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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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12/18

第十二話 相手は忘れていても

 佐鳥が図書館に来た翌日から、詩乃は三日間、忘れもの図書室に入らなかった。

 入らなかった、というより、入れなかった。閉館後の作業を終えて、地下書庫への扉の前まで来て、鍵を取り出して、でも開けずに戻る。そういうことが、三日続いた。

 灯里は何も言わなかった。

 一日目は「今夜はいいですよ」と言った。二日目も「無理しなくていいです」と言った。三日目は何も言わなかった。それが一番、詩乃には応えた。何も言わないことの方が、気にされている。

 栞丸がポケットに入り込んできたのは、二日目の夜だった。

「新米司書、何日休むつもりじゃ」

「休んでいるわけじゃないです」

「では何をしておるのじゃ」

「……考えています」

「考えるなら地下でも考えられるのじゃ」

「地下だと、あの棚が目に入るので」

「目に入るのが嫌か」

「嫌というより、まだ向き合えなくて」

 栞丸はしばらく黙った。それからポケットの中で丸まった。

「明日、下りるのじゃ。われが待っておる」

 それだけ言って、寝た。


 四日目の夜、詩乃は地下に下りた。

 灯里は、今夜は先に上がっていた。詩乃一人だった。

 忘れもの図書室の扉を開けると、栞丸が棚の上で待っていた。約束通りだった。

「来たのじゃ」

「来ました」

「触れるか」

「……まだ、今夜は」

「触れなくていい」

 栞丸はあっさりと言った。

「ただ、同じ部屋にいることはできるじゃろう」

「それなら」

「棚を拭け。手を動かせば、落ち着く」

 詩乃は布巾を手に取って、棚を拭き始めた。文芸誌のある棚は後回しにした。栞丸はそれを見ていたが、何も言わなかった。

 棚を拭きながら、詩乃は考えた。

 佐鳥の言葉が、まだ胸の中にある。悪意のない言葉が、残っている。相手はたぶん、あの日のことをもう覚えていない。図書館で詩乃と会ったことは覚えているだろうが、どんな言葉を交わしたかは、たいして気にしていないはずだ。

 相手は忘れていても、こちらには残り続ける。

 灯里が言っていた言葉だった。でも今、それは詩乃自身のこととして、ここにある。

「栞丸」

「なんじゃ」

「忘れてほしい、と思うことは、よくないですか」

「何を忘れてほしいのじゃ」

「佐鳥くんに。あの日言ったことを。でも、あの人はたぶんもう忘れている」

「忘れてほしいと思うことは、自然なことじゃ。ただ」

 栞丸は前足を組んだ。

「忘れてほしいのか、謝ってほしいのか、どちらじゃ」

 詩乃は手を止めた。

「……謝ってほしいかどうか、分からないです」

「分からないなら、まだ整理がついていないということじゃ。整理がつくまで、待てばいい」

「整理がつかないまま、ずっと止まっているかもしれないです」

「それもある。ただ、止まっていることは、おぬしが思うより悪いことではない」

「なぜですか」

「止まっている間も、おぬしの中で何かが動いておるからじゃ。今この部屋に下りてきたことも、棚を拭いていることも、動いていることじゃ」

 詩乃は布巾を動かした。棚の木の感触が、手のひらに伝わる。


 その夜、帰り際に灯里と廊下で会った。灯里はまだ館内に残っていたらしく、コートを着ていた。

「下りましたか」

「下りました」

「どうでしたか」

「棚を拭いていました」

 灯里はわずかに目を細めた。笑ったのかもしれない。灯里が笑うと目が細くなるだけで、口はほとんど動かない。詩乃がそれに気づいたのは、最近のことだった。

「それでいいと思います」

「佐鳥くんのことが、まだ整理できていなくて」

「急かしていません」

「でも、忘れもの図書室の仕事から離れてしまって」

「三日くらいは離れていい」

「灯里さんは、離れたことがありますか?」

 灯里は少し考えた。

「夜間司書を引き継いだ直後、一週間離れたことがあります」

「何があったんですか」

「最初に返した忘れものが、うまくいかなかったんです。返すべきでない形で返してしまって、持ち主を傷つけた。その時に、一週間、扉を開けられなかった」

「でも戻ってきた」

「前任の方に連絡して、話を聞いてもらいました。それで、戻れました」

 詩乃は灯里を見た。

「今、灯里さんに話を聞いてもらっています」

「そうですね」

「だから、わたしも戻れると思います」

 灯里はまた目を細めた。今度は詩乃にも、それが笑っているのだとはっきり分かった。


 翌週、詩乃は少しずつ地下に戻った。

 文芸誌には触れなかった。でも、同じ部屋で別の忘れものの整理をしながら、少しずつその存在に慣れようとした。

 そしてある夜、灯里が珍しく先に話しかけた。

「倉橋さん、一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「佐鳥さんと、もう一度話すつもりはありますか」

 詩乃は少し考えた。

「佐鳥くんはまた来ると言っていました。前回、探していた文芸誌が見つからなかったので」

「来た時に、話しますか」

「……話すべきか、分かりません。あの人は何もしていない、という気もして」

「何もしていない、というのは」

「悪意がなかった。わたしを傷つけようとしていたわけではない。それなのに、わたしが勝手に傷ついた、という見方もできる」

「その見方は、正しいと思いますか」

「……正しくはないと思います。傷ついたことは本当のことで、勝手かどうかという話ではない」

「そうです」

 灯里は少し強めに言った。強め、といっても灯里の場合はわずかな強さだったが、詩乃には届いた。

「傷ついたことに、正しいも勝手もない。あなたが傷ついたことは、事実です。その事実を、軽く扱わなくていい」

 詩乃は黙った。

 自分の傷を軽く扱う。それが詩乃の癖だと、灯里は見ていたのだろう。

「ただ」

 灯里が続けた。

「向き合うべき相手が、佐鳥さんなのかどうかは、別の話です」

「灯里さんも言っていましたよね。佐鳥くんの言葉は、そこに当たっただけかもしれないと」

「あなた自身が、書くことを怖いと思っていた。その怖さに向き合うことが、本当の問いだと思います」

「それは……難しいです」

「難しい。でも、あなたはもう、問いに気づいています。気づいていない頃より、ずっと近い」

 詩乃はその夜、帰り道でずっとそのことを考えた。

 向き合うべき相手が、佐鳥ではなく自分自身だとしたら、どうすればいいのか。自分自身に向き合うとは、何をすることなのか。

 書いてみることかもしれない、と思った。

 書いて、また怖くなって、止まるかもしれない。

 それでも、また動けばいい。栞丸の言葉を、詩乃は思い出した。

 まだ書けない。でも、書けないと決めてもいない。

 その間のどこかに、今の詩乃はいる。


 その夜、詩乃は家で古いノートを開いた。

 真っ白なページが一枚、目の前にあった。

 ペンを持つ。日付を書こうとして、手が止まる。

 何を書けばいいのか分からなかった。物語の始まり方を、昔は知っていた気がする。でも今は、最初の一文が遠かった。

 詩乃はペン先を紙につけた。

 黒い点だけが、ページに残った。

 それでも、何も書かなかった昨日とは違う。

 詩乃はノートを閉じずに、机の上に置いたままにした。


 十一月に入った週の水曜日、佐鳥が図書館に来た。

 詩乃は返却作業をしていた。佐鳥がカウンターに来て、灯里と話しているのが見えた。今日は文芸誌が見つかったらしく、コピーの手続きをしていた。

 帰り際に、佐鳥が詩乃の方へ来た。

「また来ちゃった」

「いらっしゃいませ」

「例の文芸誌、コピーさせてもらえました。助かった」

「よかったです」

「倉橋さんの書いたの、載ってたよ。読んだ」

 詩乃の手が止まった。

「短編だよね。主人公が、言えなかった言葉を手紙に書くやつ」

「……はい」

「よかったと思う。ちゃんと読んだよ。なんで書くのやめたんだろって、改めて思った」

 詩乃はしばらく、返す言葉を探した。探して、見つからなかった。代わりに、別のことが口から出た。

「佐鳥くんに聞いてもいいですか」

「うん」

「大学の時に、わたしに言ったことを覚えていますか。そういう夢を見る年齢じゃない、という言葉を」

 佐鳥の表情が変わった。笑っていた顔が、少し固まった。

「……言ったっけ」

「言いました。落選した後に」

「そうか」

 佐鳥は少し考えた。

「覚えてないけど、言ったなら言ったんだろうな。ごめん」

「謝ってもらいたかったわけでは」

「いや、謝る。そんなつもりで言ったんじゃなかった、って言うのも違うよな。言ったことは言ったことだから」

 佐鳥は真剣な顔をしていた。軽い人ではなかった。ただ、あの頃は軽かった。それだけのことだ、と詩乃には分かった。

「ごめん。今さらだけど、ちゃんと謝りたい」

「……ありがとうございます」

「倉橋さんが書くのやめたのは、それが理由?」

「理由の一つでした。でも、それだけじゃなかったとも、最近思っています」

「そっか」

 佐鳥は少し間を置いた。

「また書けるといいな。倉橋さんの書いたもの、ちゃんと面白かったから」

 それだけ言って、佐鳥は出て行った。

 詩乃は、今度はすぐに動けた。三日前とは違った。

 灯里が近づいてきた。

「聞こえていました」

「はい」

「どうでしたか」

「謝ってもらえました。でも……謝ってもらったら、楽になるかと思っていたんですが」

「楽になりましたか」

「少しは。でも、それより、佐鳥くんのことを理由にしていた分が、なくなった感じがして」

「向き合うべきものが、はっきりしましたか」

「はい。自分自身と、書くことと。そこから、もう逃げられない気がして」

 灯里はしばらく詩乃を見ていた。

「逃げられない、は怖いですか」

「怖いです。でも、前より少しだけ、怖さの種類が変わった気がします」

「どう変わりましたか」

「前は、できないかもしれないという怖さでした。今は、やってみてどうなるかという怖さです」

 灯里は小さく頷いた。

「それは、前に進んでいます」

 その夜、詩乃は地下に下りた。

 栞丸がいた。詩乃が来ると、棚の上から降りてきた。

「今日、佐鳥と話したのじゃろう。匂いがする」

「はい。謝ってもらいました」

「すっきりしたか」

「少し。でも、佐鳥くんに謝ってもらうことが、ゴールではなかったと分かりました」

「うむ」

「向き合うべきは、自分自身だということも」

「うむ」

「だから、今夜触れてみようと思います」

 栞丸は何も言わなかった。ただ、少し体を起こして、詩乃の方を向いた。

 詩乃は棚の前に立った。文芸誌を取り出した。

 表紙を見た。それから、ゆっくりと開いた。

 目次があった。いくつかの名前が並んでいる。詩乃の名前も、あった。

 ページをめくった。

 自分の書いたものが、そこにあった。タイトルは「言葉の地図」。主人公が、言えなかった言葉を手紙に書く話。佐鳥が「よかった」と言っていた、あの短編だった。

 詩乃は最初の一行を読んだ。

 声が聞こえた。

 あの頃の自分の声だった。でも今日は、怖い声ではなかった。まだ何かを信じていた頃の声。書くことで、誰かに届けようとしていた頃の声。

 詩乃はページを閉じた。閉じてから、また少し開いた。最初の一行だけ、もう一度読んだ。

 棚に戻した。

「今日はここまでです」

「よいのじゃ」

「全部読めなかった」

「全部読む必要はない。今夜は、開けただけでじゅうぶんじゃ」

 詩乃は立ち上がった。部屋を出る前に、栞丸を見た。

「栞丸」

「なんじゃ」

「棚が、さっきより少し軽くなった気がするのは、気のせいですか」

 栞丸はひげをひくひくと動かした。

「気のせいではないのじゃ」

「わたし一人の文芸誌で、そんなに変わるんですか」

「一つの忘れものが動けば、全体が少し動く。棚はつながっておるのじゃ」

 詩乃はもう一度、部屋を見渡した。棚に並んだ忘れもの。それぞれが、それぞれの時間を待っている。

 その夜、地上に戻ると、灯里がコートを着て待っていた。

「一緒に帰りますか」

 灯里が言った。珍しかった。今まで一緒に帰ったことはなかった。

「はい」

 二人でエントランスを出た。外は冷たかった。十一月の夜気が、息を白くした。

 しばらく並んで歩いた。詩乃の家と灯里の家は、途中まで同じ方向だった。

「灯里さん」

「はい」

「今夜、文芸誌を開けました」

「全部読みましたか」

「最初の一行だけ」

「それでじゅうぶんです」

 並んで歩きながら、詩乃は空を見た。今夜は星が出ていた。

「灯里さんは、透子さんに連絡を取ろうと思っていますか」

 聞いてから、また踏み込みすぎたかと思った。でも灯里は止まらなかった。歩きながら答えた。

「思っています。最近、ずっと考えています」

「何が、変わりましたか」

「久世さんのこと。真澄さんが、届かない手紙を書いた。届かなくても、書くことが返事になると言った。それを聞いてから、わたしの中で何かが変わった気がします」

「届かなくても、書くことが返事になる」

「透子に連絡して、何を言えばいいのか、まだ分かりません。でも、何かを言わなければいけない、という気持ちは、前より強くなっています」

 詩乃は少し考えてから言った。

「灯里さん。わたしは、そばにいます」

「はい」

「返す時に、一人でなくていいです」

 灯里は歩きながら、少し顔を上げた。夜空を見た。

「……ありがとうございます」

 二人の息が、白く、夜気に溶けた。

 角を曲がるところで、道が分かれた。

「ここで」

「はい。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 灯里は歩いていった。詩乃は少しの間、その背中を見ていた。

 今夜、忘れもの図書室の棚が、少し軽くなった。文芸誌を開けたことで。佐鳥と話したことで。灯里と一緒に帰ったことで。

 どれが理由かは分からない。たぶん全部が理由だ。

 詩乃は歩き始めた。

 ポケットの中で、栞丸がくしゃみをした。

「風邪をひいたのじゃないのじゃ。空気が変わった匂いがしただけじゃ」

「空気が変わりましたか」

「少しだけのじゃ。でも、変わったのじゃ」

 詩乃は夜空を見上げた。

 星が出ていた。

 十一月の、冷たい空に。


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