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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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9/18

第九話 忘れたふりも、生きるため

 真澄が次に図書館に来たのは、一週間後だった。

 いつもの席ではなく、カウンターに直接来た。手に、薄い冊子を持っていた。手製の、小さな冊子。表紙は水色の画用紙で、丁寧に折られている。

「倉橋さん、少しいいかしら」

「もちろんです」

「これ、できました」

 真澄は冊子を詩乃に差し出した。詩乃は両手で受け取った。

 表紙を開くと、詩が並んでいた。手書きではなく、丁寧にプリントアウトして切り貼りしてある。一篇ごとに、鉛筆で小さな書き込みがある。これは千鶴子が好きだった詩。これは私が好きだった詩。これは二人で一番好きだと言っていた詩。そういう書き込みが、それぞれの詩の横に添えてあった。

「素敵ですね」

「千鶴子への手紙のつもりで作りました。届かないけれど、作ること自体が返事になる気がして」

「届いていると思います」

「そうだといいわね」

 真澄は微笑んだ。詩乃が見てきた中で、一番柔らかい真澄の顔だった。

「図書館に寄贈してもいいかしら。こんな手製のものを置いてもらえるか分からないけれど、ここに来た誰かが、いつか手に取ってくれたら嬉しいから」

「館長に確認しますね。きっと大丈夫だと思います」

「お願いします」

 真澄は冊子を置いて、今日は新聞コーナーへ行かず、詩集の棚の前に立った。背表紙をゆっくりと眺めて、一冊を選んで、借りていった。

 詩乃は冊子を手に持ったまま、しばらくその場にいた。

 届かない手紙を書く。届かないと分かっていて、書く。それでも書くことが、その人の今を少しだけ動かす。

 詩乃の頭の中で、何かがゆっくりとつながった。書くことと、返すことが、同じ場所に触れている気がした。

 館長の風間律子に真澄の冊子のことを話すと、律子はすぐに「置きましょう」と言った。

「手作りの詩集。素敵ね」

 律子はいつものように、少し眠そうな目をしていた。でも冊子を手に取った時だけ、目が細くなった。ちゃんと見ている目だった。

「久世さんは、よく来てくださるのよ。倉橋さんが来てから、何か変わった気がしていたけれど」

「わたしが、というより」

「図書館が、ということかしら」

 律子は冊子を返しながら言った。

「図書館は、本を置く場所ではありません。人が、もう一度何かを探しに来る場所です。久世さんは、探しに来ていたのでしょうね。ずっと」

 詩乃はその言葉を、胸の中に置いた。


 その夜、地下に下りた。

 灯里はもう来ていた。棚の整理をしながら、新しく届いた忘れものの確認をしていた。

「久世さんの詩集、図書室に戻していいですか」

 詩乃が聞くと、灯里は頷いた。

「返却は完了したと思います」

「真澄さんが、冊子を作って、図書館に寄贈してくれました」

 灯里は手を止めた。

「冊子を」

「はい。千鶴子さんへの手紙のつもりで作ったと言っていました。届かないけれど、作ること自体が返事になると」

 灯里はしばらく、詩乃を見ていた。

「……そういうことが、あるんですね」

 その言葉は、久世真澄への言葉でもあり、自分自身への言葉でもあるように、詩乃には聞こえた。

「灯里さん」

「はい」

「昨夜、話しかけてしまってすみませんでした。返せなかったことがある、と言いかけたところで、止まってしまったから」

「謝らなくていいです。わたしが言ったことです」

「でも、無理に聞こうとしました」

「無理ではなかった」

 灯里は棚に向き直った。少し間を置いてから、続けた。

「今夜は、少し話せるかもしれません」

 詩乃は何も言わなかった。促さなかった。栞丸も、棚の上で丸まったまま、目を閉じていた。

 灯里は棚の整理をしながら、穏やかな声で話し始めた。目を合わせずに、棚を見たまま話すのが、灯里の話し方だと詩乃は思った。

「中学生の頃、幼なじみがいました。花村透子という子です」

「はい」

「二人で、物語を書いていました。一冊のノートを回して、交互に続きを書く。そういう遊びです。学校の昼休みや、放課後や、週末に。かなり長い間、続けていました」

 灯里の声は一定だった。でも、その言葉の選び方が、いつもより少しだけ時間をかけていた。

「透子は、話を作るのが上手でした。わたしより想像力があって、登場人物に名前をつけるのが好きで。わたしは、文章を整えるのが得意でした。透子が作った場面を、きれいな言葉に直す。二人で、そういう役割だった」

「楽しそうですね」

「楽しかったです。あの頃が、わたしが一番、言葉を自由に使えていた時期だと思います」

 灯里は一冊のノートを棚から取り出した。詩乃には触れさせなかった。自分の手の中で、大切そうに抱えた。

「高校に上がる前、透子の家庭の事情で、町を離れることになりました。急なことで、二人でほとんど話せないまま、その日が来た。透子は最後に、わたしにノートを渡しました」

「そのノート、ですか」

「はい。中を見ると、透子の字で書いてありました。続きを書いて、と。それだけでなく、透子からわたしへの言葉も。本音みたいな言葉が、物語の中に紛れ込ませてありました。透子は大事なことを、物語に隠して書く子でしたから」

 灯里はノートを棚に戻した。

「わたしは、読みました。ちゃんと読みました。透子の言葉も、続きを書いてという願いも、全部分かった。でも、返事が書けなかった」

「なぜですか」

「何を書いても、透子を引き止める言葉になってしまいそうで。透子はもう町を出ると決まっていた。それなのに、続きを書いたら、ここに引き止めようとしているみたいになる。来なくていいと書いたら、突き放しているみたいになる。どの言葉も、本当のことを言えない気がして」

 詩乃は黙って聞いた。

「そのまま時間が経って、返事を書けないまま、ノートは手元に残りました。返せなかったノートが、忘れもの図書室に届いたのは、わたしが夜間司書になってすぐのことです」

「忘れもの図書室に、届いたんですか。灯里さん自身の忘れものが」

「夜間司書は、自分の忘れものと向き合うことになる場合がある、と前任の方に言われていました。わたしのが届いた時、前任の方はもう別の土地にいた。わたし一人でした」

 灯里の声が、ほんのわずかだけ揺れた。

「それから三年、返せないまま、ここに置いています」

 詩乃はしばらく、何も言わなかった。

 栞丸が目を開けた。詩乃と目が合ったが、何も言わなかった。

「灯里さんは、透子さんを裏切ったと思っていますか」

 詩乃が尋ねると、灯里は少し長い沈黙のあとで答えた。

「思っています。今も」

「でも」

 詩乃は続けた。

「久世さんのことを聞いて、少し思ったんです。久世さんは、千鶴子さんへの約束を果たせなかった。でも、詩集が戻ってきて、冊子を作った。それは、果たせなかった約束の続きを、別の形でやった、ということだと思って」

「それが、わたしにどう関係しますか」

「返事を書けなかったことは、変えられません。でも、今の灯里さんの言葉で、今の返事を書くことは、できるかもしれない」

 灯里は答えなかった。

 詩乃も、続けなかった。 

 これ以上は、押しすぎる。今度は、灯里自身が言葉を見つけるのを待つ番だった。

 しばらく、静かな時間が続いた。

 地下の部屋は、いつもの静けさだった。棚に並んだ忘れものたちが、それぞれの時間を待っている。

「詩乃さん」

 灯里が呼んだ。

「はい」

「わたしが、返せなかった経験をした理由が、少し分かった気がします」

「どういうことですか」

「正しい言葉を探しているうちに、言えなくなる。わたしはずっとそうしてきた。透子への返事も、そのせいで書けなかった。夜間司書の仕事でも、正しい返却を考えすぎて、返すべき時を逃すことがある」

「はい」

「あなたは危なっかしい。踏み込みすぎる。でも、わたしが見落としていたところを、見ている」

 詩乃は胸の中が、じんわりと温かくなった。

 灯里がそう言うのを、詩乃は待っていたわけではなかった。でも、言われると、それが本当のことだと分かった。

「わたしたちは、お互いに補っているんですかね」

「そうかもしれません」

「心強いです」

 灯里は何も言わなかった。でも、棚に向いていた体が、ほんのわずかだけ詩乃の方に傾いた気がした。気がしただけかもしれない。でも詩乃は、それを確かめなかった。

 その夜の作業の終わりに、灯里が言った。

「透子は、今も生きています。別の土地にいます。連絡は、取っていません」

「はい」

「……返せると思いますか。今から」

 詩乃は少し考えた。

 久世真澄のことを思い出した。四十年越しの約束の続きを、一人で冊子にした人のことを。

「返せると思います」

「根拠は」

「灯里さんが、今夜ここまで話せたことです」

 灯里はすぐには答えなかった。

 窓のない地下の部屋で、二人はしばらくそのままでいた。

 栞丸がそっと、一言だけ言った。

「忘れものはな、持ち主より先に泣いておることがあるのじゃ」

 誰に向けた言葉か、詩乃には分かった。灯里にも、分かったはずだった。

 灯里は何も言わなかった。

 ただ、ノートの置いてある棚の方を、少しだけ長く見ていた。

 詩乃は帰り支度をしながら、今夜のことを胸の中に置いた。

 急かさない。でも、待つだけでもいない。灯里の「いつか」が、少しずつ近づいている。


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