第十一話 倉橋詩乃の落選作
文芸誌が届いてから、詩乃は地下に下りるたびに、その棚を避けるようになっていた。
意識してではなかった。でも気づくと、棚の整理をする時に、文芸誌のある段だけ後回しにしている。栞丸が何も言わないから、本人も気づいていないのかもしれない。でも栞丸はたぶん気づいている。栞丸は気づいた上で、言わない時がある。それが栞丸の優しさだと、詩乃は最近になって分かってきた。
十月の半ば、詩乃は昼間の返却作業をしていた。
火曜の午前は利用者が少ない。返却棚に積まれた本をカートに乗せ、それぞれの棚へ戻していく。この作業は、詩乃が今でも一番好きな業務だった。本を正しい場所に戻すことの、単純な満足がある。
文芸書の棚の前に来た時、詩乃はカートを止めた。
返却された本の中に、大学の文芸誌と似た装丁の冊子が一冊あった。地元の文学サークルが出している同人誌で、図書館が定期的に受け入れているものだった。返却期限のスタンプが押してある。誰かが借りて、返した。
詩乃はそれを棚に戻しながら、隣の棚を見た。詩の本、小説、エッセイ。言葉が並んでいる場所。
書けなくなって、三年が経つ。
あの文芸誌が届いてから、その事実がいつもより近い場所にある。
昼過ぎ、一人の男性が図書館に入ってきた。
二十代後半くらいで、薄いジャケットを着ていた。入り口で少し立ち止まって、館内を見回してから、カウンターへ向かってきた。
詩乃は返却カートを戻しながら、その人を見た。
見た瞬間、足が止まった。
佐鳥悠馬だった。
大学時代の知人。詩乃が小説を書けなくなったきっかけに関わっている人。地元に帰ってから一度も会っていなかった。会わないように、ではなく、ただそうなっていた。
佐鳥は詩乃に気づいていなかった。カウンターで灯里に何かを聞いていた。灯里が答えて、棚の方向を示す。佐鳥はお礼を言って、文芸書のコーナーへ向かった。
詩乃はカートの後ろで、少し動けなかった。
灯里が詩乃を見た。目が合った。灯里はすぐに状況を把握したようだった。表情は変えなかった。ただ、小さく頷いた。それだけで詩乃には、大丈夫ですかという意味だと分かった。
大丈夫かどうかは、まだ分からなかった。
佐鳥は文芸書の棚の前に立って、背表紙を眺めていた。詩乃はカートを押しながら、その棚とは別の場所へ移動した。距離を置いた。
しばらくして、佐鳥がカウンターへ戻った。
「すみません、もう一つ聞いてもいいですか。大学の文芸誌のバックナンバーって、置いていますか」
灯里が答える声が聞こえた。
「大学名と、いつ頃のものか分かりますか。県内の大学で、十年以内のものなら何冊かあります。閲覧室に」
「ありがとうございます」
佐鳥は閲覧室へ向かった。詩乃はその背中を見ていた。
なぜここに来たのか、はっきり分かった。昔の文芸誌を探している。昔の文芸誌の中に、詩乃の書いたものが載っている。
詩乃はそこまで考えて、止まった。
佐鳥は詩乃を探しに来たわけではない。文芸誌を探しに来た。詩乃のことを目的にしているわけではない。それだけは分かった。
でも、なぜか胸が重かった。
閉館の一時間前、佐鳥がまた動いた。今度は詩乃の方へ来た。
「あの、すみません」
詩乃は振り向いた。
「倉橋さん?」
佐鳥が言った。目が大きくなった。本当に驚いている顔だった。
「……佐鳥くん」
「やっぱり。ここで働いてるの?」
「はい」
「そっか。知らなかった。びっくりした」
佐鳥は笑った。嫌な笑い方ではなかった。ただの、久しぶりに知っている人に会った時の笑い方だった。
「元気?」
「はい、おかげさまで」
「俺も地元に戻ってきて、もう一年くらいになるかな。倉橋さん、まだ書いてると思ってた」
その言葉が来た瞬間、詩乃の中で何かが静止した。
まだ書いてると思ってた。
悪意はない。それは分かる。久しぶりに会った知人への、自然な言葉だ。でも詩乃には、その言葉がゆっくりと、胸の奥に沈んでいった。
「書いていないです」
「そうなんだ。なんで?」
なんで、と聞く声にも、悪意はなかった。それが余計に、詩乃には応えた。悪意があれば反論できる。でも悪意のない「なんで?」には、返す言葉を見つけにくい。
「いろいろあって」
「そっか。もったいないと思うけど」
もったいない。
その言葉も、善意から来ていた。それは分かる。でも詩乃には、善意の言葉が時々、悪意の言葉より深く刺さることがある。
「佐鳥くんは、文芸誌を探しに来たんですか?」
詩乃は話題を変えた。
「うん、昔の同人誌が一冊手元にないやつがあって。大学の文芸部が出してたやつ。倉橋さんも書いてたよね、確か」
「はい」
「図書館に寄贈されてたりするかと思って。懐かしくて」
懐かしくて、と佐鳥は言った。
懐かしい、という言葉で収まるものが、詩乃にはあの頃から今まで、ずっと続いている。懐かしいではなく、今もそこにある。
「見つかりましたか」
「惜しくて、一冊だけなかった。また来てみます」
「はい」
「倉橋さんも、またいつか書いてみたらいいと思うよ。向いてると思うから」
佐鳥はそう言って、手を振って出て行った。
詩乃は、その背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
灯里が近づいてきた。
声はかけなかった。ただ、並んで立った。
「大丈夫ですか」
少し経ってから、灯里が尋ねた。
「……分からないです」
「佐鳥さんでしたか」
「はい」
「悪い人ではなさそうでした」
「悪い人じゃないんです。それが、困るところで」
灯里は頷いた。
「悪意のない言葉が、残ることがある。相手は忘れていても、こちらには残り続ける」
「はい」
「あなたが書けなくなったきっかけは、佐鳥さんの言葉だけではないと思います」
詩乃は灯里を見た。
「書くことを怖いと思う理由が、別にあったのではないですか。佐鳥さんの言葉は、そこに当たっただけで」
詩乃は少し考えた。
「……あるかもしれません。落選した時に、もう自分には無理だと思っていた。佐鳥くんの言葉は、そこに落ちてきた、みたいな感じで」
「それを、佐鳥さんのせいにしてきましたか」
厳しい問いではなかった。確かめる問いだった。
「してきたかもしれません。そうした方が、楽だったから」
「相手は忘れていても、自分の中では残り続ける傷がある。それはあなたのものです。佐鳥さんのものではない」
詩乃はその言葉を聞いた。胸の奥の方が少し痛くなった。痛いということは、当たっているということだ。
その夜、地下に下りた。
栞丸がいた。珍しく棚の上ではなく、床の上に座っていた。文芸誌のある棚の前だった。
「新米司書、今日は来ると思っておったのじゃ」
「……来ました」
「顔が、いつもと違う」
「今日、佐鳥くんが来ました」
「それが、書けなくなった理由の人か」
「はい」
栞丸はしばらく詩乃を見た。
「触れるか」
文芸誌のことだ、と分かった。
「……触れてみます」
詩乃は棚の前に座った。文芸誌を両手で取り出した。
表紙を見た。大学名。発行年。シンプルな装丁。
触れると、また声が聞こえた。
あの頃の自分の声。でも今日は、別のものも聞こえた。声の後ろに、何かがある。文字を書く音ではなく、もっと静かな音。鉛筆が紙を押す時の、かすかな音。何かを信じながら書いている時の、音。
詩乃は目を閉じた。
あの頃、書くことが好きだった。好きだったから、落選が怖かった。好きだったから、誰かの一言が刺さった。好きだから、止まると痛い。
「栞丸」
「なんじゃ」
「これ、わたしに返さないといけないですか」
「意味が分からんのじゃが」
「自分の忘れものを、自分に返す、ということが、できるのかと思って」
栞丸は少し考えた。
「他の人の忘れものを返すのとは、違う話じゃ。自分の忘れものは、自分で向き合うしかない。われたちが返せるものではない」
「じゃあ、なぜここに届いたんですか」
「気づいてほしかったのじゃろう」
「誰が」
「おぬし自身が、じゃ」
詩乃は文芸誌を膝の上に置いた。
「わたし自身が、気づいてほしかった」
「忘れもの図書室に届く忘れものは、持ち主がどこかで待っているものじゃ。持ち主が、返してほしいと思っているものじゃ。新米司書の忘れものが届いたのは、新米司書自身が、そろそろ向き合いたいと思い始めているからじゃ」
詩乃は文芸誌を見た。
表紙の下に、自分の名前が載っているページがあるはずだった。開けなかった。今夜は、まだ開けられない。
「今夜は、戻してもいいですか」
「もちろんじゃ。急くことはない」
栞丸は詩乃の隣に来て、ちょこんと座った。
「ただ、新米司書」
「はい」
「佐鳥とかいう者の言葉が、おぬしを止めたのか」
「止まる理由に、なりました」
「では聞くが、その者がいなければ、書き続けていたか」
詩乃は答えられなかった。
「落選した時、すでに怖かったのではないか。続けることが。本当に好きかどうか試されている気がして、怖かったのではないか」
「……そうかもしれません」
「ならば、止めた理由は、その者の言葉だけではない。おぬし自身が、止まる場所を探していた部分もある」
詩乃はそれを聞いて、しばらく何も言えなかった。
灯里も、今日似たことを言った。佐鳥の言葉は、そこに当たっただけかもしれないと。
「それは、わたしが弱かったということですか」
「違うのじゃ」
栞丸は少し声を低くした。
「好きなものを続けることは、怖いのじゃ。誰にとっても。怖いから、止まる場所を探す。それは弱さではなく、好きであることの重さじゃ。好きでなければ、怖くもない」
詩乃は文芸誌を棚に戻した。
棚の中で、文芸誌はまた静かに収まった。
「栞丸、最後に一つだけ」
「なんじゃ」
「書き始めたら、また止まりますか」
「知らん。われには分からん」
「正直ですね」
「嘘をついても意味がない」
栞丸は棚の上に戻りながら言った。
「ただ、止まることと、やめることは違う。止まっても、また動けばいい。それだけじゃ」
詩乃は立ち上がって、部屋を出た。
地上への階段を上がりながら、詩乃は栞丸の言葉を考えた。
それは、書くことだけの話ではない。
灯里のノートのことでもある。真澄の約束のことでもある。忘れもの図書室にある、たくさんの忘れものたちのことでもある。
カウンターに戻ると、灯里がまだいた。
「今日は遅くまでいるんですか」
「少し記録を付けていました」
灯里は手元の記録帳から顔を上げた。
「大丈夫でしたか、地下は」
「触れました、文芸誌に」
「どうでしたか」
「まだ開けられなかったです。でも、少し分かったことがありました」
「何が」
「止まっていた理由が、佐鳥くんの言葉だけではなかったということです。わたし自身が、止まる場所を探していた部分があった」
灯里は記録帳を閉じた。
「それが分かったことで、どうなりますか」
「向き合う相手が、変わります。佐鳥くんではなく、自分自身に向き合わないといけない」
「それは」
「怖いです。佐鳥くんを理由にしている方が、ずっと楽でした」
灯里はしばらく詩乃を見ていた。
「でも、気づいた」
「はい」
「それは、大事なことだと思います」
詩乃は荷物を持った。今夜は早く帰って、少しだけ考えたかった。
「灯里さん」
「はい」
「佐鳥くんが言っていました。まだ書いてると思ってた、と」
「聞こえていました」
「その言葉が、さっきまでは痛かったんですけど」
「今は」
「今は……少しだけ、別の聞こえ方がします。あの人は、わたしのことを書く人だと思っていた。わたしが書けなくなったことを、知らなかった」
「それが、どういう意味を持ちますか」
詩乃は少し考えた。
「わたしが書けなくなったことは、わたしの中でのことで、外から見えているわけではなかった、ということかもしれなくて。止まっていたのは、わたしの中だけだった」
灯里はその言葉を聞いて、何も言わなかった。
でも、記録帳をもう一度開いて、何かを書き足した。詩乃には見えなかった。
「お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
詩乃はエントランスを出た。
夜の空気は冷たかった。
止まっていたのは、わたしの中だけだった。
その言葉が、歩きながら少しずつ、別のかたちになっていく気がした。
まだ書けていない。
でも、向き合う相手が、少し変わった。
それだけで今夜は、一歩だと思うことにした。




