第十四話 返事のないノート
十一月の終わりに、灯里が「今夜、話してもいいですか」と言った。
閉館後の作業が終わった頃だった。詩乃が返却カートを片づけていると、灯里がカウンターの内側から声をかけてきた。いつもの一定な声だったが、今夜はその一定さに、何か決めてきたものが混じっていた。
「もちろんです」
「地下で」
二人で階段を下りた。
忘れもの図書室の扉を開けると、栞丸がいた。棚の軋む音は、先週からほとんどしなくなっていた。返せる忘れものをいくつか返したことと、灯里が動こうとしていることで、棚が落ち着いてきたのだと詩乃は思っていた。
灯里はいつもの棚の整理を始めなかった。部屋の中央に立って、ノートのある棚を見た。詩乃は少し離れた場所に立って、灯里を見た。
「今夜は、あのノートの話をします」
「はい」
「倉橋さんには、少しずつ話してきましたが、まとめて話したことはなかった。話しておいた方がいいと思います。これからのために」
「聞かせてください」
栞丸は棚の隅に座って、目を閉じた。眠っているわけではなかった。聞いている時の、栞丸の姿勢だった。
灯里は棚を見たまま、話し始めた。
「わたしと透子が物語を書き始めたのは、中学一年の春でした。透子が、あるノートを持ってきて、ここから始めようと言った。透子は最初の一ページに、登場人物の名前と、物語の舞台だけを書いた。続きはわたしに渡した」
「どんな物語でしたか」
「海辺の町に住む二人の少女が、古い灯台を探す話でした。灯台の中に、何かが隠されているという噂があって、二人で探しに行く。単純な設定だったけれど、透子の作る場面は、いつも細部が鮮やかだった。風の匂いとか、石畳の色とか、登場人物が食べているものとか」
「灯里さんは、どんな部分を書いていたんですか」
「二人の会話と、場面の整理です。透子が書いた場面を受け取って、次の展開を繋げる役でした。わたしは新しい場面を作るのが得意ではなかったけれど、透子の書いたものを受けて、自然な流れにすることはできた」
灯里は少し間を置いた。
「三年間、続けました。ノートが一冊終わると、新しいノートを買って、続きを書いた。最終的に、五冊になりました。物語は完結しなかったけれど、五冊分の言葉が積み重なった」
「透子さんが町を離れる時、何冊持っていったんですか」
「最初の四冊は透子が持っていきました。わたしに渡したのは、五冊目。書きかけの、一番新しいノートでした」
灯里はようやく棚から目を離して、詩乃を見た。
「受け取った時、わたしは表紙しか見なかった。透子が去ってしまったことが、その時は一番大きくて、中を開ける気持ちになれなかった」
「いつ開けたんですか」
「一週間後です。透子が乗った電車が見えなくなってから、一週間経って、ようやく開けました」
「中には」
「物語の続きが書いてありました。透子の字で、最後まで書かれていた。五冊目の途中まではわたしと交互に書いていたのに、残りは透子が一人で書いていた。それだけで、透子がこのノートを渡す準備をしていたんだということが分かりました」
灯里の声は一定だった。でも今夜は、その一定さの下に、何かが流れているのが詩乃には聞こえた。
「物語の最後のページに、透子からの言葉がありました。物語の一部として書いてあったけれど、それが透子の本音だということは、すぐに分かりました。透子は大事なことを物語に隠して書く子でしたから」
「何が書いてありましたか?」
灯里は少し時間をかけた。
「主人公の少女が、灯台のてっぺんで、相棒の少女に言う言葉でした。遠くへ行っても、物語の続きを忘れないでほしい。わたしがいなくなっても、あなたが書いてくれたら、物語は続くから、と」
「それが、透子さんの言葉だった」
「そうです。物語の中の少女の言葉として書いてあったけれど、それはそのまま透子のわたしへの言葉でした。だから、返事を書こうとした」
「書けなかった」
「書けなかった。何を書いても、引き止めているみたいになる。去ってしまったことへの不満に見える。悲しいという言葉は、透子を責めているように感じた。大丈夫という言葉は、嘘になる。来てほしいも、来なくていいも、どちらも本当のことを言えていない気がして」
詩乃は黙って聞いた。
「正しい言葉を探しているうちに、時間が経った。一週間が一ヶ月になり、一ヶ月が一年になった。返事を書けないまま、ノートだけが手元に残った」
灯里はもう一度、棚のノートを見た。
「夜間司書を引き継いでから、ノートが忘れもの図書室に届きました。最初は驚きました。でも、考えてみれば当然でした。返せない言葉は、ここに届く。わたしが透子に返せなかった言葉が、形を持って届いた」
「届いてから、触れましたか」
「触れました。最初の夜に。声が聞こえました。透子の声が。物語を読み上げている声と、わたしへの言葉を書いている時の声が。どちらも、中学生の頃の透子の声でした」
「どうしましたか」
「棚に戻しました。それから三年、触れていません」
詩乃はその言葉を聞いた。三年間、同じ部屋にありながら、触れられなかった。毎夜ここに来て、棚の整理をして、でもそのノートだけは触れなかった。
「灯里さん」
「はい」
「今夜、触れてみますか」
灯里は答えなかった。答えないまま、棚に近づいた。ノートのある段の前に立った。
詩乃は動かなかった。
灯里が自分で決めることだ。詩乃は待った。
灯里の手が、棚に伸びた。
ゆっくりと、ノートを取り出した。古い、表紙が薄く日に焼けたノート。灯里と透子と書かれた背表紙。
灯里はそれを両手で持った。
しばらく、表紙を見ていた。
それから、目を閉じた。
詩乃には、灯里に何が聞こえているのか分からなかった。でも、灯里の体が、今夜は以前と違うことは分かった。固まっているのではなく、何かを受け取っている。
一分ほどして、灯里が目を開けた。
「透子の声が聞こえました」
「はい」
「三年前と同じ声でした。物語を読む声と、わたしへの言葉の声」
「はい」
「でも、今日は別のものも聞こえた」
灯里は詩乃を見た。
「声の後ろに、待っている気配がありました。急かしてはいない。ただ、待っている。三年間、ここで待っていた気配が」
「透子さんが、待っていた」
「ノートが、待っていた。透子の言葉が、返事を待っていた」
詩乃は胸が詰まった。泣くほどではないはずだった。でも、目の奥が熱くなった。
栞丸が棚の隅でそっと目を開けた。何も言わなかった。
「わたしは、何を怖れていたんだろうと思います」
灯里が言った。
「正しい言葉が見つからないことを怖れていた。でも、正しい言葉が見つからないまま三年経った。その三年間の方が、よほど何も言えていなかった」
「はい」
「透子は、正しい言葉を求めていたわけではないかもしれない。ただ、返事を求めていた。何かを求めていた。わたしが黙っていたことで、それが届かなかった」
「今の灯里さんの言葉で、返せると思います」
詩乃は言った。
「三年前の言葉ではなくていい。今の言葉で。書けなかった理由も、三年経ったことも、全部含めた今の言葉で」
灯里はノートを見た。
「透子に、連絡を取ります」
「はい」
「倉橋さんに言いました。教えると。一緒にいると言ってくれた」
「はい」
「今でも、そう思っていますか」
「思っています」
灯里は少し間を置いた。
「……今夜、連絡してみます」
詩乃は少し驚いた。今夜、とは思っていなかった。でも、灯里が決めたことだ。
「ここで、ですか」
「地上に上がってから。でも、ここで決めました」
灯里はノートを棚に戻した。戻す手つきが、今夜は三年間の中で一番丁寧だった。それを詩乃は見た。
「倉橋さん」
「はい」
「あなたは、書くことをまだ好きですか?」
詩乃は答えに迷った。迷ってから、正直に言うことにした。
「……好きです。止まったままだけど、好きかどうかと聞かれたら、好きです」
「それを、忘れないでください」
「はい」
「書けなくなったことと、好きであることは別のことです。わたしは透子への言葉を見つけられなかったことと、透子のことが大切だということを、ずっと混同していた気がします。できなかったことと、大切であることは別のことです」
詩乃はその言葉を聞いた。
書けなくなったことと、書くことが好きであることは、別のこと。
それは詩乃が、ずっと混同してきたことだった。書けなくなったから、好きではなくなったと思い込もうとしていた。そうした方が、楽だったから。
「灯里さん」
「はい」
「それは、灯里さん自身のことでもありますよね」
「そうかもしれません」
「返せなかったことと、透子さんが大切だということは、別のことだった」
灯里は少し長い沈黙のあとで、言った。
「今夜、ようやくそれが分かりました」
地上に上がった。
詩乃はカウンターの端に座って、灯里を見ていた。灯里はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。少し考えて、画面を操作した。
詩乃には、灯里が何をしているか分かった。
灯里はスマートフォンを伏せて置いた。
「送れば、返ってこない返事を待つことになります」
「返ってこないかもしれない、ということですか」
「はい。三年経っています。透子がもう、受け取らないと決めていてもおかしくない」
灯里はそう言ってから、少しだけ息を吐いた。
「それでも、送らないままなら、わたしはずっと、返事が来ない未来を怖がっているだけになります」
詩乃は何も言えなかった。
灯里の手は、送信ボタンの上で止まっていた。
待つことと、逃げることは違う。
その違いを、灯里自身が今、確かめようとしていた。
灯里が画面を操作した。
それから、スマートフォンをポケットに入れた。
「送りました」
灯里の声は、いつもの一定だった。でも今夜は、一定の中に何か別のものが混じっていた。終わったのではなく、始まった、という種類のものだった。
「何て送ったんですか」
「久しぶりです。元気ですか。それだけです」
「それだけですか」
「それだけです。正しい言葉はまだ見つかっていません。だから、まず扉を開けることにしました」
詩乃は少し笑った。
「扉を開けること」
「忘れもの図書室の扉と同じです。触れれば、開く」
栞丸が詩乃のポケットの中から言った。
「堅物司書が、気の利いたことを言うのじゃ」
「今夜は少しだけ、気が利いていますか」
「少しだけのじゃ」
灯里はポケットを見た。栞丸が顔を出しているのを確認して、また正面を向いた。
「返事が来るかどうか、分かりません」
「来なくても、送ったことは本物ですよ」
「……そうですね」
二人でエントランスを出た。今夜も一緒に帰ることになった。
外は冷たかった。十一月の終わりの夜だった。
しばらく歩いて、灯里のスマートフォンが鳴った。灯里が立ち止まって、画面を確認した。
少し間があった。
「返事が、来ました」
詩乃も立ち止まった。
「透子さんから?」
「はい」
灯里は画面を見た。詩乃には見えなかった。見なかった。
「何て書いてありましたか」
灯里はしばらく画面を見ていた。
「……久しぶり。今も同じ町にいるよ、と」
詩乃は少し目を見開いた。
「今も、同じ町に」
「透子が、戻ってきていました」
二人は夜の道に立ったまま、しばらく動かなかった。
冷たい空気の中で、息が白くなった。
栞丸がポケットの中でくしゃみをした。
「待ち人が、近くにいるのじゃ」
その一言だけだった。
灯里は画面を閉じて、スマートフォンをポケットに入れた。
顔は正面を向いていた。でも、その横顔が今夜は、詩乃が今まで見たことのない灯里の顔だった。
解けていた。
何かが、少しだけ解けていた。
「灯里さん」
「はい」
「よかったです」
灯里は少し間を置いた。
「……はい」
それだけだった。
でも、その「はい」は今夜の全部を含んでいた。
二人はまた歩き始めた。
十一月の夜道を、並んで。




