破られた遺言と残酷な代償
ぢゅらおです。
ちなみにぢゅらさんでも、ぢらさんでも、ぢらおさんでもなんでもいいですが、じゅらおだけは許しません。ぢに全てが宿ってますから!!
ノートの最初の数ページには、俺と出会う前の記録が淡々と綴られていた。
「迷子の犬を見つけた」「転んだお爺ちゃんの怪我を治した」……まるで日常の些細な出来事のように書かれているが、それは間違いなく、彼女が密かに人助け――あの『奇跡』を行っていた痕跡だった。
ページをさらに捲る。
そして、ある日のページで、俺の指はピタリと止まった。
それは俺と彼女が初めて出会った日の記録だった。
これまでの整った几帳面な文字とは打って変わり、そのページだけは、紙が破れそうなほど強い筆圧で、乱暴に、殴り書きのように文字が刻み込まれていた。
『今まで人を助けるために色んな記憶を失って、自分の名前すら忘れてしまっていた私に、名前をくれた人がいる。』
『彼の名前は万田知哉。私の名前は蛍。』
『何があっても、これだけは絶対に忘れない』
必死に何かを繋ぎ止めようとするような、悲痛な叫びにも似た文字。
俺の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
その後のページには、俺も知っている通りの、他愛のない日々の記録が続いていた。
俺がこの平屋を訪れたこと。くだらない口喧嘩をしたこと。
そして、あの絵本を泥水から拾い上げた日のページには、こう書かれていた。
『今日、初めて万田くんに力を見せてしまった。彼がそれを見てどう思っているのか、嫌われていないか、とても気になっている。』
だが、俺を最も震え上がらせたのは、日記の随所に、まるで定型文のようについて回る一文だった。
『――あれはなんだったのか、もう忘れてしまったようです。』
人助けの記録の末尾。俺との他愛のない会話の記録の末尾。あらゆる日のページに、その言葉が書き残されている。
「……嘘だろ……」
乾いた声が喉から漏れた。
今までに体験した出来事と、日記の記述。そこから導き出される結論は、ただ一つしかなかった。
この少女――蛍は、自分の記憶と引き換えに、あのような奇跡とも呼べる力を発揮しているのだ。
そしておそらく、失う記憶の量は『起こした奇跡の度合い』によって決まる。
点と点が、残酷なまでに繋がっていく。
蛍と話していて、今までずっと感じていた違和感。どこか噛み合わない会話。
『私、昨日の夜ご飯に何を食べたか、ご存知ないですか?』
『記憶にございません』
あれは、とぼけていたわけでも、鳥頭だったわけでもない。
彼女は本当に忘れていたのだ。
日記を読み返して「そんなことがあったんだ」と改めて学習した上で俺と話していたから、あるいは『忘れてしまったことすら日記に書きそびれていた』から、あんなにもチグハグな会話になっていたのだ。
俺はずっと、自分の記憶を削り取って人を助けている彼女に向かって「都合のいい頭だ」と笑っていたのか。
「……っ」
俺は自分だったら、こんな過酷な運命を受け入れられるだろうかと想像し、全身がぶるっと身震いした。
他人のために自分の過去を、思い出を、積み上げてきた感情を削り取られる恐怖。俺には絶対に耐えられない。
ふと視線を落すと、ベッドの上で眠る蛍が「うぅ……」と苦しげに魘されていた。
失われていく記憶の濁流の中で足掻いているのだろうか。
俺はたまらず手を伸ばし、熱を持った彼女の小さな手をぎゅっと強く握りしめた。
「俺がいる。……大丈夫だ、忘れても、俺が覚えてるから」
震える声でそう呟きながら、俺は改めて知った事実を頭の中で整理していく。
絵本を濡らさずに拾い上げる程度の力で、前日の夕飯の記憶が飛ぶ。
では、今日のように、消えゆく命の最期を照らし出し、死の淵にある者の意識を呼び戻すような『重めの奇跡』を起こした場合は――いったい、どれほどの記憶を持っていかれるというのか。
そこで、俺はハッとして再び日記に目を落とした。
(……おかしい)
ページをパラパラと捲り直すが、何度確認しても、今日のような『重めの奇跡』を行った記録は、この日記には一度も書かれていなかった。
これほどリスクのある力を、なぜ今日はためらいなく使ったのだろうか。これまで一度も、命に関わるような大きな依頼は受けてこなかったはずなのに。
何故だろうかと訝しんでいると、不意に、日記の表紙と最初のページの隙間に、何かが挟まっていることに気がついた。
それは、四つ折りにされた小さなメモ用紙だった。
引き抜いて広げようとすると、一番上の折り目にこんな題名が書かれているのが見えた。
『何もかも忘れてしまったおバカに向けて』
俺は息を呑み、ベッドで魘される蛍を一瞥してから、そっとそのメモ用紙を開いた。
そこに綴られていたのは、見慣れた彼女の少し丸みを帯びた字で書かれた、過去の『蛍自身』から、未来の『蛍』へと宛てた遺言のような手記だった。
『あなたの役目は、困っている人から届く依頼を可能な限り遂行すること。
ただし、自分の大事な記憶を失うならばその限りではありません。
また、記憶を失わないために、普段から本を読むことを推奨します。
この力による代償として失った記憶は、二度と元には戻りません。これを書いている私は、恐らく今日、何か大切な記憶を失うことになるでしょう。私には特段好きなことや趣味がないので、恐らく失うのは『自分の名前』に違いないと思っています。
本を読むことを勧める理由は、小さな奇跡であれば、読んだ本の内容を忘れることで記憶の代用にできるからです。
良かったですね。あなたはこれで、一生読む本が無くなることはありません』
「……何言ってんだ、こいつ」
張り詰めていた緊張感の中で、俺の口からふっと微かな笑みが漏れた。
こんな絶望的な状況を書き残しているというのに、未来の自分に向けた自虐的な冗談が交じっているのが、いかにもあいつらしかった。
同時に、俺の中で一つの腑に落ちる感覚があった。
この前、俺がここを訪れた時に彼女が静かに本を読んでいた理由。そして、あの絵本を泥水から引き上げるという奇跡を起こした後に、「企業秘密」とはぐらかしていた理由。
小さな奇跡の代償を、本の内容という『どうでもいい記憶』で支払うための防衛策だったのだ。
俺は少しだけホッとしたような気持ちになりながら、メモの続きを読むために視線を下へ滑らせた。
『今の私には考えられませんが、将来の私が何か心変わりをして、自らの記憶の全てを失うような無茶をした際の「保険」として、このメモをあなたに残しておきます。
そして、このメモ用紙は表紙と1ページ目の間に挟んでおきます。私ならまず間違いなく、こんな昔の記憶をわざわざ遡って読もうとはしないからです。
しかし、もしも私が私を忘れるような事態に陥った時、このメモ用紙は必ず見つかり、私が誰なのかを再度理解する時が来るでしょう。
もちろん、その時のあなたには、これまでの感情などは微塵も思い出せないでしょうが。
そして、これは単なるメモではなく、将来の私に向けたほんの少しの願いなのですが――』
「……は?」
俺の思考は、そこで唐突に停止した。
そこから先が、読めない。
インクが掠れているわけでも、文字が滲んでいるわけでもない。
『将来の私に向けたほんの少しの願いなのですが――』という一文のすぐ下で、メモ用紙の下半分が、ビリビリと無残に破り取られていたのだ。
「なんだよ……これ……」
ちぎれた紙の断面を指でなぞる。不自然に荒いその切れ端は、明らかに『誰か』が意図的に破り捨てたことを物語っていた。
彼女が未来の自分へ残した、たった一つの願い。
それが何だったのか。そして、一体誰が、何のためにこの重要な部分を破り捨てたのか。
背筋をぞくりと冷たい汗が伝う。
静まり返った部屋の中で、ベッドで死んだように眠り続ける蛍の寝息だけが、不気味なほど規則的に響いていた。
破り取られたメモの不気味さに俺が背筋を凍らせていた、まさにその時だった。
「……んっ」
微かな寝息を立てていた蛍のまぶたがピクリと動き、ゆっくりとその目が開かれた。
「蛍っ! 大丈夫か!? どこか痛いところはないか!?」
俺は手に持っていた日記を放り出し、思わず食い気味にベッドへ身を乗り出した。
だが、その切羽詰まった俺の顔を見た瞬間、蛍はビクッと肩を跳ねさせ、ひどく怯えたように身を震わせた。
「ど、どなた……ですか?」
ピシャリと、冷水を浴びせられたような感覚だった。
恐れていた最悪の事態が、現実になってしまったのだ。
先ほどの病室で、人の命に関わるほどの奇跡を起こした代償。それはあまりにも的確で、あまりにも大きすぎるものだった。彼女は、すべてを忘れてしまったのだ。
俺は震えそうになる両手をぐっと強く握りしめ、パニックになりそうな心を必死に押さえ込んだ。
怯える彼女を安心させるために、引きつりそうになる頬に力を込め、可能な限り優しい笑顔を作って語りかける。
「俺は、万田知哉。君の名前は……」
「私、私の名前は……私は、何……?」
虚ろな瞳で宙を見つめ、蛍は力なく小さくぼやき続けた。
これ以上俺が身を乗り出せば、彼女を余計に怖がらせてしまうだけだ。俺はゆっくりと距離を取り、ベッドの脇に落ちていた分厚い日記を拾い上げた。
手の中にあったあの破られた『メモ用紙』だけは、なぜか咄嗟に抜き取ってポケットの裏に隠していた。
「これを、読んでみて」
俺は静かに、その日記を差し出した。
蛍は警戒するように俺の顔と日記を交互に見た後、おそるおそる手を伸ばしてそれを受け取った。
ペラ、ペラと、静かな部屋の中にページをめくる音だけが響く。
しばらく文字を追っていた蛍は、やがて、先ほどまでの震えが少しだけ落ち着いた様子で、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。
「……あなたは万田知哉。私は、蛍」
自分の名前よりも先に、俺の名前を口にした。
その事実に、俺の胸の奥で驚きと、そしてどうしようもないほどの喜びが弾けた。
「そうだ! 思い出したのか!!?」
「思い出した……ううん、違う。多分、覚えていた」
「……覚えていた?」
蛍は日記の開かれたページをそっと撫でた。
そこは、俺と彼女が初めて出会った日のことが書かれたページだった。
「この日記は、多分私が書いたものだと思う。分からないけど……このページを見た時、なぜだか分からないけど強い確信を得たの」
彼女の言葉に、俺は胸を強く締め付けられた。
「なんで、そんなどうでもいいこと覚えてるんだよ……くそっ」
思わず、小さく悪態をついて顔を伏せた。
すると、蛍がベッドから身を乗り出し、俺の震える手をきゅっと両手で包み込むように掴んだ。
「多分……これが私にとって、一番大事だったから。そして私はどうやら、一番大事な記憶だけは失わなかったみたい」
――違う。
俺との記憶なんかより、もっと覚えておくべき大事な記憶があったはずだ。
蛍が『蛍』であるために、俺なんかの記憶は必要ないはずなのに。俺は彼女に何かをあげられたことなんて一度もないのに。
自分の情けなさと無力さに嫌気が差し、ギリッと奥歯を噛み締めたその時だった。
蛍が、俺のもう片方の手――無意識のうちに握りしめていた、あのメモ用紙の端っこ――を指差した。
「それ……見せて?」
ねだるような、純粋な視線だった。
最初、俺はなぜ自分がこのメモ用紙を蛍に見せまいと隠したのか、自分でもよく分からなかった。ただ、本能が「見せてはいけない」と警鐘を鳴らしたのだ。
だが、拒絶する明確な理由も見つからず、俺は観念してその二つ折りのメモ用紙を彼女の手に渡した。
メモを受け取り、そこに書かれた文字を目で追っていた蛍の様子が、急に変わった。
「あ……」
「蛍?」
「頭、が……グラグラする……っ」
蛍は苦しそうに額を押さえ、そのまま再びベッドへと横に倒れ込んでしまった。
「おい、しっかりしろ! 今、冷たいタオルを持ってくるから……っ!」
俺は慌てて立ち上がり、洗面所へ向かおうと背を向けた。
しかし、横たわる彼女の手元が視界の端に映り、俺は釘付けになって足を止めた。
ベッドに投げ出された蛍の手が、先ほど病室で奇跡を起こした時のように、淡く優しい光を放っていたのだ。
「蛍……」
俺はベッドの傍らに膝をつき、祈るような気持ちで、その光を放つ華奢な手を両手でぎゅっと握りしめた。




