第十三話 最初の文
光秀から預かった布を、母は朝の光へかざした。
昨夜は薄茶に見えたものが、戸口では白っぽく見える。布の端からほどけた糸が一本、母の指に絡んでいた。指をそっと抜き、母はその糸を畳んだ布の中へ収めた。
「これは、使っていたものなのかい」
「そこまでは聞かなかった」
「そう。ずいぶん馴染んでるね」
高島から戻った翌朝だった。永禄八年の秋も深まり、坂本では朝のうち、比叡の山から冷たい風が下りてくる。母は通りに面した戸を片方閉め、残した明かりの下へ裁縫の籠を寄せた。中には針を刺した小さな布と、色も厚さも違う端切れが重なっている。
私は光秀の紙を、その隣へ広げた。二つ合わせても、米俵一つの口を覆えないほどの見本だった。旅の荷から出すと、昨日までより小さく見えた。
「これに似たものを、幾つかお見せする」
「昨夜も聞いたよ」
母は籠から生成りの布を一枚選び、膝へ伸ばした。光秀の見本より少し硬く、折ったところが浮き上がる。
「こっちの方が、ざらつくね」
「新しいからねえ。これを洗えば、少しは変わるけど」
「同じくらいになる?」
「一度でそこまでなるかは、やってみないと」
母は二枚を重ねず、離して置いた。
「これを買った家へ行ってごらん。まだ同じ布があれば、短く分けてもらえると思う。もう少し糸の細かいのも、見せてもらいなさい」
「母さんなら、どちらを選ぶ?」
「私は、その方がどう使うのか見ていないもの」
そう言って、母は自分の袖をまくった。桶に漬けてある洗い物を、朝のうちに済ませるという。
私は見本を包み直し、紙を扱う家へ先に行くことにした。父には見本を買う銭を預かったが、すぐに品を揃える約束まではしていない。浜の商家へ出す勘定の文に、光秀がまだ田中にいるか、尋ねる一行を添えてもらっていた。返事を待つ間に、見せられるものを探せばよかった。
店の外へ出ると、通りの溝を細い水が走っていた。上の方で誰かが桶を空けたらしく、ちぎれた菜の葉が流れてくる。草履の先で跨ぎ、坂を上がった。道の両側には荷を置いた軒が続き、ひさしの低い家の前では、馬が首を振るたびに、括りつけた空籠が壁へ触れた。
紙を買う家は、その先の曲がり角にあった。
表の間口は広くない。通りから半歩入るとすぐ板敷になり、戸口に並べた浅い木箱の上へ、紙の束が載せてあった。白いもの、薄い土の色をしたもの。束の上には板が置かれ、角には掌ほどの石が載っている。風が入り込んでも、端が一枚ずつ持ち上がらないようにしてあった。
「清兵衛のところか。今日は何が切れた」
奥で箱を閉めていた主人が言った。薄藍の小袖に、濃い茶の帯を締めている。私が子供の頃から、父の店へ紙を届けている人だった。遣いで来たときには、濡れた手で触るなと必ず言われた。
「いつもの紙とは、別の用です」
私は手を拭いてから、光秀の見本を出した。
主人は見本を戸口へ持っていった。表と裏を光へ向け、端を指で軽く撫でる。折り目を伸ばす手元へ、私も顔を寄せた。
「何を包むんだ」
「薬だと伺いました。これくらいの厚みのものを」
「粉か、刻んだものか」
「そこは、聞けていません」
「濡れたものではないんだな」
「それも、確かめます」
主人は私を一度見て、紙を板敷へ戻した。
「なら、これだけで使えるとは請け合えんぞ。似た紙を出すことはできるが」
「まず、使う方に見ていただきます。違いがあれば、それも添えて」
「見本は、どちらへ送るんだ」
「高島の田中です。明智十兵衛殿という方へ」
主人は名字を繰り返し、首を傾けた。知らないらしい。それから、品を選んだあとの支払いは清兵衛の店を通すのかと聞いた。父に話してあると答えると、奥へ引き返した。
戸口には、書付に使うものより白く滑らかな紙もあった。灯りの下で墨の走るところを見たくなったが、今日は人の用だった。見本を包んでいた布を伸ばし、置く場所を空けた。
主人は二つの束を持ってきた。一つは大ぶりで、表に細い筋が透けて見える。もう一つはひと回り小さく、手を離すと緩く反った。
許しをもらって端へ触れた。大きい方は柔らかく、小さい方は少し張りがある。光秀の見本を間へ置き、指で順に確かめる。どちらかが明らかに同じだとは言えなかった。
「どちらも二枚ずつ、買えますか。一枚はそのまま、一枚は見本と同じ大きさに切ってお見せしたいので」
「この大きさで使うと、決まっているのか」
「いえ。まず厚みを比べていただきます。使う大きさは、文で伺います」
主人は小刀を出した。紙を揃えた板の上で、光秀の見本を脇へ置き、切る幅を確かめる。
大きい方からは、見本と同じ大きさの紙が四枚取れた。小さい方からは二枚。細い余りを端へ寄せ、主人が残りの紙を重ねる間に、私は十枚ずつ買うときの値を聞いた。
「こっちは三十文。そっちは二十文」
大きい方が一枚三文、小さい方が二文だった。
私は控えを出しかけ、先に二つの束を見た。
「この大きさで四十包み作るなら、大きい紙は十枚、小さい紙は二十枚ですね」
「ああ。その大きさでよければな」
「それなら、三十文と四十文になる」
「切る手間は、そっちで見てくれ。今は見本だから切ったが、束ごと買って、皆この大きさにしろと言われても同じ値ではできん」
主人は、小刀についた細い紙の筋を指で払った。
「切ったあとで大きさが違うと言われても、戻せんからな」
「そのままの紙の値と、取れる数を両方書きます」
私は一枚の値の横へ、四枚、二枚と書き添えた。元の大きさの紙もあるから、別の使い方をしたいなら見てもらえる。
控えをしまい、父から預かった銭を十文数えた。切り分けた見本と、元の大きさのままの紙を、主人が別々に揃えてくれた。
紙を受け取ると、主人が小さな包みを一つ足した。さっき切り分けた余りだった。
「こっちも持っていけ」
「いいんですか」
「お前が買った紙だろう」
忘れるところだった。私は礼を言い、細い切れ端も潰さないよう、二つの見本の間へ挟んだ。
布を買う家にも寄り、昼前には店へ戻れた。
母は裏の細い空き地で、洗った衣を竿へ掛けていた。二軒の屋根の間からしか日は入らず、干した布の片側がまだ濃い色をしている。足元の桶には、最後の一枚が残っていた。
「聞いてきたよ。言われた布があった」
「そこへ置いて。今、手が濡れてるから」
私は包みを板の上へ置き、桶へ手を入れた。水は思ったより冷たく、指の付け根がすぐに痛んだ。引き上げた衣は重い。桶の上で水を切り、戻ってきた母へ片端を渡した。二人で絞ると、手首へ冷たい滴が伝った。
母が先に竿へ掛け、私は下へ垂れた裾を持ち上げた。布の皺を伸ばすと、屋根の隙間から落ちた光が、濡れた糸の上で白く散った。
母が手を拭いて戻ってから、買ってきた布を広げた。どちらも染めていない麻の布だった。一つは母の端切れによく似ていて、もう一つは、それより細かな糸が詰まっている。値も違った。
「こっちの方が、最初から柔らかいね」
母が二枚を指で挟んだ。
「半分ずつ洗って、残した方と比べたい。洗い方は同じにした方がいいよね」
「そうだね。それなら、布の違いが分かる。二枚とも、こっちの桶でやろうか」
母は布の端を合わせ、切る場所へ爪で印をつけた。光秀から預かった見本は、離れたところへ戻す。借りたものまで一緒に洗ってしまわないよう、私は包みを閉じた。
洗い方を聞き、桶の水を替えた。母は横から私の指を止め、布の細い筋を示した。
「そこを引くと、糸がずれる。柔らかくしたつもりで薄くしてしまったら、肌へ当てる前に傷むでしょう」
「揉めば早いと思った」
「早く済ませるなら、二枚とも同じに扱えるくらいの力にして。こっちだけ強くしたら、布を比べたことにならないよ」
私は指の力を緩め、母の手が動く幅を見た。よく見れば、同じ一枚にも、硬いところと手に馴染むところがあった。
「お前、こういうのを嫌がったことがあったね」
「私が?」
「よそへ着ていく小袖の襟。痛い、痛いって」
「首が痒かったやつ?」
「そう。人の前で脱ぎだすから、慌てたよ」
覚えていた。襟の端が首へ触れるのが気になって、母の手を払いのけた。押さえられると腹が立ち、余計に暴れた。母が襟へ柔らかな布を当ててくれてからは、着られるようになった。
息子が服を嫌がった朝にも、私はまず、早く着なさいと言った。妻が裏返して縫い目を見ている横で、時計ばかり見ていた。そのあと何を話したかより、靴を履きながら振り返った自分の姿が浮かんだ。
桶の中で、布を握る手が止まっていた。母がこちらを見る。私は布を広げ、糸のずれたところがないか確かめた。
「それを、今も言うの」
「布を触ってたら思い出しただけ」
母は笑い、私が洗い終えた布を伸ばした。乾く前には比べられないから、紙の方を先に片づけなさいという。
家へ戻りかけたところで、母が呼んだ。
「明智様には、お礼も書くんだよ」
「もちろん」
「品の値ばかり並べそうだから」
私は、まだ何も書いていない控えを持ち上げた。
「これから書くんだって」
母は取り合わず、竿の端へ干した布を寄せた。そこが、今いちばん日の当たる場所だった。
文を書くための紙を広げると、品のことはすぐに書けた。
品の値と、紙一枚から取れる包みの数。控えから書き移し、洗う前後の布を分けて見てほしいと添えたところで、文の初めへ戻った。
客へ渡す覚えなら、何度も書いている。父の文を清書することもあった。それなのに、光秀への最初の挨拶が決まらなかった。借りた言葉を立派に並べると、道端の家で交わした声から遠ざかっていく気がした。
足の痛む男へ膝をつき、私が追いつくまで道で待ってくれた。そのことを思い出して、まず、旅先で手を貸してもらった礼を書いた。教わった使い方で紙と布を探したことを続けると、ようやく品の話へつながった。
光秀が求めた見本は、こうして目の前にある。これなら返事ができる。私は筆を持ち直し、どのような薬を包むのか、紙の大きさは見本ほどでよいかと、聞きたいことを添えた。
夕方、父に見てもらうと、読み終わるまで何も言わなかった。私は残った墨で、渡す紙の印を書きながら待った。
「品の代は、これだけか」
「ここは、紙屋と布屋へ払う値です。うちで買って届ける手間は、その下へ分けてあります」
「急ぎで別に送るときもか」
「次の荷に添える分です。これだけを送りに行くなら、別に相談します」
「それも書いておけ」
父は紙を返し、手元の帳面へ戻った。ほどけた綴じ糸が指へ絡み、舌打ちして引き抜いた。
「名前は、私で出していい?」
「頼まれたのは、お前だろう。代のやり取りは店で引き受けると、そこにはわしの名も書いておけ」
「うん」
私は文を戻し、空いていたところへ一行足した。父に見せる前から頭の中で何度も直していた挨拶は、そのまま残った。
翌朝、干しておいた布が乾いた。
母が掌へ載せ、私にも触らせてくれた。硬かった方は少ししなやかになっていたが、光秀の布と同じにはならない。もう一方は、折り曲げたところを指で挟むと、柔らかくつぶれた。私は、洗う前に残した半分と取り違えないよう、先に印をつけた紙を並べた。
「こっちの方が、喜んでもらえそうだ」
「そうだといいね」
母は洗った方を手前に揃え、同じ印の二枚を一緒に結んだ。私は買った店と品の覚えを手元へ残す。光秀から借りた見本だけは、返すものと記して別に包んだ。
すべて包み終わると、両手に載るくらいの荷になった。
持ち上げてみると軽かった。指が米俵の重さを待ち構えていたせいか、少し頼りない。中身が動かないように置き直し、奥の板間の棚へ上げた。裏戸を開けても雨の吹き込まない段に、見本を送る文も添えておく。
浜から返事が来たのは、坂本へ戻って四日目だった。
光秀は、まだ田中にいた。父が尋ねた米の勘定も届き、怪我をした馬方は、浜の仲間に世話を受けているとあった。仕事へは戻れていないらしい。私はその行を読み返してから、見本を出してよいか父へ尋ねた。
次の北行きの荷へ見本を添え、浜の商家から光秀へ届けてもらった。包みが手を離れると、棚に残った控えばかりが目についた。私はそれを伏せ、その日の米の受け渡しに入った。
返事を待つ間にも、北から舟は戻った。荷の知らせだけの日が続き、九日目の昼、ようやく小さな文が届いた。
久蔵が土間から差し出したものを受け取ると、表に私の名があった。差出人を確かめ、板敷へ上がる。落ち着いて開いたつもりだったが、折り目がうまく広がらず、久蔵が端を押さえてくれた。
光秀からだった。
送った見本は無事に届いたという。大きい紙を十枚、布は二の印のものを、初めに頼んだ長さで買ってほしい。布を洗うのはこちらで手配できるので、買ったまま渡してくれればよいとあった。
私は隣へ控えを置き、二の印を指で辿った。母と触って、柔らかいと話した方だった。
文の脇へ購入する数を書き写したところで、口元が緩んだ。見本を取り寄せたところから、ようやく注文になった。小さな包みを広げて、光秀も一つずつ触ってくれたのだろう。どんな顔で見たのか、少し知りたかった。
続きには、包むものと紙の使い方についての返事があった。切る大きさは使うたびに変えるので、紙は切らずにほしいという。私は余白へ、切らない、と大きく書いた。
最後のところで、筆が止まった。
近日、坂本へ参る用がある。
その折に、清兵衛殿にも会いたい。店へ立ち寄って差し支えないか、とあった。
私はもう一度、初めから読んだ。紙十枚と、布の注文は変わらない。その下に、坂本と書いてある。
「父さん」
声が大きくなり、土間にいた父と客が二人ともこちらを見た。私は頭を下げ、客へ銭を渡し終えるまで待った。
父が板敷へ戻ると、文を差し出した。
「明智殿が、うちへおいでになる」
「いつだ」
「日は、まだ。坂本へ用があるから、寄ってもよいかと」
父は文を受け取り、目を通した。
「なら、まだ来ると決まったわけではなかろう」
「うん。でも、お寄りいただきたい」
言ってから、母が裏にいることを思い出した。布のことも伝えたかった。立ちかけた私を、父が文で止めた。
「まず、返事を書け。待っております、と」




