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忘れもの図書室の夜間司書  作者: 明石竜


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第十三話 棚が鳴く夜

 十一月の半ばに、以前はかすかに聞こえるだけだった棚の軋みが、忘れもの図書室じゅうに響くようになった。 

 詩乃が地下に下りた時、まず気づいたのは空気だった。いつもと同じ古い紙の匂いに、何か別のものが混じっている。湿気ではない。温度でもない。もっと言葉にしにくい、何かが溜まりすぎている時の、重さに近い匂いだった。

 扉を開けた途端、部屋のあちこちから、きし、きし、と棚の軋む音が返ってきた。

 低い、木が鳴く音だった。誰かが棚を揺らしたわけではない。ただ、棚が自分で鳴いた。一回ではなく、少し間を置いて、何度も続いた。 

「栞丸」

 詩乃が呼ぶと、栞丸は棚の隅に座っていた。いつもの尊大な様子がなかった。体を小さくして、棚の軋む方向を見ていた。

「どうしたんですか、これ」

「重くなりすぎたのじゃ」

 栞丸の声は、いつもより低かった。

「重い、というのは」

「返されない忘れものが増えすぎた。棚が、重みに耐えられなくなっておる」

 詩乃は棚を見渡した。

 見た目は変わっていない。ノートも手紙も絵本も、昨日と同じように棚に収まっている。でも、今日はそれらが、ただ置いてあるのではなく、棚を押している気がした。

「どうすればいいんですか」

「返せるものを返すしかない。返されるたびに、棚は少し軽くなる。逆に、返せないものが溜まり続ければ、棚は閉じていく」

「閉じる、というのは」

「忘れもの図書室そのものが、閉じる。扉が開かなくなる。夜間司書が入れなくなる。そうなれば、ここにある忘れものたちは、永遠に返されないまま残る」

 詩乃は扉の方を振り返った。先ほど開けてきた、あの観音開きの扉。閉じたら、開かなくなる。

「前にも、こういうことがありましたか」

「あったのじゃ。律子が夜間司書だった頃に、一度。その時は、律子が大量の忘れものを短期間で返して、棚が落ち着いた。しかしその後も、少しずつ閉じる方に傾いてきた。堅物司書が引き継いでからは、特に」

「灯里さんのノートのせいですか」

「それだけではない。堅物司書は慎重すぎて、返せる忘れものも棚に置いたままにすることがある。一つひとつは小さくても、積み重なっておる」

 詩乃は棚の軋む音を聞いた。きし、きし、という音が続いている。

「今夜、灯里さんを呼んでいいですか」

「呼んだ方がいい。これは二人で対処すべきことじゃ」

 詩乃は地上に上がり、灯里を呼んだ。閉館後の作業をしていた灯里は、詩乃の顔を見た瞬間に何かを察した。

「地下ですか」

「はい。来てもらえますか」

 灯里は作業を中断して、詩乃についてきた。

 扉を開けた瞬間、灯里も音に気づいた。棚を見渡して、少し顔色が変わった。

「これは」

「栞丸は、返されない忘れものが増えすぎたと言っています」

「そうですか」

 灯里の声は一定だったが、その一定さに今夜は力が入っていた。

「前に一度あったと聞きました。律子さんが夜間司書だった頃に」

「わたしも聞いています。ただ、自分の任期中に起きるとは思っていなかった」

「思っていなかった、というのは」

「自分が返せないものを抱えていることが、これほど影響するとは、実感としては分かっていなかった、という意味です」

 灯里は自分のノートのある棚を見た。長く見た。

「灯里さん、それは」

「分かっています」

 灯里は棚から目を離した。

「わたしのノートが、棚の重みの一つになっている。それは事実です。でも、今夜すぐにどうにかなるものでもない」

「今夜できることは、何ですか」

「返せる忘れものを、今夜できるだけ確認する。そのうち、今すぐ返せそうなものに当たりをつける。一つずつ、減らしていく」

 それから二人で、棚を順に確認した。栞丸が匂いを嗅いで、持ち主の状況を伝える。灯里が判断して、詩乃が記録する。返せそうなものには印をつけた。


 一時間ほど経ったところで、栞丸が言った。

「律子を呼んだ方がいいのじゃ」

「館長を、ですか」

「これは律子も知るべきことじゃ。もともと知っておるかもしれんが」


 翌日の昼、詩乃は律子に話した。律子は詩乃の話を聞きながら、お茶をゆっくり飲んでいた。驚いた様子がなかった。

「知っていましたか」

「薄々は。あの部屋は、感じる人には感じるから。最近、空気が違うと思っていました」

「栞丸が、以前も一度あったと言っていました。律子さんが夜間司書だった頃に」

「ええ」

 律子はお茶を置いた。

「あの時は怖かったです。棚が軋んで、扉が固くなって。でも、たくさんの忘れものを返せて、落ち着いた」

「今回は、どうすればいいですか」

「同じことです。返せるものを返す。ただ」

 律子は窓の外を見た。

「一つ、大きな忘れものがある。それを返さないと、棚は軋み続けます」

 詩乃には分かった。灯里のノートのことだ。

「わたしには、どうにもできないことで」

「そうね。あなたにできることは、瀬尾さんのそばにいること。返す時に、一人にしないこと。それだけです」

「それだけ、でも」

「じゅうぶんよ」

 律子は穏やかに言った。

「私も、かつて一人で棚の重みを抱えていた時期があった。誰かがそばにいてくれたら、もう少し早く動けたかもしれない。あなたは瀬尾さんにとって、その誰かになっています」


 詩乃はその夜、地下に下りて灯里にそのことを話した。

「館長に話しました。返せるものを返していくこと、大きな忘れものが棚の重みになっていること」

「分かっています」

「灯里さん」

「はい」

「透子さんに、連絡を取ることを考えていると言っていましたよね」

「言いました」

「今は、どうですか」

 灯里はしばらく棚を見ていた。

「棚が鳴いているのを聞いて、現実として分かりました。わたしが抱えていることが、図書室に影響している。頭では分かっていたつもりでも、音を聞くまで、実感がなかった」

「それで」

「透子に連絡を取ります。時間をください」

「急かしているわけじゃないです」

「分かっています。でも、もう急かされなくても動かないといけない段階です。棚が教えてくれました」

 その夜、詩乃と灯里は二時間かけて、返せそうな忘れものを十二個選び出した。それぞれについて、誰に、どういう形で、いつ返すか、おおまかな方針を決めた。

 作業の終わり近くに、栞丸がぽつりと言った。

「棚の音が、少し静かになったのじゃ」

 詩乃は耳を澄ました。確かに、軋む間隔が長くなっていた。二秒に一度が、四秒に一度くらいになっている。

「返す方針を決めただけで、変わるんですか」

「忘れものは、持ち主が動き始めると感じるのじゃ。返されることが決まったわけではないが、夜間司書が向き合い始めた。それだけで、少し軽くなる」

「忘れものは、待っているんですね」

「じっと待っておるのじゃ。急かさずに、ただ待っておる」

 詩乃は棚を見渡した。

 待っている忘れもの。それぞれに、持ち主がいる。持ち主の人生のどこかに、置き去りにされた言葉や記憶や気持ちがある。それがここで、静かに待っている。

「わたしの文芸誌も、待っていますか」

「待っておるのじゃ。ただ、あれはわれたちが返すものではない。新米司書が自分で動くのを、待っておる」

「分かっています」

 地上に戻る時、灯里が扉の前で立ち止まった。

「倉橋さん」

「はい」

「棚が鳴いているのを、初めて聞いた時、怖かったですか」

「怖かったです」

「わたしも怖かった。三年前、夜間司書を引き継いでから、棚が軋んでいくのをずっと感じていた。でも直視できなかった」

「今は直視できていますか」

「今夜は、できました。あなたが隣にいたから」

 詩乃はその言葉を受け取った。

 隣にいること。それが自分の役割だと、律子も言っていた。

「灯里さん」

「はい」

「透子さんに連絡を取る時、教えてもらえますか」

「教えます」

「一緒にいます」

「……はい」


 翌朝、図書館の開館前に、律子が地下書庫へ続く扉の前に立っていた。

 詩乃は開館作業をしながら、それに気づいた。律子は扉に手を置き、しばらく何かを確かめるようにしていた。それから鍵を回すことなく、手を離した。

 戻ってきた律子と、詩乃の目が合った。 

「少し、落ち着きましたね」

「入らなくても、分かるんですか」

「扉越しでも、少しは。昔、この扉の向こうにいたから」

「昨夜、方針を決めました」 

「そう。よかった」

 律子は少し間を置いた。

「私も昔、忘れもの図書室にいた時、同じような夜がありました。棚が鳴いて、怖くて、でも向き合った夜」

「どうやって向き合えましたか」

「ここにある忘れものたちの声を、ちゃんと聞いたんです。軋む音は怖いけれど、その奥に声がある。待っている声が。それを聞いたら、怖さより、返したいという気持ちが勝ちました」

 詩乃は昨夜のことを思い出した。

 栞丸が「じっと待っておるのじゃ」と言っていた。急かさずに、ただ待っている。

「館長」

「何かしら」

「忘れもの図書室は、なくならないですか。棚が閉じてしまったら」

 律子はしばらく考えた。

「閉じたことは、私が知る限りなかった。軋んだことは何度かある。でも、その度に夜間司書が動いて、棚が落ち着いた。図書館がある限り、忘れもの図書室はあると思います」

「なぜですか」

「人が言葉を置き忘れる限り、それを返す場所が必要だからです。図書館は、その場所に一番向いている。本を預かる場所は、言葉も預かれる」

 詩乃はその言葉を、胸の中に置いた。


 その日の閉館後、詩乃は地下に一人で下りた。灯里は今夜は先に帰っていた。

 棚の音は、昨夜よりさらに静かになっていた。きし、という音は、今夜はほとんど聞こえなかった。

 栞丸が棚の上で待っていた。

「今夜は静かじゃ」

「昨夜より、ずっと静かですね」

「返す方針が決まると、忘れものが落ち着く。それと」

 栞丸は一度、棚の奥の方を見た。

「堅物司書が、動き始めた匂いがする」

「透子さんに、連絡を取り始めましたか」

「まだじゃろう。でも、動こうとしている。その気配を、忘れもの図書室は感じておる」

 詩乃は棚を見た。

 ノートがある棚。灯里が三年間、返せないままにしてきたもの。その棚が、今夜は少しだけ違う気がした。重さが、昨日より軽い。

「動こうとしているだけで、変わるんですね」

「変わるのじゃ。決意と行動の間に、もう一つ段階がある。向き合おうとすること、じゃ。それだけで、忘れものは少し緩む」

 詩乃は自分の文芸誌のある棚も見た。

「わたしの文芸誌は、昨夜より軽いですか」

「どう思うのじゃ。触れてみるのじゃ」

 詩乃は棚の前に立って、文芸誌を取り出した。

 触れると、声が聞こえた。あの頃の自分の声。でも今夜は、声の輪郭が少し変わっていた。怖さが薄くなっていた。

「昨夜より、近い気がします」

「それは、新米司書が近づいたのじゃ」

「わたしが近づいた」

「忘れものは動かない。動くのは、常に持ち主の方じゃ」

 詩乃は文芸誌を棚に戻した。

 返せるようになるのは、いつだろうと思った。でも、いつかは分からなくていい。向き合おうとしている。それが今夜の詩乃にできることだ。

 棚の音は、今夜はほとんどしなかった。

 棚は静かだった。静かに、待っていた。

 詩乃は部屋を出る前に、扉の近くに立って、もう一度棚全体を見渡した。

 たくさんの忘れものが、それぞれの時間の中にある。返されたもの。まだ返されていないもの。返せるかどうかまだ分からないもの。でもどれも、ここで静かに待っている。

 待つことは、諦めではない。

 詩乃には、今はそれが分かる。

 扉を閉めて、階段を上がった。

 地上の図書館は暗く静かだった。棚と棚のあいだに、今日一日の声が薄く積もっている。

 詩乃はエプロンを外しながら、今夜の栞丸の言葉を思い返した。

 動こうとすること。それだけで、忘れものは緩む。

 灯里が動こうとしている。

 詩乃も、動こうとしている。

 棚は、それを感じている。

 扉の外に出ると、十一月の夜は深く冷えていた。

 息が白くなった。

 ポケットの中で、栞丸がくしゃみをした。

「寒いのじゃ」

「ポケットの中にいれば暖かいでしょう」

「ここは暖かい。ただ、くしゃみが出たのじゃ」

「風邪ですか」

「われは風邪をひかない。ただ、空気が動いた時にくしゃみが出るのじゃ」

「空気が動いた」

「そうじゃ。今夜、この図書館の空気が、少し動いた」

 詩乃は振り返って、図書館の建物を見た。暗い窓。閉じた扉。でもその中に、地下の忘れもの図書室がある。棚が、静かに待っている。

「動いていきますよ、ちゃんと」

 詩乃は呟いた。栞丸への言葉でもあり、棚への言葉でもあり、自分自身への言葉でもあった。

 それから、家へ向かって歩き始めた。


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