最終話 朝の図書館で書き始める
十二月も二十日を過ぎると、図書館は年末の静けさに入り始めた。
利用者が少し減り、返却が増え、棚の整理が追いつくようになる。詩乃はその静けさを、今年初めて、落ち着いた気持ちで迎えた。去年の今頃、詩乃はここにいなかった。地元に戻ってきたのは春で、図書館で働き始めたのは七月に入ってからだった。それからの半年近くが、詩乃の中でどれほど大きかったか、今になって少し分かる。
朝の開館前の時間が、詩乃は最近好きになっていた。
職員たちがそれぞれ持ち場の準備を進める中、灯里が鍵を開け、詩乃が棚を点検し、律子が館長室の明かりをつける。利用者が来る前の三十分は、図書館が図書館自身のためにある時間だ。
詩乃はその時間に、カウンターの端で小さなノートを開く。物語の続きや、帰ってから書きたい場面を、短い言葉で書き留めるためのノートだった。本文は、家のパソコンに保存してある。
今朝も、詩乃はノートに一行を書き足していた。
三年前の未完成原稿から書き始め、忘れもの図書室最後の夜から、家に帰るたびに少しずつ原稿を進めてきた。荒削りで、整っていない部分もある。それでも、止まらずに来た。
灯里が隣に来た。開館前の点検が終わったらしく、カウンターの内側に入ってきた。ノートを覗かなかったが、詩乃が書いていることは見ていた。
「今朝も書いていますか」
「はい。帰ってから書くことを、少しだけ」
「原稿は、どのくらいになりましたか」
「五十枚を超えました」
灯里は少し間を置いた。
「それはもう、短編ではないですね」
「そうなんです。気づいたら長くなっていて」
「書きたいことが、それだけあったということです」
詩乃はノートを閉じた。
「灯里さんの物語は、どうですか」
「透子と交互に書いています。先週、透子が新しい場面を送ってきて、今週わたしが続きを書く番です」
「中学生の頃と同じですね」
「同じようで、違います。あの頃より、お互いの書き方が変わっている。でも、変わっていないところもある」
「変わっていないところは」
「透子の場面の細部が、今も鮮やかなこと。わたしが、それを受けて言葉を整えようとすること」
「それが二人の形ですね」
「そうだと思います」
律子が館長室から出てきた。
「おはようございます」
「おはようございます。朝から書いていますよ、倉橋さん」
「律子さんに見せてもらいたいものがあります」
詩乃は鞄から、一枚の紙を取り出した。プリントアウトした原稿だった。
「なんですか」
「物語の最初の部分です。読んでもらえますか。時間がある時で」
律子は受け取った。軽く表紙を見て、詩乃を見た。
「これが今書いているものですか」
「はい。まだ完成していないんですが、最初の部分だけ」
「あとで読みますね」
「感想は、いらないです。ただ、読んでほしくて」
律子は頷いた。館長室に持って入った。
開館の時間になった。
扉が開いて、最初の利用者が入ってきた。いつもより少ない、静かな朝だった。
午前の返却作業をしながら、詩乃は棚の間を歩いた。棚の状態を確認して、背表紙を揃えて、本を正しい場所に戻していく。
陽人が来たのは、昼すぎだった。
冬休みが近いから、本を借りに来たのだろう。陽人はいつもより早い足取りで棚の方へ向かい、少し経ってから二冊を抱えてカウンターに来た。
「また来た」
「いらっしゃいませ。どれにしたの」
陽人は本を差し出した。一冊は冒険の続編で、先週借りた本の次の巻だった。もう一冊は、詩乃が見たことのない本だった。タイトルを確認すると、絵本だった。幼いくらいの子向けの、薄い絵本。
「これも借りるの?」
「弟が読みたいって言ったから」
「弟さんがいるんだ」
「年長さん。俺が読んでやろうかと思って」
詩乃は貸出の手続きをしながら、少し胸が詰まった。
「読んでやったら、喜ぶと思う」
「うん。まあ、俺も昔読んでもらったし」
陽人はそれだけ言った。深い意味を込めていない、自然な言い方だった。でも詩乃には、その言葉の重さが分かった。昔読んでもらった。その記憶が陽人の中にある。
「また来てね」
「来ると思う」
陽人は本を抱えて出て行った。
カウンターで立ち止まる人も最近は少し増えた。
本の場所を聞く人だけではない。
昔読んだ本の題名を思い出せない人。誰かに薦めたい本を探している人。借りるわけではないけれど、棚の前にいると落ち着くと言う人。
詩乃はそのたびに、すぐ答えを出そうとしないようになった。
少し待つ。相手の言葉が出てくる場所を、空けておく。
夜間司書の仕事は、夜だけのものではなくなっていた。
昼間の図書館でも、人は少しずつ、自分の忘れものを探している。
午後、菜月が来た。
自習室ではなく、展示コーナーの前に立っていた。真澄の詩集の隣に、先月から新しい展示が加わっていた。図書館員が地域の利用者の言葉を集めた小さな展示で、詩乃が企画したものだった。
「宮原さん」
詩乃が声をかけると、菜月が振り向いた。
「倉橋さん、こんにちは」
「展示、見てくれていたんですか」
「はい。この言葉、好きです」
菜月が指差したのは、展示の中の一枚だった。真澄が寄贈してくれた手製の詩集から引いた言葉が、そこにあった。好きなものを好きでいることは、勇気がいる、という言葉だった。
「真澄さんという方が書いてくれた言葉です」
「知っています。以前ここで見かけたことがあって」
「菜月さんは、今も絵を描いていますか」
「描いています。美術部の展示が終わってからも、家で」
「続けているんですね」
「続けるって、決めました。進路については、まだ親と話し合い中ですけど。でも、描くことをやめることだけは、しないと決めました」
詩乃はその言葉を聞いた。
やめることだけは、しないと決めた。それは、詩乃自身がこの半年で学んだことと、同じ言葉だった。
「それでじゅうぶんだと思います」
「倉橋さんは、好きなことをやめたことがある、と言っていましたよね」
「はい」
「今は」
「今は、また始めています」
「そうですか」
菜月は展示をもう一度見た。
「よかったです」
それだけ言って、菜月は画集のコーナーへ向かった。
夕方、真澄が来た。いつもの席で新聞を読んで、それから詩集を一冊借りた。帰り際にカウンターで詩乃に言った。
「冊子の第二号を作っています」
「第二号ですか」
「千鶴子の詩だけでなく、最近出会った詩も入れようと思って。一号は後ろを向いていたけれど、二号は少し前を向こうと思います」
「楽しみにしています」
「できたら、また持ってきますね」
真澄は出て行った。詩乃は真澄の背中を見送って、それからエントランスの展示ケースを見た。水色の冊子が、今日も飾られている。
閉館の少し前、佐鳥が来た。
詩乃はカウンターで手続きをしていた。佐鳥は入り口で詩乃を見つけて、手を上げた。
「また来た。今日はコピーとかじゃなくて」
「何かご用ですか」
「倉橋さんの新しい原稿、読ませてほしいと前に言ったけど、まだですか」
「まだです」
「そっか。完成したら教えてよ。楽しみにしてるから」
「完成したら、ですね」
「うん。まあ、急がなくていいけど」
佐鳥は手を振って、出て行った。
完成したら。
詩乃はその言葉を聞いて、もう少しで完成する、という感覚があることに気づいた。終わりが見えている。まだ書いていない部分があるが、どこへ向かっているかは分かっている。
閉館後の作業が終わった。
灯里が「今夜は地下に下りますか」と尋ねた。
「少し、下りたいです」
「一緒に行きます」
地下に下りると、栞丸がいた。今日は棚の低い段に座って、部屋を見渡していた。案内役らしい姿勢だった。
「新米司書と堅物司書が来たのじゃ」
「栞丸、今夜は改まっていますね」
「別に改まっておらん。ただ、今夜は大事な夜じゃ」
「なぜですか」
「新米司書が、最後の返却をする夜じゃ」
詩乃は文芸誌の棚を見た。
「今夜ですか」
「今夜じゃ。われには分かる」
詩乃は棚の前に立った。
文芸誌を取り出した。表紙を見た。発行年を見た。中を開いた。
目次のページ。自分の名前。ページをめくる。「言葉の地図」が始まる。
最初から、最後まで読んだ。
読みながら、声が聞こえた。あのころの自分の声が。でも今夜は、その声と今の詩乃の声が、完全に重なっていた。距離がなかった。
三年分の距離が、なくなっていた。
読み終えて、詩乃は文芸誌を閉じた。
「返せます」
「うむ」
栞丸が頷いた。
「どうやって返すんですか。自分の忘れものを、自分に返す方法が、まだ分からなくて」
「簡単なことじゃ」
栞丸は棚から降りてきて、詩乃の前に立った。
「文芸誌を、書いた者に戻すのじゃ。書いた者とは、今のおぬし自身じゃ。受け取れるようになった、今のおぬしに」
「受け取る、というのは」
「またここから始めることじゃ。あの話を、自分の出発点として受け取ることじゃ。落選して、止まって、三年経った。それを全部含めて、これがわたしの始まりだと受け取ることじゃ」
詩乃は文芸誌を、もう一度胸元で持ち直した。
「受け取ります」
それだけ言った。
声には出さなかったが、続きがあった。
あの頃書いていたわたしへ。止まってしまったことを、責めなくていい。三年間、書けなかったのではなく、ここまで来るための時間だった。忘れもの図書室で出会った人たちのことが、今のわたしの言葉になっている。陽人くんの声が、菜月さんの絵が、真澄さんの手紙が、灯里さんの返事が、全部今のわたしの中にある。あの頃書いていたわたしが想像していたより、ずっと多くのものを、今のわたしは持っている。
文芸誌を棚に戻した。
今度は、少し違う場所に戻した。今まで置いてあった段ではなく、一段上の、少し目立つ場所に。
「そこでいいのじゃ」
栞丸が言った。
「忘れものではなくなったものは、棚の中で場所が変わる。重みではなく、力として棚にある」
詩乃は棚を見た。文芸誌が、新しい場所に収まっていた。重くなかった。棚の一部として、ただそこにある。
灯里がそっと言った。
「返せましたね」
「はい」
「よかったです」
「灯里さん」
「はい」
「わたしたちは、似ているところがありましたね」
「はい。書けなくなったことと、返せなくなったことが」
「でも、両方、動き始めた」
「動き始めました」
詩乃は棚を見渡した。
まだ返されていない忘れものが、いくつかある。でも今夜は、それが失敗に見えなかった。それぞれの時間に、それぞれの夜が来る。
「これからも、続けます」
「わたしも続けます」
地上に上がった。
カウンターに戻ると、律子が待っていた。詩乃が渡した原稿の紙を、手に持っていた。
「読みました」
「ありがとうございます」
「感想は言わないでほしいと言っていましたが、一つだけいいですか」
「はい」
「この主人公、言えなかった言葉を届けようとして、届け方が分からなくて、でも諦めない。それはあなたが書きたかったことでしょう」
「はい」
「続きを読みたいです」
詩乃はその言葉を受け取った。
感想ではなく、続きを読みたい、という言葉だった。それが今の詩乃には、一番大きな言葉だった。
「書きます」
律子は紙を詩乃に返した。
「図書館はね、本を置く場所ではありません。人が、もう一度何かを探しに来る場所です。あなたがここに来て、探したものが見つかりましたか」
詩乃は少し考えた。
「見つかりつつあります。まだ全部ではないけれど」
「それでじゅうぶんよ。全部見つかってから次に進む必要はないから」
律子は館長室に戻った。
閉館の施錠を終えて、詩乃と灯里はエントランスを出た。
「灯里さん」
「はい」
「不思議ですね。最初は、あの扉の前に立つだけで怖かったのに」
「今も、怖いことはあります」
「はい。でも、一人ではないので」
灯里は少しだけ、歩幅を詩乃に合わせた。
二人は並んで、夜の図書館を歩いた。
「透子さんと、今度みんなでご飯に行きますね」
「透子が楽しみにしています。またメッセージが来ました」
「透子さんはメッセージが多いんですか」
「多いです。わたしの三倍くらい送ってきます」
「それが透子さんらしい」
「そうです。わたしとは正反対で」
「でも釣り合っていますよね」
「あなたが以前も言っていました、それ」
「本当のことだから」
道が分かれる角まで来た。
いつもと同じ場所だったが、今夜は少し違う気がした。
「また明日」
「また明日」
灯里は歩いていった。詩乃はその背中を、今夜は少しだけ長く見送った。
軽い背中だった。
透子さんに会いに行った日より、ノートを返した夜より、昨日より、今夜の方が軽い。それが分かる程度には、詩乃は灯里のことを知っていた。
詩乃は歩き始めた。
ポケットの中で、栞丸が目を開けた。
「新米司書」
「今は詩乃です」
「詩乃」
「はい」
「今夜、何を書くつもりじゃ」
「物語の続きを」
「止まるかもしれんのじゃ」
「止まっても、また書きます」
「うむ」
「止まることと、やめることは違うって、栞丸が教えてくれましたから」
「われがいつ言ったのじゃ」
「佐鳥くんが初めて来た日の夜からずっと、いろんな形で言っていました」
「そうじゃったか。われも覚えておらんのじゃ」
詩乃は少し笑った。
「栞丸は、わたしが来てから変わりましたか」
「われは変わらんのじゃ。新米司書が変わっただけじゃ」
「そうですか」
「……少しだけ、にぎやかになったのじゃ。この図書館が」
栞丸は小さな声でそう言って、また丸まった。
それ以上は言わなかった。
家に着いて、詩乃はコートを脱いだ。
机の前に座って、パソコンを開いた。原稿のファイルを開くと、五十枚を超えた物語が画面に広がった。
カーソルが、書き終えた最後の行の次に点滅している。
詩乃はそこに、続きを書いた。
主人公の女の子が、古い図書館で、誰かの言葉を見つける。その言葉を届けようとする。届けることの難しさを知る。でも諦めない。そうしているうちに、自分が置き忘れていた言葉に気づく。それを受け取ることが、物語の最後だった。
詩乃は書きながら、物語の終わりが近いことを感じた。
あと少しで、主人公は最初の一行を書く。
その一行が書けたら、この物語は終わる。
でも、終わりではなく、始まりだ。
詩乃は、物語の最後の場面を書いた。
朝の光の中で、主人公が机の前に座っている。窓から光が差し、目の前には新しいページが開かれている。
詩乃は、最後の一行を打った。
朝の光の中で、彼女は最初の一行を書いた。それは、忘れものではなく、これから誰かに届ける言葉だった。
詩乃はファイルを保存した。
画面には、書き終えた物語が残っていた。
その下で、カーソルが静かに点滅していた。
窓の外を見た。十二月の夜が、深かった。
明日も、図書館に行く。
開館前の時間に、カウンターの端に座って、ノートを開く。
灯里が隣に来る。
棚が静かに並んでいる。
栞丸がどこかの棚の上にいる。
律子が館長室の明かりをつける。
そこから、また始まる。
毎日、そこから始まる。
忘れもの図書室の扉は、今夜も地下でひっそりと閉じている。
でも明日の夜、また開く。
夜間司書が触れれば、開く。
詩乃は明かりを消した。
眠る前に、もう一度だけ思った。
忘れもの図書室には、まだ返されていない忘れものがある。
それでいい。
待っているものがあるということは、まだ続きがあるということだから。
朝が来たら、また書く。
朝が来たら、また返す。
それだけが、明日のことだ。
(了)




