第十二話 相手は忘れていても
佐鳥が図書館に来た翌日から、詩乃は三日間、忘れもの図書室に入らなかった。
入らなかった、というより、入れなかった。閉館後の作業を終えて、地下書庫への扉の前まで来て、鍵を取り出して、でも開けずに戻る。そういうことが、三日続いた。
灯里は何も言わなかった。
一日目は「今夜はいいですよ」と言った。二日目も「無理しなくていいです」と言った。三日目は何も言わなかった。それが一番、詩乃には応えた。何も言わないことの方が、気にされている。
栞丸がポケットに入り込んできたのは、二日目の夜だった。
「新米司書、何日休むつもりじゃ」
「休んでいるわけじゃないです」
「では何をしておるのじゃ」
「……考えています」
「考えるなら地下でも考えられるのじゃ」
「地下だと、あの棚が目に入るので」
「目に入るのが嫌か」
「嫌というより、まだ向き合えなくて」
栞丸はしばらく黙った。それからポケットの中で丸まった。
「明日、下りるのじゃ。われが待っておる」
それだけ言って、寝た。
四日目の夜、詩乃は地下に下りた。
灯里は、今夜は先に上がっていた。詩乃一人だった。
忘れもの図書室の扉を開けると、栞丸が棚の上で待っていた。約束通りだった。
「来たのじゃ」
「来ました」
「触れるか」
「……まだ、今夜は」
「触れなくていい」
栞丸はあっさりと言った。
「ただ、同じ部屋にいることはできるじゃろう」
「それなら」
「棚を拭け。手を動かせば、落ち着く」
詩乃は布巾を手に取って、棚を拭き始めた。文芸誌のある棚は後回しにした。栞丸はそれを見ていたが、何も言わなかった。
棚を拭きながら、詩乃は考えた。
佐鳥の言葉が、まだ胸の中にある。悪意のない言葉が、残っている。相手はたぶん、あの日のことをもう覚えていない。図書館で詩乃と会ったことは覚えているだろうが、どんな言葉を交わしたかは、たいして気にしていないはずだ。
相手は忘れていても、こちらには残り続ける。
灯里が言っていた言葉だった。でも今、それは詩乃自身のこととして、ここにある。
「栞丸」
「なんじゃ」
「忘れてほしい、と思うことは、よくないですか」
「何を忘れてほしいのじゃ」
「佐鳥くんに。あの日言ったことを。でも、あの人はたぶんもう忘れている」
「忘れてほしいと思うことは、自然なことじゃ。ただ」
栞丸は前足を組んだ。
「忘れてほしいのか、謝ってほしいのか、どちらじゃ」
詩乃は手を止めた。
「……謝ってほしいかどうか、分からないです」
「分からないなら、まだ整理がついていないということじゃ。整理がつくまで、待てばいい」
「整理がつかないまま、ずっと止まっているかもしれないです」
「それもある。ただ、止まっていることは、おぬしが思うより悪いことではない」
「なぜですか」
「止まっている間も、おぬしの中で何かが動いておるからじゃ。今この部屋に下りてきたことも、棚を拭いていることも、動いていることじゃ」
詩乃は布巾を動かした。棚の木の感触が、手のひらに伝わる。
その夜、帰り際に灯里と廊下で会った。灯里はまだ館内に残っていたらしく、コートを着ていた。
「下りましたか」
「下りました」
「どうでしたか」
「棚を拭いていました」
灯里はわずかに目を細めた。笑ったのかもしれない。灯里が笑うと目が細くなるだけで、口はほとんど動かない。詩乃がそれに気づいたのは、最近のことだった。
「それでいいと思います」
「佐鳥くんのことが、まだ整理できていなくて」
「急かしていません」
「でも、忘れもの図書室の仕事から離れてしまって」
「三日くらいは離れていい」
「灯里さんは、離れたことがありますか?」
灯里は少し考えた。
「夜間司書を引き継いだ直後、一週間離れたことがあります」
「何があったんですか」
「最初に返した忘れものが、うまくいかなかったんです。返すべきでない形で返してしまって、持ち主を傷つけた。その時に、一週間、扉を開けられなかった」
「でも戻ってきた」
「前任の方に連絡して、話を聞いてもらいました。それで、戻れました」
詩乃は灯里を見た。
「今、灯里さんに話を聞いてもらっています」
「そうですね」
「だから、わたしも戻れると思います」
灯里はまた目を細めた。今度は詩乃にも、それが笑っているのだとはっきり分かった。
翌週、詩乃は少しずつ地下に戻った。
文芸誌には触れなかった。でも、同じ部屋で別の忘れものの整理をしながら、少しずつその存在に慣れようとした。
そしてある夜、灯里が珍しく先に話しかけた。
「倉橋さん、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「佐鳥さんと、もう一度話すつもりはありますか」
詩乃は少し考えた。
「佐鳥くんはまた来ると言っていました。前回、探していた文芸誌が見つからなかったので」
「来た時に、話しますか」
「……話すべきか、分かりません。あの人は何もしていない、という気もして」
「何もしていない、というのは」
「悪意がなかった。わたしを傷つけようとしていたわけではない。それなのに、わたしが勝手に傷ついた、という見方もできる」
「その見方は、正しいと思いますか」
「……正しくはないと思います。傷ついたことは本当のことで、勝手かどうかという話ではない」
「そうです」
灯里は少し強めに言った。強め、といっても灯里の場合はわずかな強さだったが、詩乃には届いた。
「傷ついたことに、正しいも勝手もない。あなたが傷ついたことは、事実です。その事実を、軽く扱わなくていい」
詩乃は黙った。
自分の傷を軽く扱う。それが詩乃の癖だと、灯里は見ていたのだろう。
「ただ」
灯里が続けた。
「向き合うべき相手が、佐鳥さんなのかどうかは、別の話です」
「灯里さんも言っていましたよね。佐鳥くんの言葉は、そこに当たっただけかもしれないと」
「あなた自身が、書くことを怖いと思っていた。その怖さに向き合うことが、本当の問いだと思います」
「それは……難しいです」
「難しい。でも、あなたはもう、問いに気づいています。気づいていない頃より、ずっと近い」
詩乃はその夜、帰り道でずっとそのことを考えた。
向き合うべき相手が、佐鳥ではなく自分自身だとしたら、どうすればいいのか。自分自身に向き合うとは、何をすることなのか。
書いてみることかもしれない、と思った。
書いて、また怖くなって、止まるかもしれない。
それでも、また動けばいい。栞丸の言葉を、詩乃は思い出した。
まだ書けない。でも、書けないと決めてもいない。
その間のどこかに、今の詩乃はいる。
その夜、詩乃は家で古いノートを開いた。
真っ白なページが一枚、目の前にあった。
ペンを持つ。日付を書こうとして、手が止まる。
何を書けばいいのか分からなかった。物語の始まり方を、昔は知っていた気がする。でも今は、最初の一文が遠かった。
詩乃はペン先を紙につけた。
黒い点だけが、ページに残った。
それでも、何も書かなかった昨日とは違う。
詩乃はノートを閉じずに、机の上に置いたままにした。
十一月に入った週の水曜日、佐鳥が図書館に来た。
詩乃は返却作業をしていた。佐鳥がカウンターに来て、灯里と話しているのが見えた。今日は文芸誌が見つかったらしく、コピーの手続きをしていた。
帰り際に、佐鳥が詩乃の方へ来た。
「また来ちゃった」
「いらっしゃいませ」
「例の文芸誌、コピーさせてもらえました。助かった」
「よかったです」
「倉橋さんの書いたの、載ってたよ。読んだ」
詩乃の手が止まった。
「短編だよね。主人公が、言えなかった言葉を手紙に書くやつ」
「……はい」
「よかったと思う。ちゃんと読んだよ。なんで書くのやめたんだろって、改めて思った」
詩乃はしばらく、返す言葉を探した。探して、見つからなかった。代わりに、別のことが口から出た。
「佐鳥くんに聞いてもいいですか」
「うん」
「大学の時に、わたしに言ったことを覚えていますか。そういう夢を見る年齢じゃない、という言葉を」
佐鳥の表情が変わった。笑っていた顔が、少し固まった。
「……言ったっけ」
「言いました。落選した後に」
「そうか」
佐鳥は少し考えた。
「覚えてないけど、言ったなら言ったんだろうな。ごめん」
「謝ってもらいたかったわけでは」
「いや、謝る。そんなつもりで言ったんじゃなかった、って言うのも違うよな。言ったことは言ったことだから」
佐鳥は真剣な顔をしていた。軽い人ではなかった。ただ、あの頃は軽かった。それだけのことだ、と詩乃には分かった。
「ごめん。今さらだけど、ちゃんと謝りたい」
「……ありがとうございます」
「倉橋さんが書くのやめたのは、それが理由?」
「理由の一つでした。でも、それだけじゃなかったとも、最近思っています」
「そっか」
佐鳥は少し間を置いた。
「また書けるといいな。倉橋さんの書いたもの、ちゃんと面白かったから」
それだけ言って、佐鳥は出て行った。
詩乃は、今度はすぐに動けた。三日前とは違った。
灯里が近づいてきた。
「聞こえていました」
「はい」
「どうでしたか」
「謝ってもらえました。でも……謝ってもらったら、楽になるかと思っていたんですが」
「楽になりましたか」
「少しは。でも、それより、佐鳥くんのことを理由にしていた分が、なくなった感じがして」
「向き合うべきものが、はっきりしましたか」
「はい。自分自身と、書くことと。そこから、もう逃げられない気がして」
灯里はしばらく詩乃を見ていた。
「逃げられない、は怖いですか」
「怖いです。でも、前より少しだけ、怖さの種類が変わった気がします」
「どう変わりましたか」
「前は、できないかもしれないという怖さでした。今は、やってみてどうなるかという怖さです」
灯里は小さく頷いた。
「それは、前に進んでいます」
その夜、詩乃は地下に下りた。
栞丸がいた。詩乃が来ると、棚の上から降りてきた。
「今日、佐鳥と話したのじゃろう。匂いがする」
「はい。謝ってもらいました」
「すっきりしたか」
「少し。でも、佐鳥くんに謝ってもらうことが、ゴールではなかったと分かりました」
「うむ」
「向き合うべきは、自分自身だということも」
「うむ」
「だから、今夜触れてみようと思います」
栞丸は何も言わなかった。ただ、少し体を起こして、詩乃の方を向いた。
詩乃は棚の前に立った。文芸誌を取り出した。
表紙を見た。それから、ゆっくりと開いた。
目次があった。いくつかの名前が並んでいる。詩乃の名前も、あった。
ページをめくった。
自分の書いたものが、そこにあった。タイトルは「言葉の地図」。主人公が、言えなかった言葉を手紙に書く話。佐鳥が「よかった」と言っていた、あの短編だった。
詩乃は最初の一行を読んだ。
声が聞こえた。
あの頃の自分の声だった。でも今日は、怖い声ではなかった。まだ何かを信じていた頃の声。書くことで、誰かに届けようとしていた頃の声。
詩乃はページを閉じた。閉じてから、また少し開いた。最初の一行だけ、もう一度読んだ。
棚に戻した。
「今日はここまでです」
「よいのじゃ」
「全部読めなかった」
「全部読む必要はない。今夜は、開けただけでじゅうぶんじゃ」
詩乃は立ち上がった。部屋を出る前に、栞丸を見た。
「栞丸」
「なんじゃ」
「棚が、さっきより少し軽くなった気がするのは、気のせいですか」
栞丸はひげをひくひくと動かした。
「気のせいではないのじゃ」
「わたし一人の文芸誌で、そんなに変わるんですか」
「一つの忘れものが動けば、全体が少し動く。棚はつながっておるのじゃ」
詩乃はもう一度、部屋を見渡した。棚に並んだ忘れもの。それぞれが、それぞれの時間を待っている。
その夜、地上に戻ると、灯里がコートを着て待っていた。
「一緒に帰りますか」
灯里が言った。珍しかった。今まで一緒に帰ったことはなかった。
「はい」
二人でエントランスを出た。外は冷たかった。十一月の夜気が、息を白くした。
しばらく並んで歩いた。詩乃の家と灯里の家は、途中まで同じ方向だった。
「灯里さん」
「はい」
「今夜、文芸誌を開けました」
「全部読みましたか」
「最初の一行だけ」
「それでじゅうぶんです」
並んで歩きながら、詩乃は空を見た。今夜は星が出ていた。
「灯里さんは、透子さんに連絡を取ろうと思っていますか」
聞いてから、また踏み込みすぎたかと思った。でも灯里は止まらなかった。歩きながら答えた。
「思っています。最近、ずっと考えています」
「何が、変わりましたか」
「久世さんのこと。真澄さんが、届かない手紙を書いた。届かなくても、書くことが返事になると言った。それを聞いてから、わたしの中で何かが変わった気がします」
「届かなくても、書くことが返事になる」
「透子に連絡して、何を言えばいいのか、まだ分かりません。でも、何かを言わなければいけない、という気持ちは、前より強くなっています」
詩乃は少し考えてから言った。
「灯里さん。わたしは、そばにいます」
「はい」
「返す時に、一人でなくていいです」
灯里は歩きながら、少し顔を上げた。夜空を見た。
「……ありがとうございます」
二人の息が、白く、夜気に溶けた。
角を曲がるところで、道が分かれた。
「ここで」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
灯里は歩いていった。詩乃は少しの間、その背中を見ていた。
今夜、忘れもの図書室の棚が、少し軽くなった。文芸誌を開けたことで。佐鳥と話したことで。灯里と一緒に帰ったことで。
どれが理由かは分からない。たぶん全部が理由だ。
詩乃は歩き始めた。
ポケットの中で、栞丸がくしゃみをした。
「風邪をひいたのじゃないのじゃ。空気が変わった匂いがしただけじゃ」
「空気が変わりましたか」
「少しだけのじゃ。でも、変わったのじゃ」
詩乃は夜空を見上げた。
星が出ていた。
十一月の、冷たい空に。




