第十六話 わたしが置き忘れた物語
透子のノートが返された翌日、忘れもの図書室の棚は静かだった。
詩乃が地下に下りると、あの軋む音がどこからも聞こえなかった。棚はただ、棚として、そこにあった。並んでいる忘れものたちも、昨夜より落ち着いた気配がした。重みが、確かに降りていた。
栞丸は棚の上で丸まっていたが、詩乃が入ってくると片目を開けた。
「棚が静かじゃ」
「はい。昨夜までとは全然違います」
「堅物司書のノートが返った。三年分の重みが、一つ降りた。これだけ変わるのじゃ」
詩乃は棚を見渡した。まだたくさんの忘れものが並んでいる。でも今日は、それらが重くのしかかっている感じがしなかった。待っている。ただ、静かに待っている。
「栞丸」
「なんじゃ」
「今夜、自分の文芸誌に触れてみようと思います」
栞丸は片目を開けたまま、しばらく詩乃を見た。
「昨夜、ノートを開いてみたんです。新しいノートを」
「何か書いたか」
「一行だけ。書いてすぐ、止まりましたけど」
「一行でも書いたのじゃ」
「一行だけですけど」
「最初の一行が一番難しい。それが書けたなら、続きは書ける」
詩乃は文芸誌のある棚の前に立った。
取り出した。両手で、表紙を見た。
今日は、少し違う感じがした。重さが、昨日より軽い。棚全体が落ち着いたことで、文芸誌も落ち着いている。
開いた。
目次のページ。自分の名前。ページをめくる。
自分の書いたものが、そこにあった。タイトルは「言葉の地図」。主人公が言えなかった言葉を手紙に書く、あの短編。
詩乃は最初から、最後まで読んだ。
途中で止まらなかった。今日は止まらずに読めた。
読み終えて、少し黙っていた。
大学時代に、自分が書いたものだった。荒削りで、言葉が少し力んでいた。でも、言いたいことは伝わっていた。言えなかった言葉を手紙に書くことで、主人公の何かが変わる。その変化を、あの頃の詩乃は、たどたどしいながらも書いていた。
「どうじゃ」
「……書いていたんだな、と思いました」
「当然じゃ。書いたものがここにある」
「止めた理由が、よく分かりません。読んでみたら、それほど悪くなかった。落選するほどかどうかは分かりませんけど、書こうとしていたことは、ちゃんと書いてありました」
「落選と、良いか悪いかは、別の話じゃ」
「そうですね」
詩乃は文芸誌を閉じた。
「この話の主人公は、言えなかった言葉を手紙に書いて、誰かに届けようとしていました。わたしが書いた話のはずなのに、今読むと、自分のことを書いていた気がします」
「そういうものじゃ。書いた時に分からなくても、後から分かることがある」
「言えなかった言葉を、形にすること。あの頃から、そのことに関心があったんですね」
「忘れもの図書室の仕事と、根が同じじゃ」
詩乃はその言葉を聞いて、少し目を開いた。
「根が同じ」
「新米司書が書いていたものと、夜間司書の仕事は、同じところから来ておる。だから、この扉が開いたのじゃ。見える者にしか見えない扉が、おぬしには開いた」
詩乃は扉を振り返った。観音開きの古い扉。あの日、触れたら開いた。
「わたしがここに来たのは、偶然ではなかったんですか」
「偶然と必然は、区別できんのじゃ。ただ、おぬしがここに来て、扉が開いた。それは事実じゃ」
詩乃は文芸誌を棚に戻した。
でも今日は、戻し方が違った。大切なものとして、戻した。
地上に上がると、灯里がまだカウンターにいた。今日は残業ではなく、何かを書いていた。詩乃が近づくと、ノートを閉じた。新しいノートだった。
「透子さんとの物語の続きですか」
「書き始めてみました。まだ数行です」
「それでも書き始めたんですね」
「あなたが昨夜、新しいノートを開いたと言っていたので」
詩乃は少し驚いた。
「それで、灯里さんも」
「あなたが一行書いたなら、わたしも書いてみようと思いました」
詩乃は笑った。
灯里も、少し目を細めた。
翌日の昼、佐鳥が図書館に来た。
詩乃はカウンターにいた。佐鳥は入り口で詩乃を見つけると、手を上げた。
「また来た。前のコピー、確認してたら一枚足りなかったから」
「どうぞ、閲覧室へ」
「倉橋さん、少し話せる? 短くていい」
詩乃は灯里を見た。灯里が頷いた。詩乃はカウンターを出て、佐鳥と閲覧室の入り口近くに立った。
「この間は、ちゃんと謝れてよかった」
「こちらこそ、言えてよかったです」
「あの後、少し考えたんだけど」
佐鳥は少し言葉を選んだ。
「俺があの頃言ったこと、自分では全然覚えてなかったんだよね。それが余計に、申し訳なかった」
「覚えていないことが、普通だと思います。あなたにとっては、何気ない一言だったから」
「何気ない一言が、人の何かを止めることがあるんだな、と思って。気をつけようと思った」
「それでじゅうぶんです」
「倉橋さんの新しい原稿、読んでみたいと思うけど。まだですか」
詩乃は少し考えた。
「まだです。でも、書き始めたところです」
「そっか。楽しみにしてる」
佐鳥はそう言って、閲覧室へ入った。
詩乃はカウンターに戻った。
灯里が何も聞かなかった。聞かなくていい、と思っているのだと分かった。
ただ、詩乃から話した。
「書き始めたって、言いました。佐鳥くんに」
「そうですか」
「言ってから、本当にそうしようと思いました。言葉にしたら、もう少し現実になった感じがして」
「言葉は、言った瞬間に少し本物になる」
「灯里さんが透子さんに連絡を送った時も、そうでしたか」
「そうでした。送った瞬間に、もう引き返せない、という感じがした。それが怖かったけれど、同時に、ようやく動いた、という感じがした」
「怖さと、ようやく、が同時にある感じ」
「はい」
「分かります。佐鳥くんに『書き始めた』と言った時も、同じでした」
その夜、詩乃は地下に下りた。
今日は灯里も一緒に来た。二人で棚の確認をしながら、詩乃は文芸誌のある棚の前に来た。
「灯里さん、これを見てもらっていいですか」
文芸誌を取り出して、灯里に渡した。
「開いてもいいですか」
「はい」
灯里は表紙を見た。ゆっくり開いた。目次を確認して、詩乃の名前のあるページを開いた。
しばらく読んでいた。
詩乃は灯里の顔を見た。灯里は読んでいる間、表情が動かなかった。でも目の動き方が、ちゃんと読んでいる目だった。
読み終えて、灯里は文芸誌を閉じた。
「読みました」
「どうでしたか」
「よかったです」
「社交辞令ではなく」
「社交辞令は言いません。よかったです。言えなかった言葉を手紙に書く、という題材を、この年齢で選んでいたことが、面白いと思いました」
「面白い、ですか」
「あなたは、あの頃からこのことを書きたかったんだと思います。言葉が届かないことと、届けようとすることを。それはあなたの中心にある関心で、今の仕事とも繋がっている」
「栞丸も似たことを言っていました。根が同じだと」
「根が同じだから、諦めなくていい。書けなかった時間は、無駄ではなかった。忘れもの図書室での仕事が、書くことへの根を育てていたとも言えます」
詩乃はその言葉を聞いた。
書けなかった時間が、無駄ではなかった。それは詩乃が自分には言えなかった言葉だった。灯里が言うから、少し信じられた。
灯里は文芸誌を詩乃に返した。
詩乃は両手で受け取った。今度は、棚へ戻す前に、もう一度だけ表紙を見た。
その週の金曜日の夜、詩乃は一人で部屋に座って、パソコンを開いた。
ファイルの中に、三年前のフォルダがあった。「小説」と名付けてある。開いた。中にいくつかのファイルがあった。落選した短編。応募原稿のコピー。そして、その後に書き始めて、止まったままの未完成のファイル。
ファイル名は「続き」だった。
自分でそう名付けていたことを、忘れていた。
「続き」を開いた。
原稿用紙換算で、十枚分くらいまで書いてあった。主人公は図書館で働く女性で、誰かが置き忘れた手紙を見つける。その手紙には、言えなかった言葉が書いてあった。
詩乃は読んだ。
三年前の自分が書いたものを。
読み終えて、しばらく画面を見ていた。
書いていた。
三年前のわたしが、書いていた。図書館と、言葉と、忘れ物の話を。
あの頃は想像で書いていた。今のわたしには、想像ではなく、経験がある。
詩乃はキーボードに手を置いた。
止まった場所の次の行に、カーソルがある。
一文字、打った。
止まらなかった。
次の文字を打った。また次の文字を打った。一行になった。二行になった。手が止まらなかった。頭が、言葉を探すより先に、手が動いた。
どのくらい経ったか分からなかった。気づいたら、十行以上書いていた。荒削りで、整っていなかった。でも、書いていた。
詩乃は手を止めた。
画面を見た。自分が今書いた言葉を、確かめた。
怖くはなかった。
少し震えていたが、怖さではなかった。止まっていたものが動き始めた時の、あの震え方だった。
ファイルを保存した。
パソコンを閉じた。
翌日、図書館に来た時、詩乃は灯里に言った。
「昨夜、書きました」
灯里は手を止めた。
「未完成の原稿の続きを」
「どのくらい」
「十行少しです」
「それでも書きました」
「はい。書いている間、怖くなかったです。止まった場所からそのまま続けたら、言葉が出てきて」
「三年間、あなたの中で続きが育っていたんだと思います」
「そうかもしれません。書けなかった三年間、何も積み重なっていなかったわけではなかった」
「忘れもの図書室での仕事も、積み重なっていた」
「はい。陽人くんのこと、菜月さんのこと、真澄さんのこと、灯里さんのこと。全部が、今の言葉になっている気がします」
灯里は少し間を置いた。
「わたしに返せと言っていました。忘れもの図書室にある文芸誌を、自分に返す方法が分からないと」
「言いました」
「返せましたか」
詩乃は少し考えた。
「返しつつある、という感じです。まだ全部ではないけれど。書くたびに、少しずつ返していく感じで」
「それでいいと思います」
「はい」
その夜、地下に下りた。
文芸誌に触れた。
声が聞こえた。あの頃の自分の声。でも今日は、その声が前よりずっと近かった。遠くから聞こえていた声が、今日は隣にいる声の距離で聞こえた。
「栞丸」
「なんじゃ」
「返しつつあります」
「分かっておる。昨夜から、においが変わった」
「においが変わりましたか」
「書いている人の匂いがするのじゃ。新米司書から」
詩乃は文芸誌を棚に戻した。今日も、全部は返せていない。でも昨日より近い。書くたびに、近くなる。
棚を見渡した。
まだたくさんの忘れものがある。全部が返されるわけではない。全部を返すことが正解でもない。でも、返せるものを、返せる時に、返せる形で。それが夜間司書の仕事だ。
「栞丸、棚は今、どうですか」
「軋んでおらん。静かじゃ。まだ重いものはあるが、前よりずっと軽くなった」
「これからも、少しずつ返していきます」
「うむ。それでいいのじゃ」
詩乃は部屋を出た。
地上の図書館は暗く静かだった。棚と棚のあいだに、今日一日の声が積もっている。
エントランスに向かいながら、詩乃は棚の間を歩いた。
返却棚に、陽人が返した本があった。また借りに来たのだろう、別の本が抜けていた。
菜月が展示で持っていった画集のコーナーに、新しい美術書が一冊増えていた。菜月が返して、また別のを借りたのかもしれない。
真澄の手製の詩集は、エントランスのケースに、今日も飾られていた。
いろいろな人が、ここに来て、何かを持って帰る。本を借りる人もいれば、忘れていた言葉を受け取って帰る人もいる。図書館は、そういう場所だ。
詩乃はエプロンを外しながら、今夜帰ったら続きを書こうと思った。十行の次の行を。止まるかもしれない。でも止まっても、また書けばいい。
扉を出る前に、灯里に声をかけた。
「お先に失礼します」
「お疲れ様でした」
灯里は新しいノートに、また何かを書いていた。透子との物語の続きだろう。詩乃は聞かなかった。ただ、その姿を一秒だけ見た。
書いている灯里の横顔は、詩乃が初めて見た時とは違う顔だった。
外に出ると、夜が冷たかった。
ポケットの中で、栞丸がくしゃみをした。
「また空気が動いたのじゃ」
「何度目ですか」
「数えておらん。動くたびに、くしゃみが出るのじゃ」
「風邪をひかないように」
「われは風邪をひかんと言っておる」
詩乃は空を見上げた。
冬が近い夜空に、星がいくつか出ていた。
忘れもの図書室の棚は、今夜静かだ。
文芸誌は、棚でまだ待っている。でも昨日より近い。
詩乃は歩き始めた。
今夜も、続きを書く。




