第十話 透子という名前
十月になった。
図書館の窓から見える街路樹が、少しずつ色を変え始めた。銀杏が黄色くなり、桜の葉が赤みを帯びる。図書館の中は温度が一定だが、利用者が持ち込む空気が秋の匂いになっていく。
詩乃は昼間の業務をこなしながら、閉館後の仕事との二重生活にもすっかり慣れ、今ではどちらも同じ一日の中にあるように感じていた。昼の図書館と夜の図書室は、違う場所ではなく、同じ場所の昼と夜だ。
灯里との距離は、初めて名前で呼ばれた夜からほんの少し縮まっていた。
灯里は今も普段は「倉橋さん」と呼ぶし、声の温度は一定だし、カウンターに並んで立っていても一定の間隔を保っている。でも、たまに詩乃を見る時間が長くなった。詩乃が何か言いかけると、以前より早く顔を向ける。そういう小さな変化が、積み重なっていた。
真澄の手製の詩集は、エントランスの小さな棚に置いてもらえることになった。律子が額に入れて飾ることを提案し、真澄は少し照れながら承諾した。今はエントランスを入ってすぐの目立つ場所に、水色の表紙の冊子が飾られている。真澄は毎日それを見てから、新聞コーナーへ向かう。
ある午後、律子に呼ばれた。
「少し話しませんか」
律子の部屋は、館長室というほど大げさな場所ではなく、書庫の隣の小さな部屋だった。本棚と小さな机と、二脚の椅子。窓から中庭が見える。
「お茶、飲みますか」
「いただきます」
律子は小さなポットでお茶を淹れた。ほうじ茶の香りが部屋に広がった。
「倉橋さんが来てから、もう三ヶ月ですね」
「はい。早いような、長かったような気がします」
「慣れましたか」
「昼間の仕事は慣れました」
詩乃は正直に答えた。律子は「昼間の、と言いましたね」と言って、少し口角を上げた。
「夜間のことは、瀬尾さんから少し聞いています」
「灯里さんから、ですか」
「私に隠す必要はない、と瀬尾さんも知っていますから。倉橋さんが見習いになったことも、久世さんのこともおおまかには」
詩乃は少し安心した。律子が知っている、ということは、知った上であえて何も言わずにいたということだ。
「館長は、昔、夜間司書だったんですか」
「よく知っていますね」
「栞丸から少しだけ聞きました」
「栞丸は余計なことを言う」
律子はそう言ったが、怒っている声ではなかった。むしろ懐かしそうだった。
「三十年ほど前のことです。私が若い頃、この図書館で働き始めて、忘れもの図書室を知った。十年ほど夜間司書をして、次の人に引き継いで、今は見守る側にいます」
「返せなかった忘れものは、ありましたか」
詩乃は聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。でも律子は気にする様子もなかった。
「ありました。でも、時間がかかっただけで、最終的には返せました。時間がかかることと、返せないことは、違います」
「灯里さんのことも、見えていますか」
「見えています」
律子はお茶を一口飲んだ。
「瀬尾さんは、真面目すぎる。正しくあろうとしすぎる。それがあの子の強さでもあり、返せなくなる理由でもある。私には分かります。私も、似たようなところがありましたから」
「灯里さんを、助けてあげられないんですか」
「助ける、というのは違う。あの子が自分で返すのを、待っている。ただ、一人でなくてもいいということを、分かってほしいとは思っていました」
律子は詩乃を見た。
「倉橋さんが来てから、瀬尾さんが少し変わりました。私には、それが見えます」
詩乃は返す言葉が見つからなかった。
「いい変化だと思っています」
律子はそれだけ言って、お茶を勧めた。
その夜、地下に下りると、灯里がすでに棚の整理をしていた。
詩乃は隣に立って、一緒に作業を始めた。しばらく二人で、黙って働いた。棚を拭いて、忘れものの状態を確認して、新しく届いたものを記録する。
「灯里さん」
「はい」
「今日、館長と話しました」
「何を話しましたか」
「灯里さんが少し変わったと言っていました」
灯里の手が一瞬止まり、また動いた。
「そうですか」
「わたしも、そう思います」
「どのように変わりましたか」
詩乃は少し考えた。
「言葉が、前より早く出てくるようになった気がします。考えすぎてから言うのではなく、考えながら言う、みたいな感じで」
灯里はしばらく黙っていた。
「……そうかもしれません」
「いい変化だと思います」
「あなたのせいです」
灯里がそう言った。責めているのではなく、ただ事実として言っている声だった。でも詩乃は、その言葉をうまく受け取れなくて、少し笑った。
「わたしは何もしていません」
「あなたは、わたしが言いかけて止まる前に、もう聞いています。だから、言葉が出やすい」
詩乃は、その言葉を聞いて黙った。
それは詩乃が意識してやっていたことではなかった。ただ、灯里の話し方を見ていると、言いかけた言葉の形が見えることがある。だから待つ。それだけのことだった。
「灯里さん」
「はい」
「透子さんのこと、少し聞いていいですか」
灯里は手を止めた。今度は長く止まった。でも、嫌そうではなかった。
「……何を聞きたいですか」
「透子さんは、今どんな人ですか。灯里さんから見て」
灯里は棚を見たまま、少し考えた。
「明るい人です。話すのが好きで、笑い声が大きくて、大事なことを物語に隠して書く。今もそうかどうかは分かりません。わたしが知っているのは、中学生の頃の透子です」
「連絡を取ろうと思ったことは、ありますか」
「あります。何度も」
「でも」
「でも、何を言えばいいか分からなくて、止まる」
詩乃は頷いた。正しい言葉を探して、言えなくなる。それが灯里のいつものことだと、今の詩乃には分かる。
「わたしも、似たようなことがあります。小説を書いていた頃のことです。大学の時に、一度だけ新人賞に応募したことがあって」
灯里が詩乃を見た。今まで詩乃がこの話を自分から始めたことは、なかった。
「落選しました。落選自体は仕方ないと思っていた。でも、その前後に、知人から何気なく言われた一言があって、それからうまく書けなくなりました」
「どんな一言ですか」
「そういう夢を見る年齢じゃない、と」
灯里は何も言わなかった。言わないことが、ちゃんと聞いている印だと詩乃には分かった。
「言った本人は、たぶん悪気がなかった。心配して言ったのかもしれない。でもわたしには、それが自分の書くものを全部否定されたように聞こえて。それから、書こうとすると、その言葉が先に来るようになって、書けなくなりました」
「今も、書けないままですか」
「はい。書こうとすると、止まります」
灯里はしばらく、詩乃を見ていた。
「わたしと同じですね」
「はい。言葉が出てくる前に、何かが邪魔をする」
「透子が町を出る前に言っておけばよかった言葉が、何だったのか、今でも分かりません。でも、言えなかったことは、ずっとわたしの中にある」
「それは、消えないんですか」
「消えません。ただ、消えないことが、悪いことなのかどうかも、最近は分からなくなっています」
詩乃は棚に向き直った。灯里も向き直った。二人で並んで、棚を整理した。
しばらく経って、詩乃が言った。
「書けなくなったわたしと、返せなくなった灯里さんは、同じところにいる気がします」
「同じところ」
「止まっている場所。でも、止まっていることと、終わっていることは、違う」
灯里は答えなかった。
でも今夜の沈黙は、以前の沈黙と違う種類だった。閉じている沈黙ではなく、考えている沈黙だった。
その夜の終わりに、新しい忘れものが届いた。
栞丸が棚の前で、小さくくしゃみをした。
「届いたのじゃ」
詩乃が近づいた。棚の一段目に、薄い冊子があった。大学の文芸サークルが作るような、簡素なつくりの文芸誌。表紙に、大学名と発行年が書いてある。
詩乃には見覚えがあった。
いや、正確には、見覚えがあるような気がした。発行年を見た。自分が大学二年生の時の年だった。
「これ」
「触れてみるのじゃ」
詩乃は文芸誌に触れた。
声が聞こえた。
自分の声だった。
まだ少し硬い、でも何かを信じていた頃の自分の声が、文字を読み上げていた。書いたものを、誰かに読んでもらうことを、まだ怖いと思う前の声だった。
詩乃は文芸誌から手を離した。
手が、わずかに震えていた。
「栞丸、これは」
「持ち主は近いのじゃ」
栞丸の声は、穏やかだった。
「近い、というのは」
「今夜ここにいる者の忘れものじゃ」
詩乃は文芸誌を見た。
自分の忘れものが、届いた。
灯里は詩乃の様子を見ていた。詩乃が動けないでいると、灯里が隣に立った。文芸誌を見た。表紙の発行年を確認した。
「倉橋さんの、ですか」
「たぶん」
「触れた時、何が聞こえましたか」
「自分の声が。書いていた頃の」
灯里はしばらく黙っていた。
「今夜は、戻しておきましょう」
「はい」
「急がなくていいです」
その言葉が、以前に詩乃が灯里に言ったことと同じだと、二人とも気づいていた。
詩乃は文芸誌を棚に戻した。棚の中で、文芸誌は静かに収まった。急かすような気配はなかった。ただ、待っている。
地上に戻る時、詩乃はいつもより少しだけゆっくりと階段を上がった。灯里が後ろにいた。
カウンターの前まで来た時、灯里が言った。
「倉橋さん」
「はい」
「あなたが書けなくなった理由になった言葉、言ったのは誰ですか」
詩乃は少し迷ってから、答えた。
「大学の知人です。佐鳥悠馬という人」
「今も連絡がありますか」
「ありません。でも、同じ地元なので、会うことはあるかもしれない」
灯里はそれ以上聞かなかった。
ただ、「そうですか」とだけ言った。
詩乃は荷物を持って、エントランスへ向かった。
夜風は少し冷たくなっていた。十月の夜だった。
自分の忘れものが届いた。
それがこれから何を意味するのか、詩乃にはまだ分からない。でも、届いた、ということは、返せる時が来ているということかもしれない。
返せる時が来ている。
でも、返す準備が、まだできていない。
それでいい、と今夜は思おうとした。
ただ、あの文芸誌の中に残っていた、あの頃の自分の声が、耳のそばをまだ離れなかった。




