第十五話 花村透子は待っていない
透子から返事が来てから、一週間が経った。
その間、灯里と透子はいくつかのメッセージを交わした。詩乃はその内容を知らない。知ろうとしなかった。灯里が話してくれる分だけを聞いた。
灯里が話してくれたのは、三つのことだった。
透子は三ヶ月前に町に戻ってきたこと。今は町の外れにある実家に住んでいること。そして、灯里と会いたいと言っていること。
「会いに行きますか」
詩乃が聞くと、灯里は少し考えてから「行きます」と言った。
「一人で行けますか」
「一人では、たぶん、また正しい言葉を探して止まります」
「一緒に行っていいですか」
「お願いしたかった」
灯里がそう言った。お願いしたかった、という言葉を、灯里が使うとは思っていなかった。詩乃は少し驚いて、それから頷いた。
待ち合わせは、日曜日の午後に図書館の前にした。
灯里は詩乃より五分早く来ていた。コートの前をきちんと閉めて、図書館の入り口の前に立っていた。詩乃が近づくと、少しだけ肩の力を抜いた。それが分かる程度には、詩乃は灯里のことを知っていた。
「行きましょう」
「はい」
透子の実家は、図書館から二十分ほど歩いた場所にあった。古い住宅街の中の、小さな一軒家。灯里は道を覚えていた。子どもの頃に何度も来た道だから、と言っていた。
歩きながら、二人はほとんど話さなかった。
話さなくていい、と詩乃は思った。今日の灯里には、静かな時間が必要だと分かった。
途中で、灯里が言った。
「透子に、倉橋さんのことを伝えました。一緒に来る人がいると」
「なんて説明しましたか」
「図書館の同僚で、大切な人、と」
詩乃は少し驚いた。大切な人、という言葉が、灯里の口から出るとは思っていなかった。
「それでよかったですか」
「よかったです」
一軒家の前に着いた。
白い門がある。郵便受けに「花村」と書いてあった。灯里は門の前で、一秒だけ止まった。
「行きましょう」
詩乃が言うと、灯里は頷いた。
インターフォンを押すと、すぐに声がした。
「はーい」
明るい声だった。電話越しでも、その声の明るさは伝わってきた。
「花村、透子さんですか。瀬尾です」
少し間があった。それから、笑い声が聞こえた。
「灯里だ。来たんだ。今開けるね」
門が開いた。
玄関から、女性が出てきた。
透子は灯里と同じ年齢のはずだった。でも、最初に見た印象は、もっと若かった。髪が少し短く、明るい色のセーターを着ている。笑顔が、すぐ顔に出る人だった。
透子は灯里を見た。灯里は透子を見た。
二人の間に、十年以上の時間がある。詩乃には、それがここから見えるような気がした。
「久しぶり」
透子が言った。
「……久しぶりです」
灯里が言いかけた言葉が、詩乃には分かった。花村さん、と呼ぼうとした。でも途中で止まった。
透子が笑った。
「灯里にそう呼ばれると、知らない人みたい」
灯里はもう一度、口を開いた。
「……透子」
「うん」
透子は頷いた。それだけで、何かが一つ、元の場所に戻った気がした。
「こちらは」
「倉橋詩乃さん。図書館の同僚で、一緒に来てもらいました」
「透子です。よろしくね」
透子は詩乃に向かって、屈託なく笑った。初対面とは思えない笑い方だった。人と距離が縮まるのが早い人だ、と詩乃は思った。灯里とは正反対の。でも、正反対だから、釣り合っていたのかもしれない。
家の中に通された。
古い家だったが、部屋は明るかった。本棚がいくつかあって、本と一緒に、小さな置物や写真立てが並んでいた。透子の趣味がそこに出ていた。窓から午後の光が入ってきた。
お茶を出してもらいながら、最初はたわいのない話をした。
透子がなぜ町に戻ってきたか。今は何をしているか。図書館はどんな場所か。詩乃はほとんど聞いている側にいた。灯里が話す言葉の量は、いつもより多かった。透子と話していると、灯里の言葉が自然に出てくるようだった。
「灯里、変わったね」
しばらくして、透子が言った。
「変わりましたか」
「うん。なんか、前より話すようになった気がする。昔の灯里って、正しいことしか言わないって感じで、それがちょっと怖かったんだよね、正直言うと」
「怖かった」
「悪い意味じゃなくてね。なんか、隙がなかった。今の方が、隙がある感じがして、いい」
灯里は少し間を置いた。
「倉橋さんのおかげです」
透子が詩乃を見た。
「詩乃さんが、灯里を変えたの?」
「わたしは何もしていないです。灯里さんが自分で変わったと思います」
「隣にいただけ」
灯里が言った。
「隣にいてくれる人がいると、言葉が出やすくなることが分かりました」
透子はそれを聞いて、少し黙った。それから、「そっか」とだけ言った。
お茶が一杯終わる頃に、透子が「ちょっと待ってて」と言って席を立った。奥の部屋に入って、しばらくして戻ってきた。
手に、ノートを持っていた。
古い、表紙が薄く日に焼けたノート。詩乃には見覚えがあった。忘れもの図書室の棚にあったものと、同じ装丁だった。これは別の一冊だと気づくのに、少し時間がかかった。これは透子が持っていった、最初の四冊のうちの一冊だ。
「持ってきた」
透子は灯里の前に、ノートを置いた。
「これ、一番最初のやつ。わたしが持ってたんだけど、今日持ってきた」
灯里はノートを見た。手を伸ばして、触れた。
その瞬間、詩乃の耳の奥で、小さな音がした。
地下の棚が軋む音ではなかった。
反対に、長く詰まっていたものが、ほんの少しだけほどけるような音だった。
忘れもの図書室は、ここにはない。
それでも、あの部屋の空気が、少しだけ動いた気がした。
「わたしが渡したノートも、持ってきました」
灯里は鞄から、あのノートを取り出した。忘れもの図書室から持ち上げてきた、返事のないノートを。
透子はそれを見た。表情が、少し変わった。
「持っててくれたんだ」
「はい」
「ずっと?」
「ずっと。図書館の……大切な場所に、ずっと置いていました」
透子はノートを手に取った。表紙を撫でた。それから、開いた。物語のページを、ゆっくりめくった。最後のページまで来て、少し止まった。
「返事、書いてないね」
「書けませんでした」
「そうか」
透子は最後のページを見ながら言った。
「返事がほしかったんじゃないよ、たぶん。今思えば」
「たぶん、ではなく」
「うん。返事がほしかったというより、読んでくれてたら、それでよかったのかもしれない。灯里が読んで、持っていてくれたなら、それが返事みたいなものだったかもしれない」
灯里は黙っていた。
「ただ」
透子がノートを閉じた。
「続きがあるなら、今からでも読んでみたい」
灯里は透子を見た。
「続き、というのは」
「物語の続き。あの話、完結してないから。灯里が書いてくれたら、続きが読めるなって、ずっと思ってた」
「今でも、思っていますか」
「うん。灯里の書く言葉が好きだったから。整っていて、でもちゃんと温かくて。わたしの作る場面を、灯里がきれいにしてくれると、本当の物語になった気がしてた」
灯里はノートを見た。
「正しい返事が書けませんでした」
そう言って、膝の上で指先を重ねた。
「知ってる」
「何を書いても、本当のことを言えていない気がして、書けなかった」
「灯里らしいね」
「透子を裏切ったと思っていました。ずっと」
透子は少し間を置いた。
「それはちょっと、違うと思う」
「違いますか」
「裏切るって、悪意があるとか、約束を破ろうとするとかでしょ。灯里は悪意がなかったし、約束を破りたかったわけじゃないでしょ。ただ、言葉が見つからなかっただけでしょ」
「それでも、結果として返事を書かなかった」
「うん。それは悲しかったよ、正直言うと。でも裏切られた、とは思わなかった。灯里なら、ちゃんと読んでくれてるって信じてたから」
灯里の手が、膝の上でわずかに動いた。
「信じていてくれましたか」
「信じてた。根拠はないけど。でも灯里のことを知ってるから。灯里が黙っている時は、ちゃんと考えてる時だって知ってるから」
詩乃は、二人から少し離れた椅子に座って、聞いていた。
自分がここにいていいのかと一瞬思った。でも、灯里が一緒に来てほしいと言った。それを信じることにした。
「透子」
灯里が言った。
「ノートを持ってきました。返します」
「受け取るよ」
「返す前に、今の言葉で言いたいことがあります」
「うん」
「三年前、書けなかった。正しい言葉が見つからなかった。でも、読んでいました。ちゃんと読んでいました。透子の書いた物語の続きを、透子の言葉を、最後のページを。読んで、大切にしていました」
透子は黙っていた。
「返事が書けなかったことを、今も後悔しています。でも、書けなかった理由は、透子への気持ちがなかったからではありません。その反対でした」
「うん」
「遅くなりました。でも、今の言葉で言えることを、言います。町を出てしまうことが、寂しかった。物語の続きを一緒に書けなくなることが、寂しかった。あなたの作る場面が、また読みたかった」
透子の目が、少し赤くなった。泣かなかった。でも、赤くなった。
「言ってくれてよかった」
透子が言った。
「遅くても、言ってくれてよかった。ありがとう、灯里」
灯里はノートを、透子の前に置いた。
透子は手を伸ばして、受け取った。
詩乃は、ゆっくりと息を吐いた。
届いた、と思った。
三年越しの言葉が、ちゃんと届いた。
お茶を一杯ずつ飲み終えてから、透子が詩乃に話しかけた。
「詩乃さんって、図書館でどんな仕事してるの?」
「臨時職員なので、返却とか棚の整理とか、いろいろです」
「灯里と一緒に働いてるんだね。どう、灯里って、仕事しやすい?」
「しやすいです。仕事が正確で、判断が早くて」
「でしょ。わたしも灯里のそういうとこ、好きだったんだよね。なんか信頼できるっていうか」
透子は灯里を見た。
「詩乃さん、灯里のことちゃんと見てくれてるね。なんか安心した」
「わたしの方が、見ていてもらっている感じがします」
「そう? でも、詩乃さんがいてくれたから、灯里がここに来られたんじゃないかな」
詩乃は少し考えた。
「灯里さんが来ようと決めたから、来られたんだと思います。わたしはただ、隣を歩いただけです」
透子は灯里と詩乃を交互に見た。それから、にこりとした。
「いいバディだね、二人とも」
帰り道、二人は並んで歩いた。
日が傾いていた。十一月の夕方の光が、低い角度で街に差している。
「どうでしたか」
詩乃が聞くと、灯里はしばらく考えた。
「……軽い、です」
「軽い」
「三年分の重さが、全部なくなったわけではないけれど。でも、今日ここに来て、言葉を渡して。少し軽くなった」
「よかったです」
「倉橋さん」
「はい」
「ありがとうございました。一緒に来てくれて」
「お礼を言われるようなことはしていません」
「いいえ」
灯里は少し、歩く速度を落とした。
「あなたがいなければ、今日はここに来られなかった。それは本当のことです。だから、ありがとうと言います」
詩乃は返す言葉を探した。
結局、見つからなかった。
「……どういたしまして」
それだけ言った。
灯里はまた少し、目を細めた。今日は、笑っているのがはっきり分かった。
角を曲がるところで、灯里のスマートフォンが鳴った。透子からのメッセージだった。
「何て書いてありましたか」
「今度は詩乃さんも一緒にご飯でも、と」
詩乃は少し笑った。
「透子さん、行動が早いですね」
「昔からそうでした。わたしとは正反対で」
「でも、釣り合っていたんだと思います」
灯里は少し考えてから言った。
「今日、透子が言いました。続きがあるなら、今からでも読んでみたいと」
「はい」
「物語の続きを、書いてみようと思います」
詩乃は灯里を見た。
「書くんですか」
「書けるかどうか分かりません。でも、書いてみようと思います。透子の作る場面を受け取って、言葉を整えることなら、わたしにできるかもしれない」
「できると思います」
「根拠は?」
「今日の灯里さんの言葉を聞いたからです。透子さんへの言葉が、整っていて、温かかった。あれが書ける人なら、物語の続きも書けます」
灯里はしばらく、詩乃を見ていた。
「……倉橋さんも、書けます」
「わたしは」
「あなたも書けます。今日ではないかもしれない。でも、いつか。あなたにはそれができる」
詩乃はその言葉を受け取った。
灯里が「書けます」と言った。根拠のない励ましではなかった。灯里はそういう言葉を、理由なく言う人ではない。だから、その言葉は詩乃に届いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
灯里がそう言った。
詩乃が先ほど使った言葉を、灯里が返してきた。気づいているのかいないのか、分からなかった。でも詩乃は少し笑った。
道が分かれる角まで来た。
「また明日」
「また明日」
灯里は歩いていった。
詩乃は少しの間、その背中を見ていた。今日の灯里の背中は、先月よりも、先週よりも、軽そうだった。
ポケットの中で、栞丸が言った。
「返ったのじゃ」
「はい」
「届いたのじゃ」
「はい」
「ノートの棚が、今頃、静かになっておるのじゃ」
詩乃は空を見上げた。
夕暮れの空に、最初の星が出始めていた。まだ一つだけの、小さな星だった。
忘れもの図書室の棚が、今夜は静かだろうと思った。
灯里のノートが返された。三年分の重さが、少し降りた。
詩乃はまた歩き始めた。
今夜は、自分のノートを開いてみようと思った。
文芸誌ではなく、新しいノートを。
何かを書くかどうかは、まだ分からない。でも、開くことはできる気がした。
栞丸がポケットの中で、小さくくしゃみをした。
「また空気が動いたのじゃ」
「いい方向に、ですか」
「いい方向にのじゃ」
詩乃は夕暮れの中を歩いた。
透子のノートが、今夜、棚に戻ってくる。
静かになった棚の中で、次の番が待っている。
詩乃自身の、忘れもの。
まだ返せていない、あの文芸誌と、書きかけのままになっている言葉たちが。
でも、もうすぐだと思った。
灯里が書けると言った。
栞丸が、空気が動いたと言った。
もうすぐ、自分の番が来る。




