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御曹司は婚約者を私から姉に変更しました――「経営判断」だそうです  作者: 新川さとし


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第2話 顔合わせ


「え? 社長が?」


 何がどうなのかを飲み込もうとしているときにノックの音がした。


「入りたまえ」


 専務は、小さくウィンクして「コーヒーが嫌いではないといいんだけど」と囁いた。


 同時に、総務の制服を着た人が、ワゴンを押して入って来た。


 専務に呼ばれて、コーヒーを出される? 何、この待遇。


 でも、そこに驚く前に、私は、声を出していた。


「お姉ちゃん!」


 お姉ちゃんは、目を丸くしているけど、とっさに言葉を抑えたらしい。


 そして、仕事用の笑顔になると、専務からではなく、私の前からコーヒーを置いた。


 とっさに空気を読んだみたいだ。専務もそれを見て小さく頷いている。


 こういうところ、お姉ちゃんは絶対に間違えない……


 それにしても、こんなところで会うなんて。 


 同じ会社で働いていても、事務系のお姉ちゃんと、技術系の私は、棟が違うので、社食で見かけるくらいだった。


 会社で話をすることもめったにない。

 

 せいぜい、若手の男性に「お姉さんに渡して」と連絡先を書いた紙を預けられるくらい。まあ、大槻技研でも、お姉ちゃんは美人社員として有名だからね。


「なるほど。さっき話してくれた、お姉さんなんだね」


 いったい何を話したのと言いたげに、お姉ちゃんはこっちを見たけど、説明しようが無いよ。


 専務は頷きながら、私に微笑むだけ。


 その間に、来客扱いで、姉にコーヒーを出される空気は、なんだかいたたまれない。


 その間、専務が口を閉ざすと、会議室は束の間の静寂に包まれた。


「失礼します」


 人一倍、空気を読むお姉ちゃんは、何も聞かずに、綺麗なお辞儀だけを残して退出してしまった。


 そして、ドアが閉じる前に、気持ちは決まっていた。


 せっかく、仕事を評価してもらえたんだもん。やるしかない。文系の専務に技術を翻訳する役なら、私にだって、きっとできる。


 私は、一つ息を深く吸ってから、背筋を伸ばして頭を下げた。


「微力ですが、お役に立てれば、嬉しいです」

「よし。じゃあ、プロジェクトに関わるための承諾書や、機密保持契約なんかの書類は、阿部課長の方からで良いかな?」

「承りました」


 私の返事を聞いたイケメン専務は、さっきよりも、雰囲気を柔らかくして、身を乗り出してきた。 


「じゃあ、さ。書類関係が終わったら、そろそろ退勤時間でしょ?」

「え、ええ。後は、二件ほどシステムチェックをするだけなので、残業もそれほど長くはならないかと…… あ! あの、できる限り残業は控えるようにしておりますので」

「いやいやいや。そっちは、まあ、阿部課長にお任せするとして、と」

 

 チラッと阿部課長に目を向けたら苦笑してる。そして、意味ありげな視線を私に送ってきた。


 え? 残業申告はいっつも、ちゃんとしますよ?


 専務は、相変わらず爽やかな笑顔のまま、目だけがいたずらっぽくなった。


「君が補佐役を引き受けてくれることになったし、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」

「はい。もちろん、急ぎの仕事は優先いたします」


 明日、頑張れば、システムチェックの2件くらいならすぐ追いつく。


 私が、仕事の算段を浮かべていると、ちょっとだけ、いたずらっぽい笑みを浮かべた専務は聞いてきた。


「今日は、退社した後の予定はありますか?」


 今日は…… 帰って、晩ご飯を食べるくらいかなぁ。あ、今日はハンバーグだって、お母さん言ってたな。

 

 いくら私でも、それを言わない程度には、わきまえてる。


「いえ。何もありません。プロジェクトに関わる用件でしたら、なおさら、そちらを優先しても問題ありません」

「そうですか。じゃあ、残業ってわけにはいかないんですが」


 肩をちょっとすくめて、こっちを見た。ウィンクでもしてきそうな雰囲気だよ!


「この後も長い付き合いになりそうだし。顔合わせとして、一緒に、食事でもしながら、少し話しませんか」


 ええええ!


 私は、あまりのことに、隣で阿部課長がニコニコしている意味に気付いていなかった。


 そこから山のような書類を読んで、サインするという作業が始まった。


 社会人って大変だと思いながらページをめくっているときだった。


「電話を一本、させてもらうよ」


 専務が笑顔で言った。


 取締役ともなれば、社内でスマホを持ち歩くのも自由なのか。まあ、それはそうですよね。


「事務作業だけですので。我々が聞いても差し支えなければ」

「いや、店の予約の電話さ。水野さんも関係あるから、聞いていてもらって構わないよ」


 笑顔の課長は恭しく頭を下げる。専務は、それを見てから、スマホを耳に当てた。


「あ、オレでーす。今日、二人、頼めます?」

「――」

「いや、今日はオレ個人で」

「――」

「いやいや、違うから。もう、社会人として、ちゃんと真面目にやってるの」

「――」

「あぁ、えっと、ちょっと待って」


 スマホから耳を離した専務が「水野さん」と呼んできた。


「はい?」

「君は、何か食べられないものある?」

「特にないです」

「OK。肉と魚なら、どっち派?」

「どっちかというと、魚でしょうか」


 家に帰ればハンバーグがあるもんねと思いながら、専務がスマホに話しかけてるのを目にしている。


「あ、聞こえた? うん、あとよろしく。あ、サラダは、えっと、いつものあれで」

「――」

「ははは。それで頼みます。んじゃ、また、後で」


 なんだか、お店に予約する電話という感じじゃなかった。むしろ、親しい友人の家に行くみたいな…… あれ? 


 私はつい、気になってしまった。


「専務」

「何でしょ?」


 さっきの笑顔のまま、私の方を向いた。


「先ほど、名乗っていらっしゃらなかった気がするんですけれど」

「ああ、そりゃ分かるでしょ。子どもの頃から行ってる店だから」


 良かった。会社の取締役がつれて行ってくれる店。しかも予約が必要ってことだから、どんなお店にいくのか、緊張してしまった。


 どうやらどこかの洋食屋さんっぽい。まあ、大槻家がずっと使う洋食屋さんなら、けっこう、良いところかも。


 期待しちゃおうかな。


 私は、つい、聞いてしまった。


「なんていうお店か、教えていただいても?」

「ん? あぁ、もちろん。えっとね、会社からなら車で十分ほどだよ。ル・セードルってフランス料理の店」

「え? ル・セードルって、まさか、あの店先に杉の大木があるという……」

「おっ、よく知っているね。そう。そこさ。気取らない、良い店だよ」


 さすがに横で、阿部課長も驚いている。


 気取らない? 


 仙台一、いや、東北でも有数のフランス料理のお店が気取らないだと……


 それ、普通の「顔合わせ」で行くお店じゃないよね?


 着いてみれば、やっぱりと言う感じだった。


 杉の大木を避けて作った車廻しの正面で降りた。専務は出迎えのお店の人に、当たり前みたいに鍵を渡していた。


「承りました」

「お願いします。あ、ワインも飲むから」

「承っております。代行はお帰りに合わせて」

「ありがとう」


 運転代行も、お店が予約してくれるの? 普段行くお店とのあまりの違い。でも、キョドるヒマなんてなかった。


 笑顔でエスコートしてくれる専務は、私がドアを開ける前に、自然な感じでドアを開けてくれた。


「ありがとうございます」


 専務にドアを開けさせるヒラとか…… 私は、目が丸くなりっぱなしだ。


 ふふふ。


 まあ、こうやって、新製品のプロジェクトに参加できて、こういうお店に連れてきてもらえたのだから、役得ってことにしちゃおーっと。


「お待ちしておりました」

「今晩は。あ、この間はありがとう」

「来年も、ぜひ、担当させてください」

「やっぱり、誕生日は、ここの料理じゃないとね」


 何だか、凄まじい会話をしてる横で、慌てて、私もお辞儀した。真っ白なコックコートをきちんと着こなした小柄な男性が、笑顔で迎えてくれている。


 愛想の良い口元には笑いじわが浮かんでいる。でも、案内役の男性がわずかに緊張しているところを見ると、ただの気さくなおじさんではなさそうだ。


「この人が、シェフだよ」

「ようこそ、レストラン・ル・セードルへ。当店の主をしております」

「よろしくお願いします」


 えっ? ル・セードルのオーナーシェフってこと? シェフが挨拶に来るっていうお話は、聞いたことくらいあるけど、まさかのお出迎えをしてくれちゃうわけ?


「坊ちゃんの大事なお客様をお迎えできて光栄です」

「確かに大事な相手だけど、坊ちゃんはやめてよ。オレも、もう二十八だよ」


 子どもの頃から知っているオジさんとの会話という感じしかない、雰囲気。だけど、それでいて、私を放置なんてしなかった。案内役の人――こういうお店だとギャルソンっていうんだっけ――と一緒に、席までエスコートしてくれた。


「あの……」

「どうしたの?」


 テーブルに置かれていたのは、メニュー。だけど、出てくる料理が書かれているだけで、お値段が、分からないんですけど……


 ダメだ。こんなお店、私のお給料で入れるはずがない。


「あ、ワインは大丈夫? 無理しなくても良いけど、ここで出すワインは、さっきのオーナーが、ちゃんとしたのを出すから、飲んでみる価値はあるよ」

「あ、ええ、多少は。でも、あの、あの……」


 私のドキドキを見抜いたのか、専務は首をちょっとかしげてから「珍しいね」と笑顔になった。どうやら値段を気にしたのが分かったらしい。


「せっかく時間を取ってくれたんだ。今日はゆっくり話をしたいだけだから。何も心配しないで?」


 こういう時に「お言葉に甘えて」と答える程度には、私だって社会人だ。


 会計の時は、少しでも自分で出そうと腹をくくってからは、食事を楽しむことに専念しようとした。


 さすが、としか言えない。出てきた料理は、どれも美味しかった。


 美味しかったんだけど、正直、料理の名前は半分も覚えられなかった。


 専務は慣れた様子でワインを飲みながら、プロジェクトの話や、大学時代のことを聞いてくる。


 私も最初こそ緊張していたけれど、専務が私の話を途中で遮らないことに気付いてからは、少しずつ普通に話せるようになった。


「水野さんって、仕事の話になると別人だね。とっても、わかりやすく話をしてくれる」

「……すみません」

「いや、違うんだ。褒めてるんだよ? なんだか、自分があるって感じで、良いと思う」

「そうなんですか?」

「ええ。これなら、一緒に仕事をしても、ストレスが無さそうだなって思えて、今日、話せて良かった」

「ありがとうございます!」


 嬉しかった。専務に、仕事ぶりを認めて、褒めてもらえた気がした。


 そこから、さらに話し込んで、専務の東京暮らしの話もしていたら、いつのまにかデザートまで終わっていた。


「あの……少しでも、出させてください」


 私の薄いお財布の中身だと、とてもではないけど、半分、なんておこがましいと思えてしまう。


「ん?」

「あのぉ、お会計ですよね」

「あぁ、それはウチの方でやるはずだから」

「会社にということですか?」

「いや、ウチ。大槻家の方に回してもらうんだ」

「家に回す?」

「うん。昔からそうなんだよ。今日もいつものようになると思うよ」


 え? 何その、一般客には実装されていない謎の会計システム!

 

 こ、これが、話に聞く「オオツキ様」ってやつなの?


 それでも私は、今日の「顔合わせ」は、あくまで仕事のためだと思っていた。




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