文も含まれている。残りで包みも運び手も賄い、そのうえ借りた箱を京へ返す道まで決めなければならなかった。
箱の蓋を持ち上げた。板は厚く、空でも重みがあった。蓋を外せば、中の物にはまだ余裕がある。
「書物と文を、別に包むことはできますか」
「できるよ」
答えたのは女房だった。
「板を当てて、よく括ればね。ただ、布だけでは雨を防げない」
「明日、山中越を戻ります。担ぐ者の覆いもあるでしょうが、雨が入るのは困ります。紙を売るときの包み方を、見せていただけませんか」
女房は外へ目をやった。空は明るかったが、山の上の雲は増えていた。
「山を越すなら、紙を重ねた方がいいね。角も傷まないように」
「板は、今あるものを分けていただけるでしょうか」
女房は主人を見た。
「使い終えた押さえ板なら、奥にあるよ」
「角を削ってからだ。ささくれたまま当てるな」
主人が言い、また咳をした。
女房に手を借りて、書物と文の束を、二枚の板の間へ収めることにした。板は紙の束を押さえるのに使っていたものだという。若い男が端を削っている間、女房は包みに使う紙を幾枚か出した。油が染ませてあり、端の方は飴色に透けている。
そのまま品へ触れさせないよう、先に乾いた紙で包む。油のある紙を外へ重ね、雨の流れる向きに折り重ねる。さらに布を掛け、縄が書物の角へ食い込まないよう、板の端へ折った布を当てた。
私は紐を持ち、女房が手を離すところを待った。結び終わると、箱の半分ほどの厚みになった。持ち上げれば、私でも運べる重さだった。
衣の包みは、女房が書物から離して置いた。
「これは別に持っておいで。外の布が濡れても、書物へ水を吸わせずに済むから」
私は衣を括った紐を確かめ、書物と分けて持てるよう揃えた。
板、包み紙、布と縄、それに包む手間を合わせて二十文。私は値を聞いてから払い、貸し箱の話は断った。
主人は気を悪くした様子もなく、箱の蓋を戻した。
「それなら、この箱はすぐ使える」
若い男へ、奥に積んだ紙を移せと言った。私が見ている間にも、空いたところへ新しい紙の束が入っていった。
出ていこうとすると、主人に呼び止められた。
「十兵衛殿へ、返事を持っていってもらえるか」
「そのつもりで参りました」
主人は頷き、紙を出した。書き始めてすぐ咳き込み、筆を持った手を止める。私は荷を板敷の空いたところへ下ろし、待つことにした。
女房が、浅い皿に漬物を少し持ってきた。
「歩いて来たんだろう。少し、口へ入れておきなさい」
断ろうとしたが、女房はもう小さな飯の塊も添えていた。礼を言って受け取り、主人が文を書き終えるのを待った。
食べていると、通りで物を落とす音がした。女房は立ちかけ、戸口を覗いてから戻ってきた。
「近頃は、音がすると見てしまう」
主人が筆を動かしたまま、ただ荷を落としただけだろう、と言った。
「分かってますよ」
女房は言い返し、それでも戸を少し細く閉めた。
誰も、五月のこととは言わなかった。
飯を飲み込み、私は戸の隙間へ目をやった。外では男が、散らばった細い薪を拾っていた。手伝う者が一人屈み、また二人になった。薪はすぐに道からなくなった。
主人の文を受け取り、包みを背負って表へ出た。
樋口屋から泊まる家までは、行きより短く感じた。曲がる場所を覚えていたせいもあるが、肩へ荷があると、立ち止まって家並みを見る気にもならなかった。通りの真ん中を避け、包みが壁に擦れぬよう歩いた。
久蔵は、戻った私を土間で待っていた。
「遅くなった?」
「飯には間に合いました。担ぐ者が、向こうで待っています」
私は荷を下ろした。
明日、坂本へ出る男は、すでに自分の荷を括っていた。茶色い小袖の背に、汗の乾いた白い跡がある。光秀の荷を見せると、まず書物の包みを両手で持ち、次に衣を片手で上げた。
「二つ合わせて、六十文」
私は口の中で、二十と六十を足した。
「どこまで届けてもらえますか」
「坂本の、お前の店まで。道で雨が強くなれば、止んでからだ」
「出発は、こちらの荷と一緒に」
「ああ」
百文のうち、八十文で済む。私は男の後ろに括ってある荷を見た。自分の背丈近くまである。
「書物を潰さずに載せられますか。板は当ててもらいましたが」
「板のある方を見せてくれ」
包みを返すと、男は端を手で確かめた。
「これなら、上に置ける。こっちの荷を少し下へ回そう」
男は荷を一度ほどき、書物の包みが押し潰されない位置へ置いた。衣は外側へ回し、縄を締め直す。包みを途中で開かぬことと、着いたら私も立ち会って受け取ることを頼んだ。
男が持ち上げる間、私は荷の下へ手を入れた。立ち上がったところで離すと、男は足を二度踏み替え、これでよい、と言った。
板敷へ戻り、払った二十文と明日渡す六十文を控えに残した。箱は樋口屋へ置いたと書き添え、久蔵へ見せる。久蔵はそれを読んでから担ぎ手へ声を掛け、出発の刻限を合わせてくれた。
「先方の用は、済んだんですね」
「返事の文も、ここにあります」
「では、店の米代を明朝受け取れば、一緒に坂本へ発てますね」
夕飯を済ませたあと、私は樋口屋でもらった文を、行きの文を入れてきた布へ収めた。折り目も封も、そのままだった。
土間では、担ぎ手が明日の荷を寄せていた。光秀の荷を置く場所を聞くと、この家の者が板敷の隅を空けてくれた。書物の包みは壁から少し離し、衣の包みとは分けて置く。男に頼み、どれが書物か、朝もう一度触らずとも分かるよう、縄へ細い端布を結んだ。
「俺の結び目は、ほどくなよ」
「ここへ足すだけです」
男が手を離すのを待ち、私は端布を結んだ。立つと、外から吹き込む風が、足首の辺りを通った。
店の者が二人で戸を閉めに来た。私は脇へ退き、板敷の包みが戸の動きに触れないことを確かめた。




