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幕間 庄吉の頼み

第十二話で高島から戻った翌朝に、少し時間を戻します。今回は、庄吉の視点から描く幕間です。

 高島から戻った翌朝、母は、庄吉の買ってきた布をなかなか切らなかった。


 戸口の明かりへ広げ、裏返し、膝に載せた小袖へ重ねる。小さな赤茶の布だった。新しく一枚仕立てるには到底足りないが、黒ずんだ襟へ当てると、その辺りだけ、違う衣のように見えた。


「こっちを表にするかね」


 庄吉には、さっきと何が違うのか分からなかった。


「店では、そっちを上にしてた」


「そうだろうね。こっちの方が、色が揃ってる」


 母は指を滑らせ、布の端にある織り目の詰まったところをつまんだ。庄吉はそこに気づいていた。浜の店で引っ張ってみたのも、それが解けそうに見えたからだった。


「そこの糸は切れてないぞ」


「うん。よく見てきたね」


 庄吉は草鞋の紐を膝へ引き上げた。


 もう一枚、深い青の布もあった。濡れたような色で、棚から下ろされたときには、そちらへ手が伸びかけた。値を聞いて戻したことを、母へは話さなかった。買えなかったものまで並べれば、今、膝に載っている布がつまらなくなる。


 母は赤茶の布を二つに折った。


「お前の袖にも、少し取れるよ」


「俺のは、まだ着られる」


「着られるうちに繕うんだよ。肘が出てからじゃ、これだけでは足りない」


 指を差されたところを見た。黄土色の小袖の肘が、白く毛羽立っている。曲げると、織り目の間が開いた。


 母は何も言わず、庄吉が脱ぐのを待っていた。


 仕方なく帯を緩める。朝の空気が腕へ触れた。家と家の間から差す光は細く、日が高くなるまで、板敷の端は冷たい。土間には、昨夜ほぐした旅の荷がまだ残っていた。泥の乾いた草鞋と、空になった飯の包み。壁へ掛けた縄だけは、帰ってすぐに伸ばして乾かした。


「舟は、もう懲りたかい」


 母が衣を受け取りながら聞いた。


「誰に聞いた」


「昨日、自分で言ったじゃないか。帰りも揺れたって」


「揺れたのは舟だ」


「お前も、そこで柱につかまってたよ」


 母の口元が動いた。庄吉は古い衣へ腕を通し、母に背を向けて襟を直した。


 帰ってきた晩には、もう二度と乗るものかと思っていた。寝返りを打つたびに、舟底が腹の下へ戻ってきた。今も米の倉の、あのこもった匂いを思い出すと、喉の奥が少し怪しい。


 それでも、今津の浜で見た荷の山は、目を閉じると浮かんだ。


 布包みの間から、知らない土地の名が飛び交っていた。坂本で聞くのとは少し違う言葉で、男たちが荷の数を言い合う。馬から下ろした俵が、休む間もなく舟へ運ばれていく。庄吉の知っている手つきが、初めて見る家の前でも通じた。


「仕事があれば、また行く」


 母は針へ糸を通していた。先を湿らせ、一度通し損ね、戸口へ少し寄る。


「出る前に言っておくれ。縫いかけのまま、着ていかれちゃ困る」


「まだ、頼まれてないよ」


「そうかい」


 母が衣を膝へ広げた。


 庄吉は帯を結び、乾いた縄を取った。


     *


 桂本屋の裏庭には、空いた俵が積んであった。


 戸口を通ると、米と藁の匂いがした。昨日まで鼻の奥に残っていた旅先の匂いとよく似ている。だが、ここの倉には、手を掛ければ少し鳴る戸があり、通るときに肩を避ける柱があった。


 清兵衛は、庭へ出てきた庄吉の顔を見ると、もう働けるのかと聞いた。


「寝ましたから」


「なら、これを。昼前には片づくだろう」


 今日の手間賃を聞き、頷いた。


 破れた俵をより分け、使える縄を外して束ねる仕事だった。荷の多い日ほどの銭にはならない。それでも、帰って早々、よその戸口を回らずに済むのはありがたかった。


 庭に筵を広げ、俵を逆さに振る。藁屑に交じって、米が幾粒か落ちた。拾って小さな椀へ入れ、裂けたところへ指を差し込む。湿りの残ったものは、別に立てておいた。


 土間の向こうで、宗助が紙を広げていた。


 机の上には、小さな布の包みもある。高島から持ち帰ったものだ。宗助は父親に何かを聞き、紙へ書き、また聞いていた。清兵衛が外へ出ていっても、その背へもう一つ声を掛けた。


「それは、戻ってからだ」


 返事が庭まで聞こえた。


 庄吉は、外した縄を膝へ引き寄せた。


 宗助は、昔から人のあとを追って聞く子供だった。浜へ下りてきては、あの舟はどこへ行く、積んだ箱には何がある、と尋ねた。空の籠を返しに来た庄吉に、舟の行き先が分かるはずもなかった。それでも一緒に舳先を眺めているうちに、庄吉まで帰りが遅くなった。


 あの頃は、知らないと言えば済んだ。


 この頃の宗助は、それを決めるのは誰なのか、いつなら分かるのかと、その先まで聞いてくる。答えている間に、初めに何の話をしていたのか、分からなくなることがあった。


 その宗助が、今津では庄吉の知らない家へ迷わず入った。


 向こうの主人は、宗助の顔を覚えていた。米を見る間、庄吉は俵を転がし、底を向けた。気づいた傷を言うと、宗助が紙へ書き添えた。引き渡すとき、その紙を差し出したのも宗助だった。


 庄吉は、藁へ食い込んだ結び目を引いた。きつく締まって、爪では開かなかった。


 向こうの主人は、次に行けば自分の顔も覚えているだろうか。


 俵を動かした男としてなら、覚えているかもしれない。何をどこへ渡すのか、自分の口で話すところまで任されたら、もう少し違うはずだった。


「それ、切るのか」


 顔を上げると、宗助が戸口に立っていた。


「まだ使える」


「貸してみて」


 庄吉が渡すと、宗助は結び目をひっくり返した。両側を引いたので、庄吉はすぐに手を出した。


「締めてどうする。こっちを押すんだ」


 縄の腹を押し、端を戻す。隙間ができたところへ指を入れると、ようやく解けた。


 宗助が、ほぐれた縄を見た。


「今ので、すぐ緩むんだな」


「お前が引かなきゃ、もっと早かった」


「悪かった」


 謝るほどのことではない。前なら、早く言えよ、とでも返ってきただろう。熱で寝たあと、宗助はこういう小さなことまで、自分の落ち度のように引き受けるようになった。


 かと思えば、庄吉の知らない家の主人にも、筋の通らないことは聞き返す。弱気になったのか、図太くなったのか。ひとつの顔だけでは、どうも決まらなかった。


 庄吉は縄を引き取り、膝へ丸めた。宗助は、そのまま腰を下ろした。筵の上の米を見つけ、拾い始める。いつまでもつまんでいるので、庄吉は椀を近くへ寄せてやった。


「宗助。次に北へ行くのは、いつだ」


「まだ決まってない。どうして」


「決まったら、声を掛けてくれ」


 宗助の指が止まった。


 返事を待つ間、庭へ風が入り、筵の端から藁屑をさらった。庄吉は片手で押さえ、宗助を見た。


「ほかの者に頼む話でも、あるのか」


「そういう話は聞いてない。ただ、あんなことがあったから」


「鞍が壊れたことか」


「待たせたことも。舟も、つらそうだったし」


「舟は、つらかった」


 庄吉はそこだけ、はっきり答えた。


 道端で待ったことまで、一緒にされたくはなかった。宗助が馬の列を追っていったあと、庄吉には二俵の米と、足を痛めた男が残った。いつ戻るか分からないまま、影だけが道を渡っていった。


 通り掛かった女に声を掛けられ、軒を借りた。片方の俵を寄せ、もう片方を抱え直すたびに、馬方が立とうとした。座っていろ、と強く言ってしまい、男が足を引いたとき、余計に腹が立った。誰にともつかない苛立ちが、藁屑を落としても残った。


「次は、どれくらい待つか言ってくれ。分からんなら、分からんと言ってくれればいい。こっちも、人の家へ頼むことがあるんだから」


「うん」


「それで、次の話だ」


 宗助が顔を上げた。


「また来てくれるのか」


「だから、そう言ってるだろ」


 庄吉は、持っていた縄を束へ載せた。


「今度は、受け渡すところも、俺に教えてほしい」


「米を見るところ?」


「それも。どの紙を出して、向こうで何を書いてもらうか。人が何か言ったとき、俺には分からんから、お前が来るまで待てってことがあるだろ」


 宗助は、土間の向こうの机を見た。


 その前を、清吉が空の桶を持って通った。宗助が、底が滑るからと声を掛ける。清吉は分かってると返し、抱え直そうともせず裏戸へ出た。宗助の腰が少し浮いたが、弟が無事に庭を渡るのを見ると座り直した。


 以前は弟を使いに出す方が多かったのに、近頃は、持てるものまで手を貸そうとする。清吉が嫌がるのも無理はなかった。庄吉も、自分のことまで先回りして決められるのは困る。


 庄吉には、あの机の前へ座る用がほとんどなかった。手間賃を受け取るときも、土間に立ったままで済んだ。机には、荷を持ち上げるために要るものが何一つない。それなのに、あそこで決まったことで、今日担ぐものも、明日行く先も変わった。


「お前が行かないときにも、俺に任せてもらえるようになりたい」


 言ってから、宗助の顔を見た。


 宗助は少し口を開き、何も言わずに閉じた。


「……嫌なのか」


「いや。私と行きたいのかと思って」


 思わず笑った。


 宗助は膝についた藁を払った。何でもないような顔をしようとして、拾った米を落とした。


「お前が行くなら、一緒に行くよ。途中で置いてかれるのは、もうごめんだけどな」


「置いていったつもりは」


「あっちは、つもりを聞いて待ってたわけじゃないぞ」


 宗助が口をつぐんだので、庄吉はその膝を軽く叩いた。


「今すぐまた詫びに来なくていい。次の話をさせろ」


 今度は、宗助も笑った。


「父に話してみる。庄吉に、もう少し仕事を――」


「それは俺が言う」


 庄吉は、立ちかけた宗助の袖をつかんだ。


 宗助が言えば、話は早いかもしれない。清兵衛も、息子が困っているのならと、耳を貸すだろう。だが、宗助を助けてやってくれという話で始まれば、肝心なことを言いにくくなる。


「受け渡しまでやるようになったら、手間賃のことも聞きたいから」


「ああ。それは、そうだ」


 宗助は素直に座り直した。


 分かるのなら、初めから黙っていてくれればいいものを。庄吉はそう思い、続きの縄へ手を伸ばした。


「お前には、紙の方を頼みたい」


「どこから覚えたい?」


「それが分かってりゃ、自分でやってるよ」


     *


 清兵衛が戻ったときには、俵はより分けてあった。


 庄吉は、湿りの残るものを指し、破れたものと混ぜずに置いたことを伝えた。清兵衛は一つ持ち上げ、底へ手を当ててから頷いた。


 宗助は机へ戻っていた。こちらを見かけたが、庄吉が目を向けると、紙へ顔を下げた。


「旦那。もう一つ、聞いていただきたいことが」


 清兵衛が俵を置いた。


 次の旅へまた行きたいと切り出し、受け渡しまで任せてもらえるようになりたいと話した。清兵衛は口を挟まず、こちらの顔を見ている。手間賃の話まで続けるには、もう一度息を吸わなければならなかった。


「今津で、向こうの主人に話をしたのか」


「挨拶だけです。米を見るところでは、宗助についていました」


「紙は、どれくらい読める」


 庄吉は答えに詰まった。


 荷の印なら知っている。数も、いつも目にする書き方なら読めた。だが、書状を渡されて、その通りに用を果たせと言われたら困る。見たことのある字でも、続けて書かれると分からなくなった。


「荷につける印と、数なら。文は読めません」


「それなら、まずここで見ておけ。次に浜で荷を渡すとき、久蔵にもお前を見るよう言っておく」


 清兵衛は、庭の奥へ目をやった。


「初めから一人では出せん。先方の言うことを持ち帰れんうちは、荷を預けられんからな。覚える間は、今までの仕事もしてもらうぞ」


「はい」


「それでよいか」


 頷きかけ、庄吉は口を開いた。


「任せていただけるようになったら、その分の手間賃も、相談させてください」


 清兵衛の手が、俵から離れた。


 宗助の筆が動く音だけがした。さっきから同じ紙へ、随分書いている。


「任せる仕事が変われば、頼むときに決める。今ここで、幾らとは言わんぞ」


「それで結構です」


 声が少し大きくなった。


 清兵衛は庄吉を見てから、使える方へ分けた俵を顎で示した。


「今日は、それをしまうところまでだ。残りは乾いてからでよい」


 それで話が終わり、庄吉は筵を片づけた。


 俵を倉へ運ぶ間、土間から帳場の机が目に入るたびに、先ほど言ったことが口の中へ戻った。急いで話しすぎなかっただろうか。清兵衛は、面倒なことを言い出したと思っただろうか。戸口で一度足を止めたが、振り返ると、清兵衛はもう別の客と話していた。


 最後の俵を置いて戻ると、宗助が紙を一枚、こちらへ向けた。


 裏に古い書き付けの透ける紙だった。上の方へ二つ、下へ四つ、字が書いてある。


「まず、行き先と数。これは今津で、こっちは――」


「待て」


 庄吉は、上の二つを指した。


「これで、今津か」


「うん」


「なら、今日はこれ」


「下は、俵の数なんだけど」


「上が分からなくなったら、またここへ来るぞ」


 宗助は紙を見た。少し考え、下に書いたところを折って隠した。


「うちで使う書付も、そのうち読めるようになった方がいい。書く人で形が違うから、父や久蔵の書いたものも見せてもらおう」


 庄吉は、折られた紙を受け取った。


 今津。


 知っている土地の名なのに、声に出してみると、字の方が少し遅れてついてきた。二つ目の、横へ引いた線がどこから続いているのかを、爪でたどる。


「仕事のあとに聞いてもいいか。昼のうちは、頼まれた方へ行かないと」


「もちろん。私が出ている日もあるけど」


「出る前に言えよ」


「庄吉もね」


 紙を折り直し、懐へ入れた。汗で濡れないように、布を一枚挟んでおこう。そう考えてから、母の膝にあった赤茶の布を思い出した。


 あれまで取ったら、自分の袖を繕う分しか残らなくなる。家にある端布を探せばいい。


 宗助が、庭に残った縄を束ね始めた。手伝うつもりらしい。庄吉は荷を取りに奥へ入り、戻ってきて、その手元を見た。


「その結び方だと、持ったときにばらける」


 宗助が顔を上げた。


「さっきのと、同じようにしたんだけど」


「解く方だけ覚えてどうする。そこ、押さえてろ」


 庄吉が輪へ端を通すと、宗助は顔を近づけた。


「もう一度、ゆっくり」


 庄吉は手を止めた。宗助が真顔で待っているので、今通した縄を抜き戻した。


「一つずつだぞ」


「それは、こっちの台詞だろう」


 先に笑ったのは、宗助だった。


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