第十七話 夜明け前の返却作業
十二月の最初の週に、忘れもの図書室が、最後の夜を迎えた。
最後、というのは閉じるという意味ではなかった。棚が、一番静かになる夜、という意味だった。栞丸がそう言った。夜間司書が本腰を入れて動いた時、棚はある夜を境に、がらりと落ち着くことがある。今夜がその夜だ、と栞丸は言った。
詩乃はその日の閉館後、灯里から「今夜、全員で」と言われた。
「全員、というのは」
「わたしと倉橋さんと、栞丸と、館長です。今夜、棚の整理を一緒にしてもらえるよう、館長に頼みました」
「館長が忘れもの図書室に来るんですか」
「久しぶりに、と言っていました。二十年ぶりくらいだそうです」
律子は閉館後、職員用の通路を通って地下書庫に下りてきた。
扉の前で一度だけ立ち止まり、取っ手に手を置いた。
開け方を確かめるというより、そこにあるものへ挨拶をするような手つきだった。
扉を開けた瞬間、律子は少し目を細めた。
「変わらないわね」
呟くように言った。
「ここに入るのは、二十年ぶりなんですか」
詩乃は尋ねた。
「ええ。扉の前まで来たことは何度もありました。でも、中には入らなかった。夜間司書を引き継いだ後は、来ない方がいいと思っていました。後任の判断に、口を挟みたくなってしまうから」
「口を挟みたくなることがありましたか」
律子は少し笑った。
「数え切れないほど。でも、こらえました。瀬尾さんが慎重すぎる、と思う時も。それがあの子の仕事の仕方だから」
栞丸が棚の上から律子を見下ろした。
「律子。久しぶりのじゃ」
「久しぶり、栞丸。元気だった?」
「われは変わらんのじゃ。律子が変わっただけで」
「そうね。白髪が増えたわ」
「白髪も悪くないのじゃ」
律子と栞丸のやりとりを聞きながら、詩乃は棚を見渡した。
今夜は四人いる。これだけの人間が、一度にここに集まったことは、詩乃が来てから初めてだった。
「始めましょう」
灯里が言った。
今夜の作業は、これまでと少し違った。返せる忘れものを一つずつ確認するのではなく、棚全体の状態を見て、それぞれの忘れものの今を確かめる。返せたもの、まだ返せないもの、返す必要がなくなったもの。それを仕分けていく。
栞丸が匂いを嗅いで、状態を伝える。律子が経験から判断する。灯里が記録する。詩乃が棚を整える。それぞれの役割が自然に決まった。
陽人の絵本は、今は地上の棚に戻っていた。忘れもの図書室には、もう届いていない。返却完了だ。
菜月の絵は、展示を経て、菜月自身のものになった。菜月が自分の意思で受け取ったから、図書室への返却は必要ない。栞丸が確認した。「絵描き娘の忘れものは、絵描き娘に戻ったのじゃ」と言った。
真澄の詩集は、棚から出して確かめると、音が変わっていた。詩乃が触れると、以前聞こえていた二人分の気配が、今は穏やかに重なっていた。泣いている声は、もうなかった。真澄が手紙を書いて、冊子を作ったことで、詩集の中の何かが落ち着いていた。
「これは、そのまま棚に置いておいてもいいと思います」
詩乃が言うと、律子が頷いた。
「そうね。真澄さんが来るたびに、この詩集は少し変わっていく。まだ続いています」
灯里のノートは、もう棚にはなかった。昨日、透子に返した。その場所は今、空いていた。空いているが、重さはなかった。きれいな空白だった。
「この場所には、何か別の忘れものが来るかもしれませんし、しばらく空いたままかもしれません」
灯里は穏やかな声で答えた。
「空いていてもいいです。棚に余白があることは、悪いことではないから」
律子は空いた棚を見上げる。
「余白があるということは、次の忘れものを受け取る準備ができているということだから」
詩乃の文芸誌は、棚に残っていた。でも今夜触れると、声が変わっていた。遠くから聞こえていたあの頃の自分の声が、今夜は重なっていた。同じ場所に近づいていた。
「もうすぐ返せます」
詩乃が言うと、栞丸が「うむ」と頷いた。
作業が続いた。
一時間ほど経った頃、律子が一つの棚の前で足を止めた。
「これは」
栞丸が律子の方を見た。
「律子が夜間司書だった頃の忘れものじゃ」
「私の?」
「律子が返したものじゃが、その一部がここに戻ってきたのじゃ。持ち主が変わった」
律子は棚に手を伸ばしかけて、止めた。
「持ち主が変わる、というのは」
「忘れものは、一つの人のものではなくなる場合がある。ある人が手放して、別の人がそれを必要とする。そうなると、新しい持ち主の元へ届けられる」
「誰の元へ届けるんですか」
栞丸は詩乃を見た。
「新米司書が、そのうち分かるのじゃ。今夜でなくていい」
詩乃は棚を見た。何が置いてあるか、今夜はまだはっきり分からなかった。でも、自分に関係があるものが、そこにある感じがした。
作業を続けながら、棚の状態が変わっていくのが分かった。
一つ確認するたびに、棚が少し軽くなる。一つ仕分けるたびに、空気が変わる。四人で、一つずつ丁寧に向き合った。
夜が深くなった頃、灯里が言った。
「今日、陽人くんが、自分で選んだ本を借りていきました。カウンターで、これ読んでみようかと思って、と言っていました」
「どんな本でしたか」
詩乃が尋ねると、灯里は少しだけ思い出すように目を細めた。
「冒険の話でした。厚めの本で、小学生には少し難しいかもしれないけれど、本人が選んだから大丈夫だと思います」
詩乃はそれを聞いて、少し胸が温かくなった。
「菜月さんが来ていましたね、昨日」
「美術部の展示に出した作品を、写真で見せてくれました。小学生の頃の女の子と鳥の絵に似た、新しい絵でした」
「似ていましたか」
「線が大人になっていた。でも、のびのびとしたところは同じでした」
灯里の報告を聞いて、詩乃は今度は新聞コーナーの方を思い出した。
「真澄さんは、今日新聞を読みながら、鉛筆で何かを書いていました」
「詩集に書き込みをしていたみたいです。借りていった詩集に、自分の言葉を足している」
律子が言った。穏やかな声だった。
「図書館の本に書き込みをするのは、本来はいけないことだけれど、真澄さんの場合は特別に許可しました。あの書き込みも、いつか誰かの忘れもの図書室に届くかもしれないから」
詩乃は棚を拭きながら、陽人のこと、菜月のこと、真澄のことを思った。
陽人は本を選んでいる。
菜月は絵を描いている。
真澄は詩集に言葉を足している。
忘れものを返すことは、その人を変えることではなかった。その人の中にあったものを、その人が受け取れる形で届けることだった。受け取った後は、その人が自分で動く。夜間司書は、そこには関われない。関わらなくていい。
「透子さんから、連絡がありましたか」
詩乃が灯里に聞くと、灯里は手を動かしながら答えた。
「昨夜、物語の続きを少し送りました。透子が受け取って、その次の部分を書いて送ってきました」
「もう始まっているんですね」
「再開しています。十年以上ぶりに」
「どうですか、書いていて」
「怖いです。でも、書けています」
「それでいいですね」
「はい。栞丸の言葉を思い出しながら、止まりながら書いています」
栞丸がどこかの棚の上から言った。
「佐鳥とかいう者は、最近来ておらんのじゃ」
「コピーは取れたみたいです。また来るかもしれませんけど」
「来た時は、新米司書の新しい原稿を見せてやるのじゃ」
「まだそこまで書けていません」
「でも、いつか書けるのじゃ」
栞丸はそう言い切って、また棚の整理に戻った。
夜明け近くに、棚の確認がほぼ終わった。
律子が部屋を見渡した。
「随分、軽くなりましたね」
「はい」
「三年前から、少しずつ重くなっていたのが、今夜でほとんど戻りました」
「灯里さんのノートが一番大きかったですか」
詩乃が尋ねると、律子はゆっくり頷いた。
「大きかった。でも、それだけではない。倉橋さんが来て、少しずつ返していったことの積み重ねが、今夜に繋がっています」
詩乃は律子を見た。
「館長は、詩乃さんがここに入れることを知っていましたか。最初から」
灯里が尋ねた。
「知っていました。扉が開いたと栞丸から聞いて」
「止めなかったんですか」
「止める理由がなかった。見える人が来た。声が聞こえる人が来た。それは図書室が受け入れたということだから」
「わたしで、よかったんでしょうか」
律子は少し考えた。
「よかったかどうかは、いつか振り返って分かることです。でも今夜の棚を見ると、来てよかったと思います」
「わたしも思います」
その言葉は短かったが、灯里が言うからには根拠がある言葉だった。詩乃はそれを知っている。
夜明け前に、作業が終わった。
栞丸が棚の上に座って、部屋を見渡した。
「静かじゃ」
「はい」
「まだ返されていない忘れものがある。でも、急かしておらん。それぞれの時間で待っておる」
「それでいいんですか」
「それでいいのじゃ。全部を返すことが正解ではない。忘れものには、それぞれ返される時がある。今夜返されなかったものは、また別の夜に返される時が来る」
律子が扉の方へ向かいながら言った。
「忘れもの図書室は、なくならないわ。夜間司書がいる限り、ここは続く」
「わたしたちが、続けます」
灯里が言った。詩乃も頷いた。
律子が先に地上へ上がった。次に灯里が上がった。詩乃は最後に部屋を出ようとして、扉の前で栞丸に話しかけた。
「栞丸」
「なんじゃ」
栞丸は棚の上から詩乃を見下ろした。いつもの尊大な目で。でも今夜は、その目の奥に何か別のものがあった。
「今夜の作業、ありがとうございました」
「われは案内役じゃ。当然のことをしただけじゃ」
「最初から、ずっとそばにいてくれましたね」
「それも当然じゃ。案内役はそばにいるものじゃ」
「栞丸」
「なんじゃ」
「わたしは、夜間司書になれていますか?」
栞丸はしばらく、詩乃を見ていた。
それから、棚から降りてきた。詩乃の肩に、するりとのぼった。詩乃の耳元近くに、小さな顔を寄せた。
「詩乃」
詩乃は少し驚いた。
栞丸が名前で呼んだのは、初めてだった。
「今のおぬしなら、その本を返せる」
詩乃は棚の一角に目を向けた。
栞丸の言う「その本」が、文芸誌のことだと分かった。
「今夜、返せますか」
「今夜でなくていい。でも、もうすぐじゃ。おぬし自身が、一番よく分かっておるはずじゃ」
栞丸は詩乃の肩から降りて、棚に戻った。
「さあ、上がるのじゃ。夜明けが来る」
詩乃は部屋を出た。扉を閉めた。
階段を上がると、図書館の窓から光が差し始めていた。夜明けの、最初の光だった。
地上では、律子と灯里が話していた。
詩乃が上がってくると、二人が振り向いた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
三人で、エントランスへ向かった。
律子が先に外に出た。それから灯里。詩乃が最後に出た。
外は冷たかった。十二月の夜明け前の空気だった。東の空が、少しだけ白くなっていた。
「詩乃さん」
灯里が呼んだ。
「はい」
「栞丸が、名前で呼びましたね」
「聞こえていましたか」
「聞こえました。あの子が名前で呼ぶのは、特別なことです」
「知っています」
詩乃はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「おめでとうございます」
灯里が言った。
詩乃は少し笑った。おめでとう、という言葉が来るとは思っていなかった。
「灯里さんが、栞丸に初めて名前で呼ばれたのは、いつですか」
「夜間司書を引き継いでから、一年が過ぎたころです。ただ、その後もほとんど堅物司書と呼ばれていますけど」
先を歩いていた律子が、振り返らずに言った。
「私は、律子と呼ばれるまでに五年かかりました。倉橋さんは、半年近くでしたね」
律子が振り返って、詩乃を見た。
「早いわね」
律子は少し笑った。
「それだけ、あなたが動いたということよ」
詩乃はすぐには答えられず、小さく頷いた。
三人で、しばらく並んで歩いた。夜明け前の道を、図書館から離れていく方向へ。道が分かれる場所まで、一緒に歩いた。
別れ際に、律子が言った。
「今夜、ありがとう。二人とも」
「こちらこそ、来ていただいてよかったです」
「また来ます。もう少し間隔を縮めてもいいかな、と思いました」
律子は角を曲がって、見えなくなった。
詩乃と灯里は、もう少し同じ方向へ歩いた。
「灯里さん」
「はい」
「今夜、透子さんとの物語の続きを書きますか」
「書きます。朝、少し寝てから」
「わたしも、今日も書きます」
「倉橋さんの原稿、いつか読ませてもらえますか」
「完成したら」
「楽しみにしています」
道が分かれる場所に来た。
「また今日」
「また今日」
詩乃は自分の帰り道を歩いた。
ポケットの中の栞丸は、今夜は珍しく静かだった。眠っているのか、起きているのか分からなかった。
家に帰り着いて、詩乃はコートを脱いだ。
パソコンを開く前に、新しいノートを取り出した。
机の前に座り、空白のページを開く。
詩乃は、思いついたことを一行ずつ書き留めた。
古い図書館。誰かが置き忘れた言葉。言葉を届けようとする女の子。届けることの難しさ。
忘れもの図書室そのものを書くつもりではなかった。
けれど、あの場所で知ったことは、別の物語の形になって、少しずつページの上に現れた。
詩乃はノートを閉じ、パソコンを開いた。
新しい原稿のファイルを作り、ノートに書いた言葉を見ながら、最初の一行を打った。
窓の外が、少しずつ明るくなっていった。
十二月の朝が来ていた。
詩乃は書き続けた。
止まりそうになると、ノートを見た。そこに書いた一つの言葉を、画面へ移した。一文字打つと、次の文字が来た。
栞丸がポケットから出てきて、机の上に座った。詩乃の書いている画面を、小さな目で見ていた。
「書いておるのじゃ」
「書いています」
「止まらんのか」
「今のところ」
「うむ」
栞丸は画面を見ながら、前足を組んだ。
「新米司書」
「今は詩乃です」
「詩乃」
「はい」
「忘れもの図書室には、まだ返されていない忘れものがある」
「知っています」
「それは失敗ではない」
「知っています。待っているものがあるということは、まだ続きがあるということだから」
栞丸は何も言わなかった。ただ、丸まって、詩乃の隣で目を閉じた。
詩乃は書き続けた。
朝の光の中で。




