第十四話 客の席
光秀が来る日の朝、私は店の板敷を二度拭いた。
一度目は、いつもの仕事だった。二度目は、戸を開けたあとで朝の光が斜めに差し、板の継ぎ目に残った白い粉が見えてしまったからだ。濡らした布を指へ巻き、溝に沿って押す。米の粉が水を吸って灰色になった。
「そこは、さっきも拭いたでしょう」
後ろで母が言った。
「まだ粉が残っていたから」
「昼までに、また土間へ俵が通るよ。粉が舞うたび拭いていたら、お前の支度が終わらないでしょう」
母は奥から運んできた敷物を、柱の内側へ置いた。いつも客を通す場所だった。敷物の角を揃えてから、私の手元へ目を落とす。
「その布まで、真っ白になってる」
絞ると、白く濁った水が桶へ落ちた。もうやめにしようと立ち上がって、柱の足元の粉にまた目がいった。
光秀の文へ返事を出してから、八日目だった。昨日、北から着いた舟の者が、明日の昼頃には寄れるとの伝言を届けてくれた。注文の紙と布は、先に揃えてあった。こちらで待たせてよいか尋ね、坂本で受け取るという返事ももらっている。
紙を包んだ板を棚から下ろした。端を折らぬよう上と下へ薄い板を添え、布とは分けてある。店で買ったときに確かめた十枚を、もう一度数えかけて、やめた。昨夜も数えたばかりだった。
土間では、久蔵が父に明日の京向けの荷を話していた。
永禄八年の秋は終わりに近い。朝のうちに手を洗うと、指がなかなか温まらなくなった。山へ上がる道では、日陰に落ちた葉が濡れたまま重なっているという。米を積んだ馬を通す者は、晴れた日のうちに往復したがっていた。
「宗助。そっちの控えを」
父に呼ばれ、私は光秀の包みを脇へ置いた。
京へ渡す米と、代わりに受け取る銭の覚えを持っていく。父は受け取り先を一つずつ指し、久蔵は帰りに寄る家を確かめた。その横へ座っていると、戸口から入った風が、さっき拭いた板を乾かしていった。
光秀は、私が昼の飯を一口食べたところで来た。
表から客の声がしたので、椀を置いて立つ。口の中の飯を慌てて飲み込んだら、喉へつかえた。母に背を叩かれ、咳を押さえながら土間へ出た。
「飯時だったか」
戸口に立つ光秀は、笠を外していた。くすんだ緑の小袖の上へ、茶色い袖のある衣を重ねている。裾には、まだ乾いていない泥が跳ねていた。田中で会ったときより厚着をしているせいか、肩の辺りが丸く見えた。
「もう、済みます」
「済んでからでよい」
私は返事の途中でまた咳をした。光秀が少し身を引き、奥から出てきた父へ顔を向ける。
「明智十兵衛です。宗助殿には世話になりました」
父が名乗り、旅先で助けてもらった礼を言った。二人が話している間に、母から湯の入った椀を渡された。私は隅へ寄って飲んだ。客に出すより先に、自分が飲んでいる。
父が光秀を板敷へ上げた。光秀は草鞋を脱ぐ前に、土間の俵へ一度目をやった。幾つかは縄を掛け直す途中で、庄吉が片膝をついて口を締めていた。
「あのときの」
光秀の声に、庄吉が手を止めた。
「お供をいたしました」
「よく働くな」
「今日は、まだ昼ですから」
庄吉がそう答えたので、父が振り返った。光秀は笑い、草鞋を揃えた。私は庄吉の脇を通るときに、その肩を軽く押した。庄吉は何も言わず、また縄を引いた。
座ると、光秀は足を少し横へ逃がした。膝の上に手を置き、息をつく。母が湯を出すと、すぐには飲まず、椀を両手で包んだ。
「風が冷たくなりました」
父が言うと、光秀は椀を持つ指を少し動かした。
「浜から上がってくる間にも、指が冷えました。ここは温かい」
店には火を置いていなかった。それでも戸口から柱一本分、内へ入るだけで風が当たらなくなる。母は光秀の濡れた裾に気づき、そばへ乾いた布を置いてから奥へ戻った。
私は注文の品を運んだ。
紙を載せた板を手前へ、布をその脇へ置く。光秀は先に布を開き、端を揉んで手の甲へ押し当てた。
「洗ったものも、分けて送ってくれたな」
「母に手を貸してもらいました。買ったままと、洗ったあとでは、触った感じが変わるので」
「分かりやすかった。こちらで洗えばよいと、決められた」
奥にいた母へ聞こえたか、私は目だけを向けた。母は背を向けて椀を片づけていた。
紙は切らずに十枚。一枚ずつずらして見せると、光秀は端を少し折った。
「これで包んでみよう。具合が悪ければ、また聞いてくれるか」
「はい。紙を売る家にも、相談できます」
父が、品代と見本、取り寄せの手間を記した控えを私の前へ置いた。
紙十枚の代は三十文。布の代も、先に知らせた通りだった。北へ送る手間については、見本を届けた分だけを残し、今回の品を運ぶはずだった分を外してある。その行を指で示すと、光秀は懐から銭の袋を出した。
父と光秀の間へ銭が並んだ。薄くなったもの、縁に小さな欠けのあるものを、父の指が脇へ寄せる。光秀は顔色を変えず、袋の中から別の銭を出した。父が数え終え、私が控えへ受け取った印をつけた。
筆先を上げると、光秀が見ていた。
「これでよいか」
「はい。ありがとうございます」
私は受け取った印の墨が乾くのを待ち、控えを父へ返した。光秀へ渡す紙を包みに添えると、ようやく両手が空いた。
光秀は布を紙と分けて包み、膝の脇へ寄せた。それから、京へは今も米を出しているかと父に尋ねた。
「明朝も出します。久蔵がついて参ります」
父が答えると、土間にいた久蔵がこちらを向いた。
「京で、何か御入り用ですか」
「預けてある物を、引き取りたい。樋口屋という、紙を扱う家なのだが」
聞いたことのない屋号だった。父も首を傾けた。光秀が上京にある店だと説明し、近くの通りの名を挙げると、久蔵は知っている家の方角を指した。
「その辺りなら、今回寄る先から、そう遠くはありません」
京の店の名が出ると、光秀と父の間で話が進み始めた。私は膝元の品の控えをしまいかけ、また手を止めた。久蔵は明朝出る。まだ何か、私にもできるだろうか。
「どのような荷でしょう」
父が尋ねた。
「書物と文、それに替えの衣だ。預けたときには、小箱一つと包み一つに収まった。箱は先方から借りている。中の物を戻してほしい」
光秀は両手を開き、箱の幅を示した。私が帳面を載せる低い台より少し狭いくらいだった。
「坂本へは、いつまでに」
「五日先の朝には発つ。それまでに受け取れれば助かるが、無理をして道を急がせるつもりはない」
父は久蔵を見た。
「戻りの荷に、お預かりする分を加えられるか」
「まだ空きが分かりません。京で荷の大きさを見て、運ぶ者にも確かめます」
光秀は頷いた。そのまま、ほかに京へ出る者を頼めないかと聞こうとしたので、私は膝を進めた。
「私も、久蔵と参ってよろしいでしょうか」
父の眉が動いた。
「誰に聞いている」
「父さんにです」
光秀が椀へ目を落とした。口元だけが少し緩んでいた。
「久蔵は、米の受け取りと勘定があるので。その間に、私が樋口屋へ行けます。荷を見て、戻りに運べるか確かめます」
私は言葉を続けた。頼まれた品をただ渡すところで、今日が終わるのは惜しかった。もう一つ、この人の役に立ってみたかった。
父はすぐに返事をせず、久蔵へ尋ねた。
「連れていけるか」
「京までは一緒に参れます。向こうで宗助が別の用へ行くなら、戻ってくる家を先に決めておきましょう」
「店の荷を先に済ませろ」
父の声は私へ向いていた。
「それから、お預かりする物の分かる文をいただく。先方に、何を宗助へ渡せばよいか分かるものを。箱が変わっていれば、中身も確かめることになる」
光秀は懐から折った紙を取り出した。
「何を預けたかは、ここにある。引き取る者の名を入れて、文を書こう」
その紙には、書物が五冊、紙に包んだ文の束が三つ、衣の包みが二つとあった。衣の二包みを、大きい布で一緒に括ったのだという。
「書物は、外から数を確かめてよい。文は包んだまま渡してもらってくれ。紙に色の違う紐が掛けてある」
「箱は、戻さなくてもよいのですね」
「樋口屋の物だからな。別の入れ物へ移して構わぬ。書物を折らず、濡らさずに運んでほしい」
私が頷くと、父が手間の話をした。
今度の京行きに合わせることで、引き取りと手配に五十文。荷を運ぶ賃や包み直しの品代は別にし、そちらは合わせて百文まで。それを超えるなら、勝手に決めず、荷は預けたまま戻る。引き取れなかった場合も、足を運んで確かめた手間は受け取ると、父は言った。
「荷が来ぬときにも、五十文か」
光秀が聞き返したので、私は父を見た。
「京までこれだけのために人を出すのではありませんから、その分は抑えております。ただ、よその家を訪ねて荷を確かめる間、ほかの仕事はできませんので」
父が答えた。光秀は少し考えてから、百五十文を先に預ける、と言った。
私は口を挟まなかった。光秀が聞き返したときには、少し下げてもよいのではと思った。頼まれたくて値を下げるなら、その分を働くのも父や久蔵ではなく、自分で引き受けなければならない。
「行ってみて、おられなかったら」
私は光秀へ尋ねた。
「主が留守なら、その家の者に文を見せてくれ。渡せぬと言われたら、理由を聞いて戻ればよい。人を捜して京の外まで行くことはない」
「返事の文を預かってもよろしいですか」
「頼む。私はこちらで人に会う用があり、すぐには離れられぬ」
光秀は湯を飲み終え、私が出した紙を手元へ寄せた。筆を借り、書き始める。さっきまで値を相談していた指が、紙の上では迷わず動いた。
誰に会うのか。なぜ今、京へ預けた物を戻すのか。聞きたいことはあったが、私は先に、届ける場所を尋ねた。
光秀が泊まるのは、私たちの店から山手へ少し上がった家だった。父はその家を知っていた。そこの主人にも、私が荷を持って訪ねることを伝えておくという。
文を畳む前に、光秀は受け取りに来る者の名を読み上げた。
坂本、桂本屋清兵衛が子、宗助。
私は自分の膝へ手を置き直した。名を間違えてもいないのに、はい、と返事をした。
清兵衛の子であることを、よその家へ持っていく。隣にいる父の袖口は、さっき米を見たときの粉で少し白かった。私はその袖へ触れぬよう、預かる文の場所を空けた。
光秀の指が、私の名を隠すように紙を折っていく。墨はもう乾いていた。
帰り際、母が戸口へ出た。布のことを光秀が礼に述べると、母は私を一度見てから、自分は洗うところを少し手伝っただけだと答えた。
「その少しが、よく分かりました」
光秀は言い、笠をかぶった。濡れていた裾の泥は、いつの間にか薄茶に乾いていた。草鞋を履くために屈むと、立ち上がる際には膝へ片手をついた。
私は表まで見送り、泊まる家への道を指した。光秀は一度頷き、ゆっくり坂を上がっていった。
店へ戻ると、父はすでに京向けの控えを開いていた。光秀から預かった銭を、店の銭とは別の袋へ移している。
「行きたいなら、自分から言えとは思っていたが」
父は袋の口を結びながら言った。
「お客の前で言えば、断れぬと思ったか」
「それは、思っていない」
「少しは思っただろう」
私は黙った。全くなかったとは言えなかった。
父が鼻を鳴らし、袋をこちらへ押した。
「お前が京へ行けば、明日の受け取りをする者が要る。わしはまだ、その手配をしておらん。行きたいと思ったら、まずこちらへ言え」
父は、光秀の用とは別の紙を私の方へ向けた。明日、私が受けるはずだった荷の名があった。
「久蔵にも、向こうで何を任せるか決めてもらう。別れてから一人で抱える前に、聞いておけ」
「分かった」
袋を受け取ったところで、母が奥から声を掛けた。
「分かったなら、飯を食べておしまい」
自分の椀が残っていた。表へ出たときには湯気の立っていた飯が、今は椀の形に固まっている。私は腰を下ろし、箸で端から崩した。
「美味しい?」
「冷たい」
「待ってたんだから」
母はそう言って、汁だけ温かいものに替えてくれた。
湯気の戻った汁へ、箸を入れた。母は向かいに座り、光秀が布をどう言っていたか尋ねた。聞こえていたのではなかったのかと言うと、椀を洗っていたからね、と答える。
私は箸を置き、光秀が布を手の甲へ当てたときのことから話した。




