表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/18

第十一話 倉橋詩乃の落選作

 文芸誌が届いてから、詩乃は地下に下りるたびに、その棚を避けるようになっていた。

 意識してではなかった。でも気づくと、棚の整理をする時に、文芸誌のある段だけ後回しにしている。栞丸が何も言わないから、本人も気づいていないのかもしれない。でも栞丸はたぶん気づいている。栞丸は気づいた上で、言わない時がある。それが栞丸の優しさだと、詩乃は最近になって分かってきた。

 十月の半ば、詩乃は昼間の返却作業をしていた。

 火曜の午前は利用者が少ない。返却棚に積まれた本をカートに乗せ、それぞれの棚へ戻していく。この作業は、詩乃が今でも一番好きな業務だった。本を正しい場所に戻すことの、単純な満足がある。

 文芸書の棚の前に来た時、詩乃はカートを止めた。

 返却された本の中に、大学の文芸誌と似た装丁の冊子が一冊あった。地元の文学サークルが出している同人誌で、図書館が定期的に受け入れているものだった。返却期限のスタンプが押してある。誰かが借りて、返した。

 詩乃はそれを棚に戻しながら、隣の棚を見た。詩の本、小説、エッセイ。言葉が並んでいる場所。

 書けなくなって、三年が経つ。

 あの文芸誌が届いてから、その事実がいつもより近い場所にある。


 昼過ぎ、一人の男性が図書館に入ってきた。

 二十代後半くらいで、薄いジャケットを着ていた。入り口で少し立ち止まって、館内を見回してから、カウンターへ向かってきた。

 詩乃は返却カートを戻しながら、その人を見た。

 見た瞬間、足が止まった。

 佐鳥悠馬だった。

 大学時代の知人。詩乃が小説を書けなくなったきっかけに関わっている人。地元に帰ってから一度も会っていなかった。会わないように、ではなく、ただそうなっていた。

 佐鳥は詩乃に気づいていなかった。カウンターで灯里に何かを聞いていた。灯里が答えて、棚の方向を示す。佐鳥はお礼を言って、文芸書のコーナーへ向かった。

 詩乃はカートの後ろで、少し動けなかった。

 灯里が詩乃を見た。目が合った。灯里はすぐに状況を把握したようだった。表情は変えなかった。ただ、小さく頷いた。それだけで詩乃には、大丈夫ですかという意味だと分かった。

 大丈夫かどうかは、まだ分からなかった。

 佐鳥は文芸書の棚の前に立って、背表紙を眺めていた。詩乃はカートを押しながら、その棚とは別の場所へ移動した。距離を置いた。

 しばらくして、佐鳥がカウンターへ戻った。

「すみません、もう一つ聞いてもいいですか。大学の文芸誌のバックナンバーって、置いていますか」

 灯里が答える声が聞こえた。

「大学名と、いつ頃のものか分かりますか。県内の大学で、十年以内のものなら何冊かあります。閲覧室に」

「ありがとうございます」

 佐鳥は閲覧室へ向かった。詩乃はその背中を見ていた。

 なぜここに来たのか、はっきり分かった。昔の文芸誌を探している。昔の文芸誌の中に、詩乃の書いたものが載っている。

 詩乃はそこまで考えて、止まった。

 佐鳥は詩乃を探しに来たわけではない。文芸誌を探しに来た。詩乃のことを目的にしているわけではない。それだけは分かった。

 でも、なぜか胸が重かった。


 閉館の一時間前、佐鳥がまた動いた。今度は詩乃の方へ来た。

「あの、すみません」

 詩乃は振り向いた。

「倉橋さん?」

 佐鳥が言った。目が大きくなった。本当に驚いている顔だった。

「……佐鳥くん」

「やっぱり。ここで働いてるの?」

「はい」

「そっか。知らなかった。びっくりした」

 佐鳥は笑った。嫌な笑い方ではなかった。ただの、久しぶりに知っている人に会った時の笑い方だった。

「元気?」

「はい、おかげさまで」

「俺も地元に戻ってきて、もう一年くらいになるかな。倉橋さん、まだ書いてると思ってた」

 その言葉が来た瞬間、詩乃の中で何かが静止した。

 まだ書いてると思ってた。

 悪意はない。それは分かる。久しぶりに会った知人への、自然な言葉だ。でも詩乃には、その言葉がゆっくりと、胸の奥に沈んでいった。

「書いていないです」

「そうなんだ。なんで?」

 なんで、と聞く声にも、悪意はなかった。それが余計に、詩乃には応えた。悪意があれば反論できる。でも悪意のない「なんで?」には、返す言葉を見つけにくい。

「いろいろあって」

「そっか。もったいないと思うけど」

 もったいない。

 その言葉も、善意から来ていた。それは分かる。でも詩乃には、善意の言葉が時々、悪意の言葉より深く刺さることがある。

「佐鳥くんは、文芸誌を探しに来たんですか?」

 詩乃は話題を変えた。

「うん、昔の同人誌が一冊手元にないやつがあって。大学の文芸部が出してたやつ。倉橋さんも書いてたよね、確か」

「はい」

「図書館に寄贈されてたりするかと思って。懐かしくて」

 懐かしくて、と佐鳥は言った。

 懐かしい、という言葉で収まるものが、詩乃にはあの頃から今まで、ずっと続いている。懐かしいではなく、今もそこにある。

「見つかりましたか」

「惜しくて、一冊だけなかった。また来てみます」

「はい」

「倉橋さんも、またいつか書いてみたらいいと思うよ。向いてると思うから」

 佐鳥はそう言って、手を振って出て行った。

 詩乃は、その背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。

 灯里が近づいてきた。

 声はかけなかった。ただ、並んで立った。

「大丈夫ですか」

 少し経ってから、灯里が尋ねた。

「……分からないです」

「佐鳥さんでしたか」

「はい」

「悪い人ではなさそうでした」

「悪い人じゃないんです。それが、困るところで」

 灯里は頷いた。

「悪意のない言葉が、残ることがある。相手は忘れていても、こちらには残り続ける」

「はい」

「あなたが書けなくなったきっかけは、佐鳥さんの言葉だけではないと思います」

 詩乃は灯里を見た。

「書くことを怖いと思う理由が、別にあったのではないですか。佐鳥さんの言葉は、そこに当たっただけで」

 詩乃は少し考えた。

「……あるかもしれません。落選した時に、もう自分には無理だと思っていた。佐鳥くんの言葉は、そこに落ちてきた、みたいな感じで」

「それを、佐鳥さんのせいにしてきましたか」

 厳しい問いではなかった。確かめる問いだった。

「してきたかもしれません。そうした方が、楽だったから」

「相手は忘れていても、自分の中では残り続ける傷がある。それはあなたのものです。佐鳥さんのものではない」

 詩乃はその言葉を聞いた。胸の奥の方が少し痛くなった。痛いということは、当たっているということだ。


 その夜、地下に下りた。

 栞丸がいた。珍しく棚の上ではなく、床の上に座っていた。文芸誌のある棚の前だった。

「新米司書、今日は来ると思っておったのじゃ」

「……来ました」

「顔が、いつもと違う」

「今日、佐鳥くんが来ました」

「それが、書けなくなった理由の人か」

「はい」

 栞丸はしばらく詩乃を見た。

「触れるか」

 文芸誌のことだ、と分かった。

「……触れてみます」

 詩乃は棚の前に座った。文芸誌を両手で取り出した。

 表紙を見た。大学名。発行年。シンプルな装丁。

 触れると、また声が聞こえた。

 あの頃の自分の声。でも今日は、別のものも聞こえた。声の後ろに、何かがある。文字を書く音ではなく、もっと静かな音。鉛筆が紙を押す時の、かすかな音。何かを信じながら書いている時の、音。

 詩乃は目を閉じた。

 あの頃、書くことが好きだった。好きだったから、落選が怖かった。好きだったから、誰かの一言が刺さった。好きだから、止まると痛い。

「栞丸」

「なんじゃ」

「これ、わたしに返さないといけないですか」

「意味が分からんのじゃが」

「自分の忘れものを、自分に返す、ということが、できるのかと思って」

 栞丸は少し考えた。

「他の人の忘れものを返すのとは、違う話じゃ。自分の忘れものは、自分で向き合うしかない。われたちが返せるものではない」

「じゃあ、なぜここに届いたんですか」

「気づいてほしかったのじゃろう」

「誰が」

「おぬし自身が、じゃ」

 詩乃は文芸誌を膝の上に置いた。

「わたし自身が、気づいてほしかった」

「忘れもの図書室に届く忘れものは、持ち主がどこかで待っているものじゃ。持ち主が、返してほしいと思っているものじゃ。新米司書の忘れものが届いたのは、新米司書自身が、そろそろ向き合いたいと思い始めているからじゃ」

 詩乃は文芸誌を見た。

 表紙の下に、自分の名前が載っているページがあるはずだった。開けなかった。今夜は、まだ開けられない。

「今夜は、戻してもいいですか」

「もちろんじゃ。急くことはない」

 栞丸は詩乃の隣に来て、ちょこんと座った。

「ただ、新米司書」

「はい」

「佐鳥とかいう者の言葉が、おぬしを止めたのか」

「止まる理由に、なりました」

「では聞くが、その者がいなければ、書き続けていたか」

 詩乃は答えられなかった。

「落選した時、すでに怖かったのではないか。続けることが。本当に好きかどうか試されている気がして、怖かったのではないか」

「……そうかもしれません」

「ならば、止めた理由は、その者の言葉だけではない。おぬし自身が、止まる場所を探していた部分もある」

 詩乃はそれを聞いて、しばらく何も言えなかった。

 灯里も、今日似たことを言った。佐鳥の言葉は、そこに当たっただけかもしれないと。

「それは、わたしが弱かったということですか」

「違うのじゃ」

 栞丸は少し声を低くした。

「好きなものを続けることは、怖いのじゃ。誰にとっても。怖いから、止まる場所を探す。それは弱さではなく、好きであることの重さじゃ。好きでなければ、怖くもない」

 詩乃は文芸誌を棚に戻した。

 棚の中で、文芸誌はまた静かに収まった。

「栞丸、最後に一つだけ」

「なんじゃ」

「書き始めたら、また止まりますか」

「知らん。われには分からん」

「正直ですね」

「嘘をついても意味がない」

 栞丸は棚の上に戻りながら言った。

「ただ、止まることと、やめることは違う。止まっても、また動けばいい。それだけじゃ」

 詩乃は立ち上がって、部屋を出た。


 地上への階段を上がりながら、詩乃は栞丸の言葉を考えた。

 それは、書くことだけの話ではない。

 灯里のノートのことでもある。真澄の約束のことでもある。忘れもの図書室にある、たくさんの忘れものたちのことでもある。

 カウンターに戻ると、灯里がまだいた。

「今日は遅くまでいるんですか」

「少し記録を付けていました」

 灯里は手元の記録帳から顔を上げた。

「大丈夫でしたか、地下は」

「触れました、文芸誌に」

「どうでしたか」

「まだ開けられなかったです。でも、少し分かったことがありました」

「何が」

「止まっていた理由が、佐鳥くんの言葉だけではなかったということです。わたし自身が、止まる場所を探していた部分があった」

 灯里は記録帳を閉じた。

「それが分かったことで、どうなりますか」

「向き合う相手が、変わります。佐鳥くんではなく、自分自身に向き合わないといけない」

「それは」

「怖いです。佐鳥くんを理由にしている方が、ずっと楽でした」

 灯里はしばらく詩乃を見ていた。

「でも、気づいた」

「はい」

「それは、大事なことだと思います」

 詩乃は荷物を持った。今夜は早く帰って、少しだけ考えたかった。

「灯里さん」

「はい」

「佐鳥くんが言っていました。まだ書いてると思ってた、と」

「聞こえていました」

「その言葉が、さっきまでは痛かったんですけど」

「今は」

「今は……少しだけ、別の聞こえ方がします。あの人は、わたしのことを書く人だと思っていた。わたしが書けなくなったことを、知らなかった」

「それが、どういう意味を持ちますか」

 詩乃は少し考えた。

「わたしが書けなくなったことは、わたしの中でのことで、外から見えているわけではなかった、ということかもしれなくて。止まっていたのは、わたしの中だけだった」

 灯里はその言葉を聞いて、何も言わなかった。

 でも、記録帳をもう一度開いて、何かを書き足した。詩乃には見えなかった。

「お先に失礼します」

「お疲れ様でした」

 詩乃はエントランスを出た。

 夜の空気は冷たかった。

 止まっていたのは、わたしの中だけだった。

 その言葉が、歩きながら少しずつ、別のかたちになっていく気がした。

 まだ書けていない。

 でも、向き合う相手が、少し変わった。

 それだけで今夜は、一歩だと思うことにした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ